2018年7月30日月曜日

和訳に向き合い日本語と出会う


クリントン大統領のスピーチとノームチョムスキーの講演を、自分のトレーニング(以下、TR)用に使っていて、その翻訳を自分でやったり、細部まで発音に拘ったり、意味を丁寧に取って行ったりする勉強を繰り返しています。

翻訳をしていると、自分の言葉が詰まってしまう。良い言葉が出てこない。どうすればこの日本語がすっきりするだろうか、といつも考えてシャーペンが止まってしまう。

和訳をする際に、人の翻訳の仕事や人が翻訳をする日本語を聞いたり見たりすることにしばし思いを馳せてみました。言葉の柔らかさとか、全体で見ていくときの流れみたいなものをバッサリと切ってしまう行為は、日本語の柔らかなる細やかさを無視しているんだな、とと思ったりします。

また、訳出の時に、漢語や漢字を多用する人は、読み手のことよりも、その訳の本意を伝えることのみに意識が集中されていて、訳出された日本語が読み手へ届けられることにまで思いが至っていないのだと僕は思っています。やっぱり、訳ってのは、出た瞬間から、ただの変換語なのではなくて、読む人に届ける贈り物であるべきだし、そのために明治時代の巨人たちはとてつもない叡智を我々に残してくれていると思うんです。

だから、訳出はやっぱり丁寧にやりたいし、時間がかかるんですけれども、もうあの訳出に悩む時間そのものこそが、明治の先達たちの真似事みたいなことだけれども、翻って、あそこにこそ、我々の知性の拓きが約束されていることを体が強く感知してるんですね。だから時間がかかっても唸るわけです。

だからやるし、ねー、ねー、こんなの無駄な時間だからさー、ぱっぱとグーグル翻訳でやって、早くシャドーしようよー、なんてことに思考がなっていかないんだと思います。
言葉の柔らかさに向き合っていく時、人は古典、詩歌、文学、愛、人生、死、別離、生命、偽善、裏切り、神、などの概念に必ず行き着く。そう思います。その意味で、英語を追求し続けて、同時に教養を高めていくことがとても大事なのではないか、と僕は思います。同時通訳者であり、我々の師である松本道弘先生と話をさせていただくと、先生の知見の弘さ、物事を深く見据える洞察力が凄まじく、その上で、先生が話される英語があの英語になっているんだな、と深い畏敬を憶えます。そのことを見ないと、彼の偉大さはわからないと僕は思っています。
ここ最近、自分で勉強をしているときに、原点から全くぶれていないことを強く感じます。

3年4ヶ月前に親友の西山哲郎と暁の会を発足させた時に二人で話していたことをそのまま実直に実践してるだけ、な自分たちに気づきます。

私たちの英語力の低さ、教養の軽さは本当にまずいです。それくらい危機感を持って取り組まないといけないことだと思っています。
議論や目新しい視点だけでは人は動かない。力がついていかないので、痩せ細って、また新たなアイディアはないか、と探すことを繰り返すノマドのような姿勢が助長されていくばかりです。それは本当によくない事だと思いますし、未来の子供達への知性への敬意が払われていないと僕は思います。それはよくない事です。

まず僕らは自分たちの稽古や勉学を怠ってはいけないし、私たちの中心概念として、自彊未だ止まず、という気持ちを常に持っていなければいけないんだ、と強く確信しています。

問いがあって、

「海の深さと青さについて説明しなさい。」


と言われたら、どうしますか。

「わかりません。」
「できるわけないじゃないか。」「まずお前がやってみろ。」
というのが、残念ながら現代日本思想の中核をなす意見だと思います。物凄く悲しいことだけれど、それが真実ではないでしょうか。

ネットの社会にはそういう我々の下品さや下賤な愚劣さが表出します。普段、リアルの世界では面と向かって言えない分、私たちの心の汚いところが全部出てる。本当に悲しい事です。

私たちは、この小さな群の中からでも、海の深さと青さについて、知ろうとし続ける、考え続ける、調べ続ける、そして思考を深めあう(いつもみんなでディスカッションしてることがそれに当たります)をやっていく集団でありたい。そう思っています。


暁の会は、これからも松下村塾のような心持ちで学び続けていくつもりですし、今一度、再び暁の会の発会の原点に立ち返る為、この夏、福翁自伝を読み返すつもりでいます。

今こそ、学問、勉学に立ち返る時です。



もっとも大いなるもの

単語の綴りを一生懸命練習するけれど、何度も、何度も間違える子がいる。 でも、授業中、何度もうなづきながら説明を聞き、話に耳を傾け、大きな声で歌を歌う。フォニックスの発音を、口を縦横いっぱいに開けて発音する。 oshienと単語テストに書いてきた。oc...