2016年9月19日月曜日

新しい勉強のカタチを考える

仙台にて暁の会ロング勉強会を無事終了。勉強会6時間+懇親会3時間の計9時間、参加者の皆さんと一緒に、すべて英語で時間を過ごしました。合計9時間のうち、皆さんと日本語でやりとりしたのは正味飲み会の90分くらい。簡単なガイダンスが30分くらいあって、その後少し日本語でやりとりする時間があった程度。

素晴らしい体験を皆と共に過ごすことができました。
参加者の皆さん、また是非お会いしましょうね😀
次回は、皆さんお一人お一人にリーダーをお任せすることになると思います。

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英語教育の改革がなかなか進まないと議論が囂しいのですが、僕ら暁の会は1年半活動をしてきて、次のビジョンがうっすらと見えたような実感が得られました。

英語教育改革に関する議論は何も今に始まったことではなく、僕が新任の頃からずっとなされていますし、メディアにも常に取り上げられてきた経緯があります。

その度に、現場が変わらない→入試が変わらないから→大学が悪い→行政は現場がわかってない→現場が受験指導にしがみついている、と、形を無尽蔵に変えつつ、このループから話が抜け出さないまま、新しい指導法や流れが提示され、やる人2割、絶対やらない人2割、寄らば大樹の陰派が4割、無関心が2割、といった風景で大体推移してきているように僕には思えるんです。

暁の会で勉強会を企画し、1年半、様々な勉強会を繰り返してきました。勉強会の変遷は以下のような様相だったと思います。

1自分たちだけで実践発表
2数名の先生方にお願いして実践発表
3英語でワークショップ型
4参加型ワークショップ
5英語で参加者全員が楽しむ型

3、4は同じように見えますが、違います。3はファシリテーターのキャラクターが強く、その人1人がワークショップ全体を引っ張っていく感じになってしまうので、1、2の形態の勉強会を英語でやっているにすぎないのです。

4は今年の夏のジョイント勉強会の形態です。参加者が体験をし、それを実体験として持ち帰っていただく形態。

そして、そこからさらに発展した形が5になります。これが8月に京都と博多でシンクロでやった勉強会、そして先日の仙台の勉強会までの流れで5に変化し、西山くんと新たな境地に至っています。

自分たちが実践発表をして、その後の参加者の皆さんの変化をFBや次回の勉強会で見てきました。それぞれの方がご自身のご実践へ昇華し、それぞれの場所で新たな授業形態や新しい指導の形が問われたのはとても興奮を覚えました。

一方で、それぞれの先生方の独自性や自由さ、その場にある子供達の空気は、実践発表を繰り返しても、無視されてしまうのではないか、ある実践を聞いてそれをそのまま真似するようなことを促すことを繰り返しても、現場に変化はもたらされないのではないか、という淡い気持ちを抱いたのです。

授業は、その先生が自分が目の前にする子供達に向けて愛情を込めてデザインするものであり、また、子供達と共に作り、子供達が授業を作り上げていくのだと思っています。それこそが本質なのではないか、と僕は思います。

実践発表や教授法を学ぶ勉強会では、それぞれの先生方が受け持つ現場へコミットすることはできません。あくまでもそれは伝達の場であり、そこに参加した人がそれぞれ工夫をする日常がもたらさなければ、先生方の授業は永遠に変化しないからです。

そういう観点に立ってみて、初めて、先生方の授業へ、現場へコミットするには、一人のすごい先生なり、いろんな取り組みをしてる先生が何かを教授するだけでは不十分ではないか、と思いました。

先生方お一人お一人が英語を使って、英語でコミュニケーションをする場をクリエイトし、その体験を実際にしてみなければ、ご自身の授業や生徒達へ英語でアプローチをしようとは思わないのではないか、あるいは、アクティブラーニングの勉強会が一斉授業の形態で行われる、なんていうことはそれこそジョークでしかないわけで、まさに参加される方お一人お一人が、勉強会やワークショップの中で実際に体験をし、実感をし、心を揺さぶられるLife Time Experienceを通じて、何かやれないか、何かやってみたい、自分もこうしたい、という気持ちを新たにされるのではないか、そんな風に考えを深めたのです。

授業をどうするか、という勉強会の形態は、授業はどうなるか、といった英語教育議論の延長線上にしかなく、そこには変化の一石となりうる要素は皆無である、ということに僕らは気付いたのです。

授業をどうするかを決めるのは先生方ご自身である、という客観的な事実を度外視して勉強会を設計することを繰り返しても、先生方に変化は起き得ない。なぜなら、万が一同じような授業を構築できない場合、「あれは、あの先生が力があるからできるんだ」とか、「現実は理想に程遠く」と言った言い訳を自分に許してしまうからです。

先生方が、自分も授業でやってみたい!自分も生徒に何かしてみたい!という気持ちにならなければ、授業でやってみよう、新しいことを試してみよう、という思いには至り得ず、土日にせっかく良いことを習ってきたのに、月曜日にはまるで何事もなかったかのように、また日常が戻ってきてしまう、と言った絵が繰り返されるだけなのではないか、と僕らは考えたのです。

そのような観点に立って、今後、暁の会の勉強会は、すべて英語で行う、その際、参加者の方にファシリテーターになっていただき、参加されるみんなが、自分がやりたいこと、自分がシェアしたいことを英語で体験しあえる場をご提供する、そんな活動へとシフトしていこうと、今気持ちを新たにしているところです。

情報伝達型の勉強会では、変化は起こせない。本を読んだり、ネットで調べればわかることを「知る」機会は得られます。でも、それを「する」コミットメントは、残念ながら情報伝達型の勉強会では得られません。

鍵は個人個人の皆さんが持っておられる、その尊い事実を忘れて勉強会をデザインしても、歴史が繰り返されるだけで、新たな変化は起き得ない、僕と西山くんはそのことを暁の会を通して学びました。

これから行う勉強会は、先ほど示した1から5の形態からさらに進化していくと思います。5の形態はもはや勉強会と呼ぶのも相応しくないと考えています。

学び=座学、自己消化、と捉える考え方を、体験=自己昇華=自己変革=地殻変動、の流れへと変えていく必要がある、それが急務だと僕らは強く気持ちを新たにさせられています。

参加する人が英語を話し、英語を使い、様々な活動を行う、英語を使うことを通して心の変化を個人で起こす、参加者同士で刺激と潤いを得る、そして、日常と向き合う日々に帰る、という流れを暁の会で創れないか、もっと言えば、参加者の皆さんとともに新しい形の場を創れないか、今そんな視座を頂き、静かに冬を見つめているところです。




もっとも大いなるもの

単語の綴りを一生懸命練習するけれど、何度も、何度も間違える子がいる。 でも、授業中、何度もうなづきながら説明を聞き、話に耳を傾け、大きな声で歌を歌う。フォニックスの発音を、口を縦横いっぱいに開けて発音する。 oshienと単語テストに書いてきた。oc...