2015年3月16日月曜日

手は伝える。

今はネットで調べるまでもなく、パソコンやスマホの言語入力機能の中に、日本語がぎっしりと組み込まれていて、予測変換も優秀になってきているので、字が実際に書けなくても、漢字を瞬時に出力する環境が整っている。

だから、「漢字が書ける」能力が衰えていく議論は影を潜め、利便性による言語能力の低下に拍車が掛かることには、世の中の関心が向かない。

書けない漢字、例えば魑魅魍魎とか、顰蹙を買う、とか。そういうのまで書ける必要はないし、話し言葉としては、これらの単語だって普段から耳にするものだから良いんだけれど、魑魅魍魎という文字を見たときに、妖怪物の怪のたぐいがわんさかと出てくる様子が、漢字で表されているので、書けなくても、その語感は伝わってくる。

漢字には象形の意味がある。絵を見て理解する、絵を描いて伝える、という作業の延長線上に漢字という文字が起こったのではないか、と白川静先生の本を読んでいて思う。

為政者の歴史を編む為に文字は整備され、始皇帝の時代にはある程度の完成を見たのが現在私たちが使っている漢字の出発点であって、その汎用性が優れていることは、数千年の歴史の風化を免れていることからも明らかなのである。

さて、自分の話。

ここ数週間、親友とメールのやりとりをしながら、お互いに勉強したことや、読んだ本なんかについて、自由に楽しく話をしている。初めは趣味で読み始めた本も、読んでいるうちに、あまりの日本語の美しさに感動して、やろうよ、と声を掛け合ったわけでもないのに、頼まれもしないノートを買ってきて、読みながら一々感動した日本語をただ筆写するという作業をしている。

その作業をしていて、今では使われなくなった表現や漢字を書いていると、その漢字が使われている時の語感が、身体に血肉化していく気持ちがほんのりと感じられて、身体が温まる。

「肌理細やか」という単語は「きめこまやか」と読むが、僕は谷崎潤一郎さんの本にこの漢字を初めて見て、身悶えした。すごい!肌が整然と細胞を並べている様子を漢字で書くと、肌理と書くんだ!すごい!そんな風に身体を捉え、それを文字にまで昇華してるんだ!すごい!先人達は巨人だ!すごい!あまりの興奮に、そのことを態々親友にメールしてしまった。
漢字は書けなくても今の世の中で立派に生きていける。それで十分だと思う。一方で、翻って考えて見ると、漢字そのものが元々持っていた語感が身体化され、その語感を伴ってその言葉を使う自分と、そうでない自分とをくらべたとき、僕は前者でありたいな、と思った。

先人達が天才性をもって編み出した漢字や言葉を自分も使えるようになりたい、そう真剣に考えている。けしてそれは、それらの言葉を使えない人を小馬鹿にしたり、敢えてそれらの人が分からないような言い回しを振り回して悦に入るような、スノビッシュなことではない。そういう低次元のことではない。

言葉を大切にする、というのは身体にきちんと入れることだと思っている。実際に使う、使わないは別として、それらの言葉がきちんと使いこなせる、運用言語として身体に血肉化している自分、そんな自分はきっと、言葉の裏側にあるもの、その言葉が使われたコンテクスト、あらゆるエクリチュールを纏って放たれる言葉の端々に対して、より深く敏感でいることができるのではないか、と考えたからだ。

言葉は神である。神によってならない言葉は何一つない。これは僕の勝手な言い分ではない。ヨハネによる福音書にきちんと書いてある。言葉は人からの借り物である。口頭伝承や書き綴られ続けることによって、後世である私たちに手によって伝えられた結晶なのである。

僕はその言葉を自分の手で書きたい、と思った。パソコンで偉そうなことを打って、こんな漢字を使えるんだぜ、というような小学生の弟を持つ中学生の兄のような構えではなく、あなたと共に美しい言葉にため息をつきたい、そんな風に思って生きていくことはできないか、と僕は考えているのだ。

美しい日本語に出会ったら、筆写をして唸る。その語感を身体に染み込ませる。僕はそんな風にして日本語を使って生きていきたい。


ではまた^^

もっとも大いなるもの

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