2017年2月28日火曜日

大人のいない国の言論について

批判を恐れたらいけない。でも、覆面はもっといけない。批判をするなら自分の名前を晒さないと。2ちゃんねるに一定の効果を認めることに僕はどうしても同意しかねる。

覆面言いたい放題は社会の改善に貢献し得ない。論や発言に無責任だから。覆面の言論の自由は、表現の自由のギリギリ最低ラインだと認識していないと、言い分がどんなに正しかろうと、説得力を欠く。

それを棚に上げてはいけないのではないか。大人ならばこの社会の足の引っ張り合いが止まないのは、それを理解できないのではなく、理解しようとする姿勢が欠けたままに言論の自由をがなりたてる幼稚な人が声高になんでも言うからではないか。子供に示しがついたものではない。情けない。

この頃、身近でそう言う発言を目にしたり耳にしたりする機会が増えた。
世も末だ、と嘆くのは簡単だが、そう言う気持ちで切って捨てる気にどうしてもなれない。

ことは子供の未来に関わる教育について、である。

喧嘩両成敗とか、三方一両損の法とか、昔はよくしたもので、まぁまぁ、そう青筋を立てなさんな、と言う府落ちが社会に共有されていたからこそ、穏便に、と言う構えが文化に根付いていた。(と、昔の話を聞く限りは思われる。少なくとも今みたいにハイパーにギスギスしたりしていなかったと思う。)

なのに、自分を攻撃された、ないしは、自分が攻撃を加えた、と言う2者は、互いの齟齬を噛み砕くことなく、一方の主張を捲し立てるのに忙しく、相手の意見など、聞いていないばかりか、毛頭聞く気もない。議論が聞いてあきれる。

相手に正対して、呼吸をしっかりと保ちながら、相手にものを言う、と言う姿勢が失われて久しい。反省一入なのは、僕もご多聞に漏れず。

批判が改善に促されるのは、互いに、物事を放題を許さず、善意に取り続ける、と言う構えが共有されていて、初めて成立しうることであって、そうでなければ、ただのがなり合いである。身もふたもない。ただの悪口の言い合い。子供の喧嘩だって、もっとマシだと僕は思う。

いい歳をした大人(ほんとに大人なのかな、しかし。)が、自分の主張をがなり立て、相手を言い負かす事が「論破」であると信じて疑わずに、互いにそれが議論だと思い込んで言い合いを続けている様を子供が見て、果たしてなんと思うだろうか。

それを見た子供は、ああ、やっぱり声がでかくて、金と権力を持ってて、一定の力があるやつに巻かれとかないと、色々とめんどくさいよね、と思うに決まっている。

その姿勢を大人が子供の前に晒していると言う自覚なくして、子供に一体何を教えるのか。馬鹿馬鹿しいと言う自省がまるでない。情けない世の中だと僕は思う。子供に本当に申し訳ない。

言動に責任を持つからこそ、言論の自由には一定の意義が認められる。それに人類が同意し得たからこそ、西洋の憲法には王の封殺を許さない、と言う一言が書き加えられたはずではないか。

当今、世の東西を見渡して見て、その心構えを持たぬまま、好き勝手に言い散らかして、声の大きい方が優勢、と言う落とし所を世が受け入れている様相が情けない。子供は良い。当の大人が、それを利用して、ますますの醜悪さを子供の前に晒し続けているその姿が醜い。

自分が馬鹿なことに気づけないほど、人間が野蛮化している。そのことに気づいていないことではない。気づけない感覚を失っていることの危機感を持たず、持論の正しさをひたすら主張しづけるおじさんおばさんが世に跋扈していて、それを次世代を担うはずの子供達が静かに見守っている、と言う恐ろしい構図に気づけない大人の責任である。

困った時代になったものだ、と思う。


2017年2月26日日曜日

英語教育ルネサンス

岡山の津山と大阪でのCLILワークショップを終えて、今帰宅しました。充実した週末だったと思います。

*4技能をあらゆる角度から〜新しい時代の幕開け

8年越しに関わっている"Steve Jobs' Commencement Speech"を題材にした授業も、CLILのフォームにまで昇華して、スピーキングとライティングを伸ばしつつ、文法、語彙を自然な形で使って伸ばしていき、さらに添削を経て表現力をより正確な方向へと導きつつ、さらにauthenticな素材に大量に触れることにより、1つの教材から出発して、幾通りにも切り口を変えながら、多くの視点を学びつつ、確かな英語力を身につけていく、という授業スタイルを、仲間と共に構築していく流れが確実にできていきつつあります。


この2年、仲間と一緒に模索してきた授業のスタイルや形態、指導法も、手探りの部分もかなりあり、悩んだり、産みの苦しみを味わってきたのですが、和泉先生の本を読み、今まで悩み苦しみながら、時には生徒たちから元気をたくさん戴いてやってきた授業は、こういう風な系統、ないしは携帯を辿っていたのか、ということを、第三者から懇切丁寧に教えていただいた、そんな感慨を読後に抱きました。

また、自分たちがやっていることは、こういうスタイルなんだな、ということも、和泉先生のご示唆からうかがい知ることができ、先生の研究により、自分たちが見えなかった課題や、今後取り組むべきチャレンジもご教授いただけた次第です。

和泉先生にはまだお会いしたことはありませんが、もしお会いすることがあれば、新しい英語教育の幕開けに大きな旗振りを率先してくださってあることに、最大の敬意と謝意を表したいと思っています。

*旧知の方達からの相談や来訪、自彊不息時候。

ここ1年くらいは、全国各地にお招きいただいて、ワークショップをし、多くの先生方と情報シェアを繰り返し、交流を深め、ネットでのやり取りを通じて学びを深め合う関係性が構築され続けています。

