2015年3月21日土曜日

ヨーロッパ映画について

今年に入り、1月2月と随分と欧州の映画を観ました。ヨーロッパの映画はキリスト教の影響を、濃淡に関わらず受けていると思っていましたので、何故そのような終わり方になるのか、どうしてそのような展開になるのかをずっと考えたりしていました。

自分なりにある結論に至ったのですが、ヨーロッパ人にとって、どのように人生を捉えているか、という問題がどうしても頭から離れませんでした。

キリスト教の人生には、輪廻転生の考え方はありませんから、人間は生まれたら死まで一直線で、天に召されればそのまま二度と帰って来ない、という考え方が根底にあります。大雑把に言えば、ですけどね。叱られそうだけど。

仏教の考え方は基本的に輪廻が基準ですから、死ねば生まれ変わる、と思っている。死んでしまうと別のものになってしまうからこそ、今しかない浮き世は儚いと閑雅て要るんじゃないか。僕はそう思ったんですね。侘びとか寂びとかの観念もそこに帰属しているんじゃないか、と日本映画とヨーロッパ映画を交互にみながら考えていたんです。

たとえばフランスの映画を観ていて、これはもう、何でも良いんですけど、ゴダールだろうが、ジャックタチでも良いけど、映画の筋とはぜんぜん関係ないきれいな風景とか、アートになる様な景色とか、そういうのがパッて挿入されるんですよ。高校生とか大学生の時にこれがさっぱり分からなかった。なんで筋と関係のない画を入れる必要が有るんだろ、って。向田邦子のドラマとか、橋田壽賀子のドラマだったら、考えられないことです。だって、それは筋とは無関係ですから。

でも、ヨーロッパの映画って、必ず入る。何故だろう、って。考えたんです。

死生観みたいなものが「人生一度きり。」”You only live once!”だからこそ、人生そのものの虚しさみたいな観念がグルッと一回転して、カルナバルだ!ってラテン人達は考えたんじゃないか、と僕は思ったんです。美ーエロティシズムー死、ていう観念は一直線で繋がってるんだ、って大学生の頃ジョルジュバタイユの本に書いてあるのを読んだんですけど、ぜんぜん意味が分からなかった。それを三島由紀夫さんが、俺はそういうのを掘り下げて作品を作ってるんだ、って言って、ラディゲの死とか、サド公爵夫人とかをご自身で解説なさってあるのを読んで、ぜんぜん意味が分からなかった。え、なに言ってるの、って。

ところが、齢四十一にして、ここに来て、ああ、ってなった事があるんです。なるほどね、と。

僕らが英語の時間に時制を教える時に、時間軸を左から右に矢印で引いて教えます。あれを何百回とやっていて、その時には考えもしなかったんですけど、ヨーロッパ映画を観てて、ああ!って膝を打ったんです。ユリイカ!ってこう言う時に言うんだ、ってそのとき思いました笑。

ハイデガーの時間と存在って、これまた小難しい哲学書が有って、これも大学生の時分、背伸びして一生懸命読みましたけど、ぜんぜんその時は意味が分からなかった。でも、全ての過去のdotsconnectする時が有るんだな、って実感を伴って分かった気がしたんです。

人生は直線上に左から右に時間が流れ、その後、死が訪れて、天に召される。この流れが前提にあるとすると、生きる事に執着しないと、天国に逝ってしまっては後の祭りだ、っていう考えがまずあって、その上で、だからこそ、生きてるうちに生に執着するんだ、っていう無意識の概念が身体化されてるんじゃないか、だから映画も芸術も生活もあんな風になるんじゃないか、と僕はぼんやり考えたんです。

たとえばヨーロッパを旅行するとどこの国の彫像も、男は筋肉ムキムキでマッチョを極めてますし、女性の裸体の絵や彫刻はわんさかあります。子どもも大人もそれが当たり前だと思って、そういう芸術品が無造作にポンポン置いてある。

これは、生きることに執着すると、逞しさを極めたものこそが、もっとも生きる力があり、生命力で満ちているんだ、という象徴として、そういうものに美を求めた事の帰結なのではないか、と僕は考えたんです。そう考えると自然に、ああ、なるほどね、って。

また、裸体は性に対する執着です。性は命の誕生に繋がる行為ですから、もっとも美しい裸こそが美しい生命を宿すのに相応しい、と彼の国の人々は観念したのではなかろうか、と僕は考えたんです。

死して天人と成る前に、生きる事に執着し続け、人生を謳歌することこそ、もっとも美しい生き方なのだ、と。だからヨーロッパ人は基本的に我がままなんだろうし、生活の中に美を意識し、取り入れるんだな、と考えを新たにしました。

