2016年7月9日土曜日

宿題考


夏休みの課題とか宿題とかをどうするか、って話になる季節なんだけど、ずっと悩んでる。

量、質、何を、どのように、なぜ、いつまでに?

過去の自分を振り返る。

大量の課題をこなさせれば数字が上がると思い込んでいた。
宿題をさせておけば保護者の目にも「あの先生は鍛えてくれる」と映るし、受けがいい。だから宿題を出そう、そんな安易な気持ちが若い頃の自分にはあったと思う。

月に1冊ノートを仕上げさせるために、単語帳の練習をひたすらさせた15年前。ある男子のノートに、頭からお尻までsnoopyと云う綴りが埋め尽くされて提出されたのを見て、敗北感しか味わえなかった思い出。

9月1日に提出された複数冊の問題集。課題テストで低い点数なのに、問題集はすべて丸で提出され、それに判を押し、閻魔帳にチェックをして、幾ばくかの平常点を加点した無思考の自分。

なんの意味があってあんなことをしてたんだろう、と未だに思う。
どうしてそんな無意味なことを自分は止められなかったんだろう。

教育を熱く語る議論にどれほど首を突っ込んでいても、日常ではそういう無意味で不毛なことが現実に繰り返されている。

何が教育なのか、と思ったりしてしまう。

今の子供には考える力がない、意見を言わない、単語を覚えない、日本語力がない、など、子供の能力が低いという話もよく耳にする。

でも、朝から晩まで椅子に座らせて、ひたすら先生の話を聞かせる授業ばかりを受けさせられて、一体いつ自分の意見を言う機会があるのか、いつ自分の思考を巡らせる暇が訪れるのか、いつ本を読むほどの余裕が与えられるのか。

子供を鍛える、という言葉。それは本当に子供の人間力を上げることになっているんだろうか。

立ち止まって考えたら、疑問に思うことを、無思考、思考停止で日常繰り返しているのは、大人の方ではないか。

博多弁に「そらそうばってん、これはこれたい。」という言葉がある。お前の言うことには一理あるが、これは変えられないのだ、という意味だ。

なんだか、そういう無言の空気の中で、僕ら大人は子供たちに接しているんじゃないか、そんな風に思う。

変わらなければいけないのは、子供の学習姿勢でも態度でもない。大人の方なんじゃないか。

夏休みの課題、どうしよう。もう直ぐ結論を出さないといけない。

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