特に、東北、近畿圏、中国地方、そして、何よりも、これまでなかなか交流の深まらなかった地元九州での活発な交流が著しいものになっています。

ワークショップやセミナーでお招きいただく度に驚くのは、10年来の旧知の知り合いや、過去に一緒にいろんな勉強をしていた仲間に次々と出会うことです。

僕は自分で「暁の会」という勉強会を、親友の西山くんと主催していて、京都を中心に(博多もたまに)ワークショップをこじんまりと行なっています。また、毎週水曜日に、スカイプで
英語でディスカッションする会を60分〜90分の範囲で行っています。その他も、外部の団体からお招きいただいて、ワークショップをさせていただく機会が増えました。

今は、以前に自分がやっていたこととは全く違うことをやっていますし、標榜するベクトルも全く違う方向を向いています。

子供達にauthenticな素材を大量に提供し続け、より多くのsense of Englishに直に触れてもらい、それを軸にしながら、旧来から得てきた授業メソッドやスキルに改良を加えつつ、新しい指導法を模索している、というのが現状です。


多くの旧知の仲間が、僕や今行動を共にしている多くの仲間の主催するワークショップやセミナーに数多く出没するようになった、という事実に、1年前は戸惑いを覚えていましたが、このところ、その数がますます増え続ける一方で、実際にはお会いしていないけれど、メールなどで、指導改善で悩んでいる、というご相談を受けることも増え続けています。


これはとても驚くべきことだと思います。

暁の会を始めて2年が経ち、かなりマニアックに英語教育論をああでもない、こうでもないと、自由奔放に論じ合いながら、子供達にとって何が最良かを模索し続けていますが、その流れにあって、これまでは旧来型の指導にこだわってきていたはずの旧知の知り合いが、かなり同じような志向を模索するセミナーやワークショップに参加するようになってきた、という事実。

一つ言えることは、4技能を重視した入試制度の変化に対し、社会の流れを汲み、危機感を抱く先生方が増え続けていることを意味しているのではないか、と仲間で日々議論を重ねています。

僕らが今こだわらなければいけないのは、思い込みや、従来成功してきたメソッドにしがみつくことではなく、確かなデータ、丁寧な実証、細かく練り直されたspecificなメソドロジー、そして、グローバル教育に於ける協働学習の意義づけの理解と実践と応用だと僕らは深くその理念を内在化して、日々の授業実践に臨んでいます。

今後も、この趨勢が勢いを加速させることはあっても、尻すぼみになったり、減少傾向になることはまずないだろうと僕らは睨んでいます。

ますます今やっている実践の検証と新たな研究を確実で確かなものにしていかなければならないと思っています。

同時に、新局面に向き合う旧知の仲間たちを、より良い方向へと導くべく、日々の研鑽に磨きをかけないといけないと思っています。

ますますのんべんだらりとしている暇はなくなりつつあります。

*根拠のあるデータと経験の集積に基づいた判断


親友からこの本を紹介してもらいました。思い込みの強い意見から自由になるために、今読まれるべき1冊だと思います。

https://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E5%AD%A6%E5%8A%9B%E3%80%8D%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6-%E4%B8%AD%E5%AE%A4-%E7%89%A7%E5%AD%90/dp/4799316850


当今の英語教育に於いては、データや数値、ないしは、生徒が実際に書いたもの、あるいはスピーキングした中身などをきちんと根拠にした上で、どんな学習指導に未来が明るいかを精査しないと、乱暴で声が大きく、大人数が集まるような考え方やメソッドに蒙昧的に追従してしまい、大きく時代の流れを見誤ることになってしまいます。

旧知の知り合い達がどんどん多読、4技能にShiftしていっています。

旧態依然とした指導法からの離脱の趨勢が雪崩を打ち、新しい学習指導への注目と高まりは、最高潮に達しつつあります。
色んな批判や批評が聴こえて来ても、この趨勢を覆す根拠にならず、益々旧タイプ指導からの離反が加速するばかりな今日この頃なのです。

2017年2月23日木曜日

新しい時代の幕開け

80名突破! 超満員御礼!凄まじい!

新時代の幕開けです。
古い時代は終わりました。

先生方で、アクティブラーニングに関心を持っておられる方、多読に興味を持っておられる方が急激に増えております。凄まじい勢いです。 旧来型の指導法に限界を感じたsilent majorityの先生方が潜在的にとんでもない数存在していらっしゃる、と言うことを、お申し込みのコメントや、メールでのお申し出で伺い知ることができます。 個人情報の観点から、詳細にはここでお書きすることができませんが、去年1年でいただいたメールの数、実に57件、今やっている指導法で、このまま将来の入試制度や、新たな指導に対応できるか、不安で仕方がない、と言うご相談を頂いています。 なんで僕にメールが来るのか、よくわかりませんが、それは一旦、端に置くとして。 この数の増え方は異常だと僕は思います。 それくらい、現状に危機感を持っておられるsilent majorityの先生方が多数存在している、と言うことだと実感しています。 すごいことですね。まだまだ受付を致しております。 多数のご来場、心よりお待ちいたしております。

【アクティブラーニング授業実践研修会のお知らせ】
3月4日(土)午後13時30分より行われるアクティブラーニングの研修会なのですが、本日付にて、参加者人数が80名を突破致しました。

とんでもないことです。恐ろしくなりました。こんなことがあるんですね、、、。凄まじい勢いです。

10日前に迫って来ましたが、もしかしたら、急遽、一挙に100名超えなんてのもありそうな気がして来ました。ものすごい数です。

今日本で一番ホットかつ、アカデミックな裏付けと緻密な計画と、真摯なご実践と、同僚とともにチームで動く同僚性を体現しておられる稀有な先生です。

手前味噌ですが、本校の同僚は英語科のみならず、体育科、国語科、社会科の先生方もご出席くださるとのこと、素晴らしいことだと思い、胸を熱くしております。

お申し込みがまだの先生方、あるいは教育関係の学部生、大学生、塾で教えてらっしゃる学生さん、大学の先生方、初等教育で英語に関わってらっしゃる先生方、ぜひお出かけください。

