2015年7月21日火曜日

実り多き一学期を振り返って

実り多き一学期を振り返る。今学期は19年勤めた中でも特に良い学期となった。
備忘の為にここに録することにした。

・新しい授業形態を生み出すことができたこと。
・新しい勉強会を立ち上げたこと。
・今までのやり方を一度全て捨てて、新たな方法論で授業に臨んだこと。
・積極的に新しい勉強会や学会に行き、知見を深めたこと。
・家族や親友たちと交わりを深めたこと。
・生徒達と一緒に最高の学校生活を作り上げたこと。

授業形態を新しくしたことと勉強会を立ち上げたこと、今までの方針を全て捨てて新しい授業のカタチを創ろうとしたことはとても良かった。

二年前に全て英語で授業を行った2Jクラスでの反省点を活かして、できるだけ英語でアプローチする方法と、日本語で授業をする方法のバランスの取り方が良くわかっていたので、今年の生徒達には深く考え、自分の考えや想いを深める活動を授業で積極的にしてもらうことが出来た。また、坂本先生(福岡女学院中高の先生)との再会により、多読やライティング、スピーキングのセッションに関して、見えて来ない新しい視座を数多く与えられた。

英語で全て授業をするのは準備も勇気もいる。勇気の方が大きいのかもしれない。また、無策でこれらの形態に突入すると、生徒達はハンバーガーショップのやり取り程度の英語しか話すことはできない。

良質なインプットが生徒に供給され続けないと良質なアウトプットに繋がって行かないのは事実で、このバランスを取って行くことと、生徒達に提示する教材の質を高めることが指導者には常に問われる。この授業形態を行なう時に一番苦労をしたのはそういうところだった。ただやれば良い、というものではない。

「全て英語で授業」とか、「アウトプット活動を大切に」とか、いう言葉は斬新に響くところがあり、どうしても言葉が一人歩きしてしまうので、「知識が乏しい生徒がそんなことが出来る訳がない」とか「十分にインプットで鍛えて実力を付けさせないと、授業でそんなことをしていても飯事に終わる」とかいう批判を受けがちなんだけれど、それはこちらも百も承知で、授業でこれだけをやっていても不十分なのは当たり前のことである。

従来の授業方式(訳読・文法ドリル・音読トレーニング・暗唱・ディクテーション)のメソッドとブレンドしながら、これらの新しい形態の授業をして行かなければいけない。どちらの要素も21世紀の英語教育にとっては欠けてはいけないもの。

問題なのは、どちらか一方に偏った指導のみを是とし、真っ向から全否定するような指導や信念のみを盲信すること。これは一番良くない。なにより、生徒達が一番不利益を被る。

入試制度は今後大幅に改訂されることが発表されている。僕ら英語教師が今までの指導通りの事を繰り返していると、教えている生徒達が入試に直面した時に対応できなくなってしまう。入試の先の英語力を付けさせたいと標榜して授業の改革を精力的に行ってはいるけれども、入試というフィルターを通過しないと、その先がないことも承知なわけで、その上で、日々、繰り返し繰り返し、旧来の授業方式に新しい視点を加え続けてブレンディングを繰り返している。それでしか前には進めない。それしかない。



さて、生徒達が話す英語は少しずつ少しずつBaby Stepで進めてかなければ行けない。こちらにも相当の忍耐力も要る。さらに、母語による補足説明、母語による演習、トレーニングが不十分であると、生徒達の活動が本当に陳腐で安っぽいものになる。それは本当にそうで、二年前にこの部分と必死に闘ったので、今はどうすればこのピットフォールを回避できるか、分かっている。


今年の生徒達に行なったアプローチはそこを脱し、all in Englishで授業をするときと、日本語による授業によって生徒達のインプットの質を高めて行く活動のバランスを上手く取ることができた。これは暁の会で先生方に常々申し上げていることと同じで、全部英語で授業を、と考えて猛進してしまうと、生徒達に十分な力がつかなくなってしまう。日本語と英語の両方を上手く使いながら、そのバランスを取りつつ、英語で授業をするときと、日本語でのアプローチをするときのバランスが必要になる。


二年前に全部英語で授業をした時には、これが理解出来ずに随分と苦労をしたが、それは当たり前で、日本語で深く思考したり考えたりすることができないまま、不十分で未熟な文法力と語彙力で自分の意見を英語で述べたり書いたりすることは出来ない。その点を埋めて行く作業がどうしても必要になる。そのアプローチをきちんとやらないと、教師が英語で授業をした、という自己満足に陥ってしまう。これは良くない。


また、逆も真で、英語での授業アプローチをしないと、いつまで経っても伸びやかなアウトプットや、ミスを恐れずに英語を書いたり話したりすること、さらにはそうやって自分で実際に英語を話したり書いたりする経験を通した上で、読む、聴く、という活動の意義が自発的に理解されて行く、というカタルシスを生徒が味わうことはない。インプット中心の活動を何度繰り返しても、それはインプットなのであり、英作文と一言で言っても、書いてある日本語を翻訳することだけでは、英語をアウトプットした、とは言えない。