たとえばファッションにしてもそうです。儚い流行のサイクルみたいなものがあって、パリコレみたいなものも、季節ごと、年ごとにトレンドがどんどん取って代わられる。それは単純にオルタナティブが先行者を取り替える、ということではなく、生きる事に執着するが故の、美への飽くなき追求の一端なんじゃないか、と僕は思ったんです。

だから話の筋とは関係ない美しいものが画像に取り込まれていても映画がきちんと成立する。生きることへの執着そのものが人生讃歌なのだ、と考えている人たちに取って、なんら不自然はないのだと思います。根拠もヘチマもない考えで申し訳ないんだけど、こんな風に思ってヨーロッパ映画を観ると、妙に納得してしまうんです笑。

逆に日本映画は侘び寂びみたいなものがここ彼処にあって、美しかったり、感情の高まりみたいなものの描き方が剥き出しになっては出て来ない。それこそ、谷崎潤一郎さんの言葉を借りるまでもなく、十言う所を七しか言わない、チラリズムのようなスタイルで、人生を描き出す。その、微かにしか現れて来ない美しさとか、儚さみたいなものに、我々日本人はアワレを憶える。それがDNAに組み込まれてるんじゃないか、と錯覚してしまうほど、映画で描かれるわびしさの中に美しさが在する部分と、観ている物が心の琴線の弦を共鳴する箇所がピタッと一致する。そんな気がしているんです。

輪廻転生は人生がぐるぐるっと一回転してまた振り出しに戻る、っていう観念ですから、死んでも帰ってくる、っていう発想でしょ。そうすると、生きているうちに人生を謳歌する手法として、美を全面に打ち立てたり、強さを誇る事、あるいはエロティシズムが露骨に剥き出しになることを佳しとしない嫌いがあるんじゃないか、と僕は考えるんです。

だって、生きてるうちにそんなものにしがみついたって、どうせ死んじゃうし、死んだら死んだで、成仏しても、別物になって、はい、ってまた生まれ変わるんですから。その、儚き一時の中、虚しき世の中に僅かながらに在する美に萌えを抱く気持ちが、私たちの中にはある。

これは「北のカナリヤ」っていう吉永小百合さんの映画を観ていて思った事でした。ああ、これって二十四の瞳と同じ様なモティーフを持ってるんじゃないかな、って。

簡単に筋をお話しますと、吉永小百合さんは島の分校の新任教師で、ご夫婦で赴任して来られて、子ども達に合唱を教え、コミュニケーション能力のない子どもの歌の才を見抜き、その子が立派に歌えるように教え育てます。その時の合唱の仲間はその小さな学校の子ども達全員なんですけれども、吉永さんは島の妻のある男性と不倫をしてしまい、旦那さんは自殺をして、島を追い出されてしまう。悲惨極まりますね。

その後、数十年を経て、ある日、コミュニケーション能力がなかった子どもも立派に就職しているのですが、なにぶん、色々と難しい生き方を強いられてて、ある日、人殺しをしてしまう。捜査の手が吉永さんにも及びます。犯人の青年に綴った手紙から刑事が捜査にくるのです。

青年はとうとう、元の島で逮捕されることになる。しかし、彼が逮捕される前に吉永さんが刑事さんに頼むんです。時間を下さい、って。その後、警察が見守る中、かつての合唱のメンバーが、彼の連行の前に、一緒に成って昔の合唱を唄って物語は終わります。

どこにも救いがないんじゃないか、って暗澹たる気持ちになるくらい暗いんですけど、この最後の、ちょっとだけ幸せな感じがほんのり残る感じこそ、日本人の持つ「もののあはれ」の観念の現れなんじゃないか、と僕は考えたんです。

二十四の瞳も、戦前戦後を経て、成長する子ども達、大人の子ども達に対する想い、平和への願いが込められていますが、事の悲惨さは北のカナリヤと同じです。大人になって再会しても、死んだ人がいたり、生活が立ち行かなかったりで、ぜんぜん救いがない。でも、再会できたメンバーで旧知を温め合う、っていう仄かな、おおよそ救いとは呼べないんじゃないか、ってくらいのちょこっとだけ幸せな一場面が、遠慮がちに添えられるだけです。

アワレ、ですよね。これは色々な漢字に置き換えて考えても、全部意味が成立する。憐れ、哀れ、矜れ、何でも良いけど、死や悲惨さの中に希望を失わない、というか、ほんのり微かに見え隠れする美みたいなものに希望を見いだす文脈が敷かれたものを佳しとするというか。

こんな風に考えられるようになって、僕は高校生の時に友達と観て、ぜんぜん意味が分からなかった映画を見返してみようと思っています。

フェリーニとかゴダールの映画にも、そういう意味もあったのか知らん。よう知らんけど笑。

ではまた^^


良い週末を^^

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