お申し込みフォームはこちらです。http://form.os7.biz/f/57ccfe7e/

溝畑先生のご実践に関しては、こちらのページの'Class Report'をご覧ください。https://www.eiken.or.jp/eiken/group/pdf/se2016_autumn.pdf
*日時:2017年3月4日土曜日 
13時受付開始  
13時30分開始ー終了予定時刻17時30分

場所:福岡県 学校法人西南学院中学校・高等学校構内  
(視聴覚教室)
参加費:2000円

内容:
『今から誰でも自信を持って始めるアクティブラーニング』「すでに英語ではペアワークをやっているから大丈夫」、「アクティブラーニングで21世紀型高次元スキルの獲得なんて無理」という両極端の反応があちこちで見られます。活動だけありきで「学び」が起こらないではだめです。工夫をすれば、英語授業に今までに行われていなかった観点に基づく学びの場を提供できます。

1)普通高校で4技能統合型の授業をチームとしてどう作るか
2)どうすれば授業をコミュニケーションの場にできるか
3)CanーDo Statementsを無理なく活かすには
4)ジグソー法の効果的な実践方法は
5)予習や復習はどう指導すれば良いか
6)定期考査やパフォーマンステストはどうするか

以上の点について考えて見ましょう。生徒も教員も無理なくできることを、できるところから始めて見ましょう。

そして、生徒の未来のための授業に挑戦してみませんか。

お申し込みフォームはこちらです。http://form.os7.biz/f/57ccfe7e/

2017年2月21日火曜日

授業百花

*授業百花
今日はスピーキング2日目。ペアメンバーはこちらで指定。概ね運用の仕方がわかってきました。先生がペアを組むって大事だな、と改めて実感。

スピーキングしながら評価シートにコメント書きしてもらい、フィードバックをとりました。フリーディスカッションにフラストを抱く生徒が多く、インプットがまだまだなんだよね、と頭を掻きつつ、次のクラスに移って生徒の様子を見る、の連続です。

「一生懸命伝えようとする姿勢」を活動で仕掛けていくためには、身近ではない人と組ませることも大事なんだよね、と改めて思わされる場面を数多く見ました。

授業では"On the desk"というルールを徹底させるようにしていて、とにかくカンペを見ずに英語をどうにかこうにかして伝える、という練習をさせています。でも、根気が入りますね。なかなかできるようにならない。

・同じペアで組ませると飽きや馴れ合いが来る。一方で習熟度合いが実感されやすい。
・違うペアで組ませると緊張感があり、英語が出てきやすい。ジェスチャーもこなれて来る。でも、どこまで自分が話せているかは、評価基準を指導者が洗練させないと、実感しにくい。

活動の途中で、日本語にて、改善点の話し合いの時間を1分設けるんですが、その時間がよかった、と書いていた生徒がいたので、途中で日本語思考に戻して、その後、また英語に戻る、という方が上達が早いのかな、とも思いました。 *添削の瑕疵?
昨日、今日と、授業外では生徒の添削が80枚カケル2日間で、160枚強ありましたが、これも見ていると意外と早くなるもんでして、あー、はいはい、これね、ここよ、はい、そして、ここ、うーん、これはいいなぁ、なんて思いながら指摘のアンダーラインだけして、あとは一切教えないスタイルの継続。

色々聞いて来るときに、こちらもヒントをあげる練習になるから、相互扶助ですね。とてもいい関係です。

掲載した生徒の英文には間違いがいっぱいです。文法が全然わかってないな、と思われるかも知れません。

僕たちはマララユスフスザイさんのスピーチを聞くとき、感動を覚えますが、誰も彼女の文法の間違いを論う人は散見されません。
生徒の間違いを冷笑したりすることは、フェアではないと僕は思っています。

自分の想いを英語に乗せて、一生懸命に伝えようとする生徒たちが数多く生まれてきていることにこそ、統合型言語学習の意義は見出されるのでは、と僕は考えていて、グローバル教育の先には、コンテンツをいかに充実させるかがまず先で、その後にスキルとコマンドがそれに付随してfollow upしていく流れが子供に負荷が少なく、自然に英語が身についてく道筋なのではないか、と生徒たちの活動を観察していて気付かされます。
スキルに関しては、fluencyをどんどん広げながら、accuracyを広く限りなく遡求していく求道型が良いのでは、と実感で思っています。

多読もスピーキングもライティングスキルも、文法コマンドも、鳴く前に殺してしまえホトトギス型では手も足も出なくなってしまうんだよな、と子供達の英文を見ていて思います。

実際にスピーキングやライティングをやらせつつ、多読も継続しながら、途中でKHの研修の時のようにインプットの時間、振り返りの時間、再チャレの時間を持って1つの授業パッケージにしていくことが、遠回りでいて実は一番実りが大きい、とこの頃つくづく考えさせられますね。

今日、友達と話していて、やっぱり、今やっているオーガニック言語学習って、読み切り漫画じゃダメなのよね、って二人してしみじみ語り合いました。

継続性を持ってして日々の取り組みを地味に見つめないと、一時的にすごく効果がありそうな方法って、1週間で海外英会話!な本と同じメソドロジーの瑕疵に陥ってしまいますもんね。

改めて、先生の仕事って地味だし、目立たない部分の準備や配慮、自分の英語の勉強や研鑽、教養の希求を以って支えらえていくものなんだよね、という観念を改めて内在化する機会が得られました。
毎日、頭を垂れまくっています。

英語のライティング添削はしない方がいいのかな、とずっと悩んで行ったり来たりしていました。

去年の11月に京先生のセミナーを受けて、ライティング添削をしてても、オーガニックな指導や統合的な言語活動の指導を続けていれば、生徒が英語を書かなくなる、というピットフォールに陥らなくなる、という事実を学び、生徒たちの添削をやれるようになりました。