アウトプットのアプローチは様々な方法があってよいと思う。それぞれが必要なアプローチを用いて自分のアウトプット力を高めて行けば良いのだと思う。大切なのは、万能な唯一の方法など、何一つ存在し得ないのだ、ということを指導者が自覚すること。これはアウトプットのメソッドのみながら、インプットの方法論にも同じことが言えるのだと僕は思っている。「これさえやっておけば大丈夫」という妄念に一度入り込んでしまうと、新しい指導法や新しいやり方に自分が付いて行けない時に、自己正当化に感けて、自分の幅を広げる道を自ら断ってしまうことになってしまう。これは良くない。何しろ目の前にいる生徒達の学習に広がりが出なくなる。


かく言う僕も、過去に同じ様なピットフォールに何度も何度も陥り苦戦した。過去の生徒達には申し訳なかったな、と思っている。たとえば7、8年前は、トレーニング一辺倒の授業をやっていて、アウトプット活動に関して何等注意を払っては居なかった。とにかくトレーニングで生徒達をヘトヘトにして、徹底してインプットを叩き込めば、英語力が付くものだと思い、徹底して鍛えた。それはそれで良い面も沢山含んでいるけれど、今考えると、随分とバランスの悪い指導形態だな、と思う。今の僕が当時の僕にアドバイスをするとするならば、アウトプット活動とインプット活動を半々にしてはどうか、ということと、生徒達をヘトヘトにさせることをゴールにするのではなく、生徒達が活き活きとすることをゴールにしてはどうか、とアドバイスをすると思う。絶対に当時の僕は納得しないだろうけれど笑。


また、二年前に全て英語で授業をしていた頃の自分に、今の僕がアドバイスをするとすれば、日本語による指導を通してインプットを高めて行く指導をバランス良く取り入れてはどうか、ということと、生徒達の力が伸びやかに付いて行く様に、教材の選定や、教材の使い方を工夫してはどうか、ということをアドバイスすると思う。インプットがどれくらいできているか、アウトプットがどれくらいバランス良く仕組まれているか、その辺のバランス感覚を取って行くことこそ、一番大事でしかも難しい作業であり、これをやろうと思うと、指導者の準備の負担がとても掛かるので、あまりやりたがる人は居ない。でも、やらなければ、生徒はいつまで経っても、日本語のまま英語を理解する頭から英語を英語のまま理解する頭へスイッチしていく環境が与えられないことになる。


習得の速度やインプット量のことばかりを気にしていると、生徒達が授業の中で英語を使って考えたり、思ったことを表現する時間が奪われてしまう。そこはバランスなんだよね、とこの二年、嫌という程学ばされた。


生徒達に考えさせる。生徒達が思った事、感じたことに耳を傾ける、そういうことを通じて、英語の授業の中で何ができるのか、生徒をどのように伸ばして行けば良いのか,を模索し続ける日々だけれど、新しい可能性を過去にやってきたことを結びつけ、その中から新しい視点を得て前に進むことを繰り返し、繰り返しやっている。のんべんだらり、とはしてなかったな、とこの一学期を振り返って思う。

次は教室に文学作品を持ち込みたい。教室に詩や文学を持って行き、生徒達に触れさせたい。彼らの使う英語は訓練されていない為、稚拙で幼稚かもしれない。しかし、彼らの感性に敬意を払い、彼らに出来うる限りのチャンスを与えたいと思っている。

入試の成績ばかりを意識して、生徒をタコ部屋に押し込むような指導だけに感けて、猛烈に鍛えて詰め込み教育を繰り返す指導ばかりしていた自分が恥ずかしい。得られたものも多かったかもしれないが、失われ、削がれたことも数多くあったことも、教師として反省せねばならぬところだろう。

生徒に英語の力をつけさせることは大切なことだけれど、生徒が英語を嫌いになったり、英語は大量に繰り返し暗記をすればいいんだと思い込んでしまうことはとても良くないことだと僕は考えている。外国語を学ぶことの意味はなんなのか、稚拙ながらも英語を自分で発する時に見えてくる母国語へのアプローチの大切さ、自学の意義、これらのことを英語の授業や自学を通して自分自身で感じて行くこと、それこそが外国語を学ぶ第一義なのではなかろうか。

これらのことは受動的に教師から一方的な指導を受けていても決して起動しない。言葉を実際に自分で使ってみて、友達と工夫しながらやってみて、肌感覚で実感されることである。

ベストの指導法みたいなものがあればいいんだろうけれど、残念ながらそんなものはないし、だけど、バランス感覚を欠いて、これこそがベストだ、という指導法を喧伝流布すると、その方法論にみんな飛びついて、価値観が偏ってしまう。

そういうのは、危ないんじゃないか、とぼんやり反省をしつつ、バランスの取れた指導法を模索して行かなくちゃね、とポールギャリコの猫語の教科書をめくりながら考えました。

ではまた^^

もっとも大いなるもの

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