2015年3月10日火曜日

「箸休め」な極上の一品

「読んでいる本がすごい!」と親友が興奮してメールを送ってくる。
あ、これ、家にもある、と思い、今読んでいるものを中断して、箸休め的に手に取ってみる。

「評価と贈与の経済学」(内田樹・岡田斗司夫 著)


内田先生の本には、どの本にも同じ事が書かれている。先生ご自身も何度もそう仰っているから、読まれたことのない方は手に取ってみられると良いと思う。

繰り返し述べて居られるのは「教育とは何か」「学ぶとはなにか」「はたらくとははたらくとは何か」「贈るとはなにか」「与えるとは何か」「日本はどこへ向かおうとしているのか」「これから私たちが生きる指針はどのような方向へか」という様々な命題に対する先生の示唆だ。

件の本は、岡田斗司夫さんとの対談で、自信のなさを体現して生きる現代日本人を鰯の群れに喩えたり、努力と報酬に対する人々の姿勢、生身の身体の身体感度復興への啓蒙、評価経済と贈与経済に関する観点、日本の潜在能力、恋愛と結婚について、刺激的な二人が縦横無尽に会話を楽しむ内容。

僕は教鞭を執らせていただいていて現場で感じることが沢山ある。若者を相手に生業を営んでいるが、生徒達のことを「分かった」と思うことが全然ない。かといって、彼らに対する相関的な相互理解欲求みたいなものがあるわけでもなく、淡々としているので、生徒達のことは分からなくていい、理解できるわけがない、お互いに違って良いんだ、という姿勢を敬虔に一貫して死守しているけれども、一方で彼らがいったいどのような在りようで生きているのか、情報があるのであれば、知っていた方が、知らないよりも、相手に対して理解が深まり、余裕が違う。

例えば内田先生の「下流志向」という本がある。これなぞは、今の子ども達が何故学ぼうとしないのか、何故働く意欲を失ったように見えるのか、なぜ学級崩壊や教育崩壊が現場で頻発しているのか、を一つ一つの事例を引きながら、刈谷先生の文章を引用しつつ、仔細に分析した内容で、読了後の生徒達に対する理解の厚みや深みは、同書を読む前とでは雲泥の差があるな、と少ない現場経験の中でも、淡く実感された記憶がある。


その意味でも、親友が興奮している本を読むことは、中々価値のあることではないか、と思った。何度も同じ主張が異なる本の中で繰り返されるのは、詐欺なのではないか、と思う人があるかも知れないが、それは短見というものだ。何度も同じ事を繰り返し書くということは、その論なりに相応の確信がなければできないし、その論がきちんと立つからこそ、著書が変わっても異なる切り口で書けるのである。

明治文学を読む傍ら、暫し教育に対する思索を温める時間を与えられたことを感謝したいと思う。親友と内田先生に謝意を表したい。有り難うございました。

さて、読んでいる間、養老孟司先生との「逆立ち日本論」という本を読んで、なるほど、なるほど、と膝を打ちながら読んだ記憶が甦った。


この本も面白かったので、併せてお薦めしておく。トイレに置くと、長くなって、家族から苦情が寄せられるので、トイレには置かないこと。

ではまた^^


もっとも大いなるもの

単語の綴りを一生懸命練習するけれど、何度も、何度も間違える子がいる。 でも、授業中、何度もうなづきながら説明を聞き、話に耳を傾け、大きな声で歌を歌う。フォニックスの発音を、口を縦横いっぱいに開けて発音する。 oshienと単語テストに書いてきた。oc...