文法のミスを指摘する=自分の内容は否定された、と感じさせてしまう危険性が文法訳読のみの指導にはあるのでは、と思います。

一方で、授業の中で、CLILに基づく授業展開や、多読によるsense of Englishの吸収、スピーキング活動によるアウトプット、良質なインプット、などにより、生徒たちが英語に接する姿勢や態度が、書きたくない、という気持ちを乗り越えさせ、もっと相手に伝えたい、という気持ちを力強く育むんだな、という事実に驚嘆しています。

生徒はもっとできるようになりたい、生徒はもっと自分の気持ちを相手に伝えたい、と潜在的に思っていると思いました。

そのためのサポートとして、添削=害悪、という図式は当たらないと今は実感を込めて思います。

物事には段階、フェイズ、状況、現場、そこにいる人、という重要なファクターがあります。

それを胸算用に勘定し忘れると、おかしな観念に取り憑かれてしまうんですよね。これが正しい!あれはいかん!みたいなアレです。


神は偉大ですね。聖書を読んでいてわからなかったことが子供たちの姿勢を通じて学ばさせる、ナウシカでユパ様が言っていた「負うた子に救われた。」というセリフは現実のものになりました。

2017年2月19日日曜日

Xさんへの手紙〜若い先生へ

いつも僕のブログは英語の先生の仕事内容ばかり書いてるんですけど、先生、って仕事、多岐に渡って色々あるんです。

学校の仕事(システムに関わること)、部活動、担任業務。
それら全部含めて、先生、なんです。
担任してみて、生徒の気持ちに深く触れてみて、
部活してみて、生徒の頑張りに励まされて、
学校の仕事、同僚と一緒にしてみて、
同僚と愛情を深め合って、
そういう過程を全部含めた上で、


じゃあ英語教育どうしようか、という話になってるんですね。

だから、外で何かやってるからどうの、とか、持論が優れているから、とか、そういうことも大事なんだろうけれども、
同僚とチームワークを作って、受け持っている生徒たちにいかにチームで団結してコミットしていくか、っていう姿勢が大事なんですね。

俺が俺が、と鼻息が荒いのは、パワーがあることで、とても良いことなので、そのパワーを自己に向けるんじゃなくて、
仲間と共に、という方向に向ける方が子供は幸せになります。

同僚を卑下したり、自分を卑下したり、自分の学校の悪口を言ったりするのは簡単です。

でも、よく考えないといけないのは、それを通して、一体誰が幸せになるのか、という1点です。

自分の自己満足が満たされるだけで、他人は誰も幸せになってないんですよね。

仲間と同じ汗をかくことがとても大事ですね。
そう思いながら、東京のサラリーマン親友とメールしていました。
まずは仲間を愛することから。

同僚を心から愛することが、良い仕事をする第一歩だと僕は思っています。

考え方もバックグラウンドも、パラダイムも性別も、生育歴も信じている宗教や考え方も、全く違う、でもその人たちを愛することから、良い仕事が始まります。

愛する、というのは動詞です。知ろうとすること、慈しむこと、いたわること、相手がして欲しいと願っていることをしてあげること、それが愛することだと思います。

耳を傾ける、頷く、なるほど、と理解を示す、それが大事ですね。


2017年2月10日金曜日

似もせず非なるもの

*多読授業の金曜日
今日は週の2回目の多読デー。(1回目は水曜日の放課後。)
ORTだけを出して読んでもらっています。生徒たちの読んでいるレベルは5〜8くらい。読み方の工夫を伝えて、ORTチャートを見ながら、読んでないもの、話の内容がうろ覚えの物なんかを丁寧に攫ってみようね、と伝えつつ、読んで貰っています。
↓ORT(Oxford Reading Tree)とは?
https://www.oupjapan.co.jp/ja/gradedreaders/ort/index.shtml

多読授業の約束事は以下の通りです。
・居眠り&内職は厳禁。
・レベル調整は都度相談。
・キリン読みの子達への声掛けと一緒に本探し
・やさし目のものに戻ってパンダ読み


↓パンダ読みとは?
http://www.aragoras.com/%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E5%A4%9A%E8%AA%AD%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%80%E8%AA%AD%E3%81%BF%E3%80%81%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%83%B3%E8%AA%AD%E3%81%BF%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%9F/


生徒がレベルにあったものを読んでいるかは、机間巡視しながら都度確認です。ぼーっとしていると時間の充実が台無しになってしまいますので、生徒たちの読んでいる本を見ながら声掛けしつつ、でも、できるだけ邪魔しないように、と配慮をしながら1時間を過ごします。



生徒達に指導を入れつつ、折にふれてぼくもレベル8を読書。「たかが絵本だろう。易しいし幼稚だ。」と言うご指摘は当たらない事は、実際にORTのレベル6以降の英文を見ていただければよくお判り頂けるかと思います。高校英文法バリバリです。情け容赦なく、繰り返し繰り返し出て来ます。


生徒達に指導を入れつつ、折にふれて僕もレベル8を読書。「たかが絵本だろう。易しいし幼稚だ。」と言うご指摘は当たらない事は、画像の英文を見ていただければよくお判り頂けるかと思います。高校英文法バリバリです。情け容赦なく、繰り返し繰り返し出て来ます。

このレベルになってくると、易しいレベルと高いレベルを行きつ戻りつした方がbetterですね。
多読をこれから考えておられる先生方に於かれましては、ぜひ実際に読んで頂き、中身を見て頂けると良いなと思っています。

実際に英文を読んでいただくと、ORTのレベル設計が、無理なく英語を理解できるように、丁寧かつ緻密に設計されていることがよくわかると思います。

まず読者を絵で惹きつけ、次にわかりやすさで門戸を広く開き、繰り返しによって瞬時の理解を促し、さらに内容の深さで虜にし、物語の連続性によって、読者の心を鷲掴みにする、このすべての要素を兼ね備えているのがORTの醍醐味です。

