2016年3月9日水曜日

「空気」は伝えたい。

「空気が読めない」という言葉がここ10年弱くらい叫ばれていて、KYなんていう言葉も流行った。そのカウンターパートで「空気は読むな」「鈍感力」などの言葉も持て囃されて久しい気がする。この2つの言葉はどちらも二項対立同士で睨み合っているような構図がどうも好きになれず、そのどちらの意見にも、満足に与することができずに居た。空気が読めないやつだな、という目線は、空気を読める人の立場から言っている言葉なのだと思う。その逆の「空気なんて読まなくていい」は、同調圧力に負けるな、というエールでもあり、傷の舐め合いに参加するな、というこれまた上から目線を感じるところもある。空気が読めないなら、読めない人に伝えてあげて、その人も仲間に入れてあげればいいし、空気が読めなくても、場に溶け込もうとしない(或いはとけ込めない)その人を尊重するというdecencyこそ、大人が大人たるにふさわいいcourtesyなのではないか、と僕は思う。場の空気、というのはそこにいる人たちが生み出しているものであって、その場に相応しくない空気が紛れ込んできたときには、空気を混ぜ合わせるか、或いは別の空気は別の空気として、消し去らない、という態度も取れるはずなのである。なのに、誰もそれを言おうとしない。溶け込めない人を黙殺しない、溶け込もうとしない人を仲間はずれにしない、という共同体の方が、同質のもの同士が寄り集まるコミュニティより生き抜く力はあるのではないか。生物の授業でそう習ったではないか。なのに、人間はそれがなかなかできないから不思議で仕方がない。なんとなく生き辛い世の中になってきていて、意見の合わない人同士が、お互いに泥を投げ合うか、折り合う道を自ら絶って、どちらか双方が死ぬまで戦いをやめない、という誓書にサインし続けるような生き方ばかりが目立つように思う。二項対立で生き抜こうとすると、必ず行き詰まる。割り切れない式を行ったり来たりするのが人生なのだ、と吉田兼好が書いているではないか。だからこそ人生は面白いのではないか。古典の授業で僕らはそれを教わったのではないか。臨機応変や、対応力や、その時々に合ったフレーズを探し出してくるのが上手い人がいて、その時々にそれぞれの生き方をそれぞれに割り振って、割り切れないことをなんとか理解しようと誰もが努めているのだと思う。でも、シンプルに、何か困ったことがないですか、大丈夫ですか、自分で良かったら手伝いましょうか、の一言を毎日誰でもいいので、誰か一人にでも伝えることができれば、政治や経済を論じ、世界の行く末を案じる事よりも、余程世界平和に貢献することになるのではないか。風呂に入りながら、そんなことをぼんやりと考えていた。

もっとも大いなるもの

単語の綴りを一生懸命練習するけれど、何度も、何度も間違える子がいる。 でも、授業中、何度もうなづきながら説明を聞き、話に耳を傾け、大きな声で歌を歌う。フォニックスの発音を、口を縦横いっぱいに開けて発音する。 oshienと単語テストに書いてきた。oc...