すごいシリーズです。レベル8まで読んでみて、改めてこの本の凄まじい威力と魔力を思い知らされています。


*受験演習=多読?まさかね。
毎年、センター試験が終わった頃から、高校三年生が、英作文の添削をしてください、と訪ねてきます。

僕が受け持っている学年ではない子たちは、どうして僕に相談に来るのかわかりませんが、まぁいいや、ってんで、面倒をみることにしています。

その子たちといろんな話をするんですが、先日、「先生、一年生は随分と早い段階から多読をさせてるって聞いたんですけど、すごいですね!受験に向けての準備が早いですね!」と言うので、一瞬頭が真っ白になり、「え?多読って、絵本読んでるんだけどさ。」って言うと、「あら?入試問題演習をさせてるんじゃないんですか?」とびっくりした顔で聞き返して来るので、やれやれ、と思いながらこんな説明をしました。

「あのね、「受験問題を大量に解くこと=多読」って言うのはさ、認識の誤謬だから。これはね、ドリルなの。多読じゃないの。

多読っていうのは「読書」なの。受験問題を大量に解かせるなんて高一からやったら、みんな英語大嫌いになっちゃうよ。」

受験問題を大量に解かせることは、演習であり、ドリルです。僕も高三の生徒にはドリルいっぱいやってもらいます。

*「暗唱ばかり+単語の鸚鵡返しのみの語彙習得=完全な理解(確かな英語力)」というトンチンカンな誤解
僕や仲間がやっている多読っていうのは、読書という崇高なプロセスであり、学校指導の中ではバラバラに教えられがちなスキルや総合力を、包括的に高めていくメソッドなんですね。

外国人の留学生に、漢字ドリルと国語の読解問題を大量に解かせたり、大量の日本語リスニング問題を解かせれば、日本語ができるようになるか、という仮説を考えてみるとわかると思います。

高三生にこういう説明を懇切丁寧にすると、僕も先生の授業、高一から受けたかったです、と言うので、生まれ変わったらまたその時ね、ということにしています。

しかし、一番びっくりしているのは、世の中は大入試改革に向けて、現場は様々に変化を求められているはずなのに、生徒がそういう認識に囚われている、ということと、さらにその生徒も何某かの情報によって、「多読=受験演習」と捉えていることです。

愕然を通り越して、呆れ返ってしまいました。

大人の責任なんだよな、とその子を不憫に思いつつも、そういう浅知恵みたいなもので、チャチな指導をして、生徒の英語力が上がると信じきっていた自分の30代の指導を振り返り、卒業生に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

思えば、鍛える、と称して、僕もそういうことを生徒にやらせていました。今となっては思い出したくない、恥ずかしい黒歴史です。

大量の単語テスト、大量のリスニング問題、大量の読解演習。受験の力はついたかもしれませんが、今だったら、そういう指導、絶対しないけどな、と僕は思います。大学受験には対応できても、痩せた英語力しか身につかない、そんな方法で生徒を指導してはいけないよね、と自戒を込めて、今現場で指導に取り組んでいるところです。

同時通訳トレーニングを導入して10年、その頃は今たどり着いたメソッドがわかりませんでしたので、リスニング問題を解かせておけば、力がつくんだ、と思い込んでいました。しかし、それは間違いだった、と今ははっきりと分かります。

同時通訳トレーニングをしっかりと取り組みながら、英英辞典とキクタンリーディングを使って包括的ドリル学習を行いつつ、基礎の姿勢作りをすることが、リスニング問題攻略のみならず、発音の向上、ロジカルな聞き取りフォーム、頭から英語を理解していく回路、音を弾かない耳を、無理のないやり方で身につけることができることもわかってきました。

*多読は読み流し、という悪意のある誤解
多読により、読解に対する姿勢、集中力、読みの速さ、文法指導の際に教えたことの再読、再認識、さらには自然な運用へ触れること、などが可能になり、英語力がかなり高い生徒のみならず、英語力がとても低い生徒や中間層の生徒たちに、盤石かつ完全なる英語力が身につくことも実感しています。

多読はただ文章を読み流して、単語も覚えなくてもいい楽な勉強法だ、と理解しているのは、悪意ある誤解です。それは多読ではありません。注意しましょう。

本物の英語力を身につけたければ、ヤクザな勉強法はやめるべきだよね、と僕は心から思います。

受験が終わった後も自分に残る英語力、それこそが本物で揺るぎない英語力なのだと僕は経験と生徒たちの伸びを見ていて深く実感しています。

ではまた。

2017年2月9日木曜日

ジワる授業

CLIL授業実践中。

昨日、「ユリイカ!」と叫んだアルキメデスのような心持ちで1日を過ごしましたが、今日はその2回目とCritical Thinkingの前段階。描写→主張、という形をとり、文法、語彙、構文、熟語など、練習に余念がありません。

*ルールはゲームの中で覚えていく
英語力を身につけていくことをサッカーにたとえますと、昨日今日の授業は、ミニゲームを通して、ルールや戦術を統合的に学ぶ活動です。

ルールブックは、ミニゲームや試合を通してわからなかったところを都度見返す、監督やコーチに尋ねる、友達と話し合う中で身について行きます。

机に座ってルールブックを完璧にマスターしても、審判にすらなれません。審判はゲームでジャッジをしながら、頭で理解しているルールをジャッジのスキルに昇華しなければ仕事が務まらないからです。

CLILというのは、Content and Language integrated Learning
(内容言語統合型学習)と言いまして、今まで各項目に分かれて別々に指導したり学習していたりしていた英語の授業が学習を、一つのテーマに沿って、切り口をあらゆる方面で変えて行きながらも、最終的には一つのゴールと習得を目指して学習と授業を行う学習形態・指導メソッドのことを言います。

気づかないうちにこのメソッドになっている英語の先生は日本中にいるよね、というのは、もっぱら仲間内での話題ですが、年間や3年間、6年間、などの中長期のスパンを持って取り組んだり、コンテンツの中身を最大限高めて毎回授業を行えているか、という点においては、まだまだ金の鉱脈が眠っている分野だと僕は思っています。

今はそんなメソッドの流れを深く身体化する研鑽を重ねているのと、できる限り多くのパッケージやスキル、そしてアクティビティを拵えて、幅広く運用されることを目指し、毎晩遅くまで必死にあーでもない、こーでもない、と考えてパソコンに向かう日々です。

*描写から主張へ:音読や暗唱の先にあるもの

生徒たちは毎回、Steve Jobsの教材を使って同時通訳トレーニングを行います。7年前にこの教材を作った時は、ここまでで授業を終えていました。暗唱、英作文、語彙習得のみに主眼が置かれた授業をしていたと記憶しています。

今は、同時通訳トレーニングもきちんとやりこむのですが、それはあくまで授業前半の帯活動でして、その後、そこで音読したりシャドーイングしたりしたものを踏まえつつ、読んだものを描写しながら、自分でお話を再現できるように仕掛けて行きます。この活動をして置かないと、英語できちんと意見を言えるようにはならないんです。



一昔前だったら、無作為かつ無差別に、コンテクストとして背景を同じくしない英文をバラバラに覚えさせて、さぁ話せ、さぁ使え、と指導していましたが、個人にある程度の読解力やメタ認知量がないと、単純暗記、単純暗唱では、異なる情報を組み合わせる情報処理ができず、学習者は不満や困難さを募らせるばかりで、英語を話す活動そのものが億劫に感じるようになってくるのです。ですから、この描写活動を友達とともにやることが、従来型の英語授業における、ドリルや文法演習にあたります。


この活動を2コマほどやったのち、3コマ目で協働学習に入ります。生徒たちに自分の意見を英語で書かせるのですが、個人で書くことは洞察が浅かったりすると、二元論などで終始したり、稚拙な形容詞を使った紋切りロジックに終始してしまう嫌いがありますので、グループで話し合いながら、友達の考えに触れ、それをメモして、自分とはどこが違うのか、共通するところはどこか、お互いの意見が一致するところとお話の核心の共有点は何か、などを話し合い、気づき合って、最終的に自分の意見をまとめる時間をとります。

*ブレインストーミング→ディスカッション→jigsaw法にて新視点
生徒は、一つのレッスン、一つの課、一つの項目を終えた後、教師が意図した文法事項や語彙を身につけることのみならず、それらを駆使して、自分の意見を英語で述べたり、書いたり、人の意見を聞いてディスカッションを重ねたり、グループで情報分析や情報処理を行ったりしていく中で、英語そのもののみならず、広い視野、論理思考、分析力、他人と協働してチームで動くチームワーク、異なる意見を受け入れながら新たな第3、第4の視点を探っていく多様性順応思考を身につけていくことになります。

今週はグループワークと自分の主張を掘り下げて練り上げる活動で終わり、金曜日は週2回の多読の2回目なので、集中して読書に取り組みます。できない子がレベル6や7をニコニコしながら読んでいる姿がとても頼もしく感じます。














先月から、豪州より留学生を迎えており、その子を多読授業へ誘いました。図書館より日本語の絵本を借りてきて、読み聞かせをし、英語で語彙や語感、文化背景の違いを説明しながら過ごしました。生徒たちに混じって日本語の多読を始めたこの子が、帰国する時にどれだけ日本語が身についているか、楽しみになってきました。子供達には、家に眠っている日本語の絵本を持ってきてもらえないか、と依頼をし、待っているところです。

しかし、まさか外国人に日本語の指導をすることになるなんて、思ってもみませんでした。歳をとってくると、いろんな経験をするから、人生、わかりません。

全部が渾然一体となり、後々にジワる授業、それがまさにオーガニックな語学学習であり、多読、アクティブラーニング、スピーキング活動、ライティング活動などを全て機能させようと提起するCLILはその一つの視座の提示なのだと僕は思っています。

ではまた(^-^)

2017年2月7日火曜日

「ワトソン、99回失敗しても100回目にうまくいけば、それは失敗ではなく、成功への過程だったということです。」

長文なので、お暇でしたらお読みいただければ幸いです。いつもすみません。
*CLIL授業2日目。
*描写から主張へ その後、2回目のdescription活動(描写)。これはreproduction
*文法をアウトプット活動に



focus on form(文法・語彙)を中心に据えた言語活動2日目。
ここからfocus on meaningに徐々にずらしていって、最終的にディスカッションの際に英語で分析を行ったり、ディスカッションを行ったりするための地均しです。

1コマ50分の授業の中で、通過しなければ到達できないゴールがあるので、1つ1つの時間を充実させつつ、ダラダラができないのが難しく、ここで切る、という時間管理ができないと、活動ごとに間延びしてしまうので、さじ加減の技術を常に要求されます。

まずは単語テスト。キクタンリーディングのweek8です。これは学年で決まっていることです。

授業の枕では、最近の生徒の学習状況を鑑みて、Oxford Essential Dictionaryの活用が停滞気味なので、その活動と講座を一つ。

その後、Steve Jobs のCommencement Speechの 1st storyを使って同時通訳トレーニング。音のみのシャドーイングまでまだまだ時間がかかりそうですが、たっぷり時間をとって、音の取り方、この段階でのシャドーイングのポイントである「聴く→出す」の実演、その後、シャドーイング、というフォームづくりの練習。

(読んだ文章を自分の言葉で再生)みたいなものですが、何のことはない、暗唱せよ、という活動に自由度を持たせているようなものです。

これをやっておかないと、自分の意見を言う時に、誰がどうした、何がどうなった、と言う文章を英語で言えなくなります。

これは、帯活動をコウモリに例えるとすると、それが化けてドラキュラになったような感じの活動でして、元はただのコウモリなんですが、ドラキュラに化けると魔力がある、と言う、不思議な活動です。意味わかんないですよね。失礼しました。

物は言いようで、とは下関の達人セミナーで、鹿児島の有島の兄貴から学んだ知恵ですが、いや、まさしくその通りでして。

どんどんペアを替えながら、同通トレで読んだ英文の中身を再生していって、とにかく文章を1つでも多く作らせます。

文法事項は、少しずつ負荷をかけていき、最終的には過去完了形の文章と過去形の文章を言えるようにして、その後、Critical Thinkingの活動へと昇華していきます。
僕は去年、このfocus on formのやり方が全くわからなくて、どうやって中身と結びつけていったらいいか、随分と悩みました。単純にドリルをすればいいのか、どう言う工夫をすれば、溝畑先生のジグソーの時のような現場になるのか、毎日悩んでいました。

俯瞰して考えればわかるだろう、と頭の良い方から冷笑されそうですが、俯瞰思考だけではわからない要素がかなりたくさんあって、例えば生徒の英語力の差や、インプット量がバラバラの集団にどのような活動を混ぜれば、自由に意見が言える英語になるのか、その辺がやってみないとわからないのです。難しい。生徒を見ているつもりでも、全然見えていませんでした。

今日の授業までで、中身に関するdescriptionは第一段階を終えました。明日以降、descriptionnのレベルを次の段階に持っていき、最終的に、来週の頭から、critical thinking の活動へと持っていきます。

12月に生徒には英語でディスカッションを体験してもらいましたが、その時よりも自分の表現の幅と内容理解のレベルがもっとアップしていることを実感してもらえるよう、鋭意授業準備を余念無く行う予定です。

これがうまくいって、試験の評価まできちんとできたら、自分にご褒美で、しばらく行方を眩まします。探さないでください。かしこ。

2017年2月6日月曜日

違うんですよ。そうじゃないんです。


*ORTセミナー@神戸、60数名参加にて満員御礼
オックスフォード大学出版より招聘を賜り、去年から数えて4回目の、Oxford University Press presents “Oxford Reading Tree Seminar”  が神戸で開催されました。当日は満員御礼で、教室に入りきれない参加者の方もおられ、OUPのスタッフの方が座席を増員するなどして対応なさっていました。

「多読を始めたいけれどどこからやれば良いのか分からないので参加をしました。」
「オーガニックで自然な語学指導に興味を持ち参加しました。」
「英語が苦手な生徒たちにどのように対応していくか悩んでいる時に同僚に勧められて参加しました。」などの声をアンケートに頂戴し、身が引き締まる思いがしました。

当日は武庫川女子大附属中高の安福先生、東大寺学園の西山哲郎先生、そして僕、がプレゼンターを務めさせていただきました。

参加された60数名の先生方、本当にどうもありがとうございました。販促の方が持ってこられてあった本の販売ブースでは、英英辞典とORTシリーズが飛ぶように売れていました。

スタッフの皆様、OUPの小林さん、安福先生、哲郎くん、本当にどうもありがとうございました。

*建設的知的生産:「批判」を恐れるのは人類の進化への拒絶
さて、セミナーの内容と反省点などに関して、僕は親友の西山哲郎くんとはかなりシビアに批判をし合うようにしています。毎回セミナーが終わると、西山くんとテレビ会議をして、お互いにどこが不味かったかを徹底的に洗い出し、批判し合います。お互いにイエスマンになってしまったら、自分達の成長が望めず、悲しいおじさんになってしまうよね、と二人で何度も確認し合い、お互いの成長を助け合える存在でい続けられるように、耳の痛いことをどんどんお互いにぶつけます。


日本人は「批判」と言う言葉に対して過敏に反応し、批判を受けることを忌避する傾向にあるように僕には思えるのですが、本来、「批判」と言うのは、「より良き改善を促す」ために行う知的生産行為であり、これを差し控えたり、避けたりしていては、知性の怠惰を許してしまうことになるのです。「非難」と「批判」と「中傷」はそれぞれ意味が違います。ですから、そこをきちんと認識した上で、お互いの改善を願ってシビアにassesment を出し合わないと、マンネリ化を自身に許してしまうことになる、と僕らはお互いに恐れているのです。

僕らが立てている宣誓の一つに、毎回同じネタをやらない、と言うのがあり、それは自分たち自身への自省と自戒の意味と、もう一つは、リピーターの方に対する僕らの敬意と謝意を忘れない、と言う想いから続いている心構えです。その意味で、必ず二人で反省会をやります。スカイプでやる時もありますし、会が終わってから、懇親会などの後に、2人で集まって必ずこの時間をとります。

今回のセミナーに関しては、お互いに満足のいく発表ができたのではないか、と思います。一方で、「どうすれば多読に踏み切れない先生方の背中を押すことができるか。」
「同僚との擦り合わせで悩んでらっしゃる先生方をどのように導くことができるか。」
「どうすれば、先生方が抱きがちになってしまう、お前のところは恵まれているから良いよね、と言うパラダイムからの脱却を促していただけるか。」
「どうすれば、多読なんて受験に役立たない、単語も覚えない、生徒が伸びない、と言う誤解を解いて差し上げることができるか。」

という4点に関して、議論が深まりました。特に多読に関するイメージの誤解を解いて差し上げる、という点に関して、また、受験には役立たない論に対する払拭をどのように行っていけば良いか、詳らかに意見を交わしました。

*「多読」の誤解を解く
多読の効能の一番優れている点は、類推力・描画アプローチによる右脳読解・補完力、の3つの能力の涵養と向上です。これらの能力は、実際に読書を続けていく中で身についていくスキルであり、コマンドでもあります。

字しか書かれていない英文を見た時に、その英文がどのような状況なのかを頭で思い描く能力が多読によって身につきます。絵本を読み、絵をじっくり見ながら文の内容を類推することを繰り返し、繰り返し行うことにより、左脳だけで処理していた文字情報に対して、右脳がイメージ喚起を促すようになります。そうすると、初見の英文を読んだ時に、全体でどんな話が進行しているか、という流れや絵が見えるようになるんです。

僕は安福先生のお話を聞いて、 form(文法・語彙)を軽視しては絶対にいけない、という点に改めて深く同意し、共感を強めました。絵本を見て、未知語の意味の類推ができるようになったり、日本語を介さなくても、英語のまま理解ができたりすることは可能です。ここで忘れてはならないのは、「語彙」という言葉はしばしば、私たちによって、「認識語彙」と「運用語彙」がごちゃ混ぜになって理解されている、という事実です。

多読で培われる語彙は、認識語彙が大半であり、獲得した認識語彙を運用語彙に昇華していく
反復が一定数で行われ、さらに、それらをどのような文脈で使うか、また、どのように組み合わせを変えるか、という試行錯誤を経ないと、獲得した語彙は運用できない、ということになります。多読万能論が危ういのは、この点において多くの誤解を生みやすい潜在性を孕んでいることに、無頓着になってしまうほど、読書という行為そのものが、楽しいし、英語が伸びてしまう点に在ります。その点に注意を払い、生徒たちに配慮をしなければ、多読によって生徒は伸びるのですが、爆発的な伸びが期待できない、ということになるのです。


*受験に対応できない?
以上のような脳の働きを踏まえると、多読が受験に役立たないのではなく、むしろ、一斉授業や完全な理解を求めるような指導を行っていても決して鍛えることのできない脳へのアプローチが可能になることがお分かりいただけると思います。

学力やメタ認知が高い位置にある生徒は、無意味に感じられる反復や、苦痛を伴うドリルに対して、嫌悪感があっても、難なくこなせてしまうため、そういう生徒たちに対して私たち教師は、しばしば、ドリルや受験演習に偏りがちになってしまいます。ですが、生徒たちはむしろ、それらの行為は自分一人でも行えるではないか、という疑念を抱き始めた時、授業に対する関心を急激に失ってしまうのです。

多読は、成績が上位の生徒に対しても、英語を苦手とする生徒に対しても、有効な学習手立てとなります。それは「本人の自由裁量が認められていること」と、「知識獲得だけではなく創造するという知的生産を許される」という2点にもっとも効果が表れている、と僕は考えています。

教師が指導をすることには、教師が考えて準備した1つのことしか生徒は学習項目を持ち得ませんが、生徒の想像を許可することにより、生徒が考え出すことは、無限に広がり、ある時は、これまでに獲得した知識や情報と、全く異なる組み合わせの妙を獲得したりすることが可能になったりするのです。

多読は、読む速さ(リーディングスピード)、読む行為に対する持久力(リーディングスタミナ)、アルファー波が出た状態を持続させることにより涵養させる集中力(集中力アップ)、の他に加えて、認識語彙の獲得、意味のある間を置いた反復により促される語彙記憶の強化と運用への応用、が促進される点で、大いに優れている学習形態であると言えます。

*終わりに代えて
これはこのブログでもフェイスブックでも、ツイッターでも何度も訴えていることですが、子供を抑え付けて指導しても、大学生になった後の学びの持続性と効果において、何らコミットしたことにはならないのです。生徒が大学生になった時、大人になった後、自分たちで進んで学びに向かいたいと考えるようになってくれる、そんな姿勢を涵養していきたい。多読や通訳トレーニング、語彙学習、スピーキング活動、協働学習はそんな遠くを見据えて設計されていると僕は考えています。個人の成績を伸ばし、その個人の力をグループによって、集団によって束ね、衆人の叡智にコミットする、という果てしなく途方もない大きな目標にコミットし続けなければ、社会が、教育が、個人が、良くなりません。分断は深まり、自分さえよければ良い、という姿勢が養生の幅を広げるだけで、肥大化した化け物のような自己承認欲求を追い求めて彷徨い続ける大人が増えるだけです。誰も幸せになりません。

点数や数字を伸ばしていくことは、アウターマッスルを鍛えていくことに例えることができると思います。考える力、疑問を持つ視点、批判的に物事を見つめる視点、分析力、類推力、描画力などは、普く拓かれた構えで世を捉える力を養わない限り涵養され得ず、知のインナーマッスルはいつまでたっても痩せたままです。

子供達の学力を伸ばす一番の指導法は、「教えないこと=子供が自分で考える力を日々つけさせること」だと僕は思っています。

「完全な理解」を子供達に求めて、がむしゃらに教師が頑張っても、子供達の受動的な姿勢がますます高まるばかりで、考える力や、疑問を持つ視点は育ちません。それは子供の成長を促したことにはならず、子供達を餌を待つ燕のように見て、餌を与え続けることに過ぎません。思考力にコミットする下地を作る準備を、あらゆる活動や指導を伴って促していくことが大切だと僕は思います。多読はその一つの手段であり、自己目的化してはいけないと強く警戒しています。

長くなりました。もう少しこまめにブログを更新することにします。
少し忙しすぎるのかも知れません。

今日はこの辺りで一つ。

追伸;(業務連絡)哲郎君、溝畑先生のセミナー、60名を超えて、今70名に届きそうな勢いで申し込みがすごいことになってるよ。OUPセミナーといい、すごいことだね。数がどんどん増えてる。関心の高まりが凄まじいですね。

もっとも大いなるもの

単語の綴りを一生懸命練習するけれど、何度も、何度も間違える子がいる。 でも、授業中、何度もうなづきながら説明を聞き、話に耳を傾け、大きな声で歌を歌う。フォニックスの発音を、口を縦横いっぱいに開けて発音する。 oshienと単語テストに書いてきた。oc...