2015年6月4日木曜日

それでも僕は、そっと彼女にソクラテスを手渡す。

高3の担任をしている。先日、個人面談をようやく終えた。クラスの一人一人と話をすることができ、とても清清しい気持ちになった。
彼らが教室では見せない本音の部分を打つけてくれたり、目標としていることや、考えている所を知ることもできたし、自分なりに彼らに対して思っていることも伝えることができたから。

ある女子生徒が、受験の話に絡めて、「先生、私、受験も大事なのは分かってるんですけど、今、すごくソクラテスの弁明が読みたくって読みたくってたまらないんですよ。いつ図書館に行っても貸し出し中で。本当に倫理にすごく興味があるんです。」と真剣な顔をして話してくれた。

高3の担任として、立場上色々なことを言わなければ行けないんだろうけれど、僕は彼女に、そんなこと言ってないでさ、まずは苦手教科の勉強をしなさいよ、と言う気持ちに、どうしてもなれなかった。間髪入れずに僕は彼女に二の句を告げた。

「俺、家に持ってるよ。明日持って来てやろうか?」
「先生、本当ですか!うれしいです!」と彼女が微笑んだ。
「読みたいと思った本があったら、すぐにでも読むべきだよ。いいよ、俺の貸してあげるから。」

そんなやり取りで面談を終えた。

二日後、朝起きて書棚を見ていると、ソクラテスの弁明は二冊あることが分かった。僕は最近買い直した講談社学術文庫の方を彼女に貸すことにした。ソクラテスの弁明に併せて、内田樹さんの「ためらいの論理学」も添えることにした。きっと彼女は気に入ってくれるだろうと思って。

今彼女の中で、青春時代のときめきが起動して、胸が高鳴りまくっている。彼女の中では青春期にしか起こりえない知性のアンテナの感度の高まりが最高潮に達しているに違いない、僕は自分勝手だとは分かっていたけれど、そう思うことにした。

彼女の中で、今一番リアリティがあるのは、模試の成績でも、コンビニの新作スイーツでもなく、ソクラテスの弁明なのだ、と僕は思った。
彼女の心は今、ソクラテスの弁明を、彼らが語り合うそばで聞いていたい、と熱望している。きっとそうだ、僕はそう心でつぶやいた。

朝、彼女の机にソクラテスの弁明を置いておいた。その後、教室に寄ってみると、彼女の机の上に、何ページか読まれている形跡のあるソクラテスの弁明の本が置いてあった。

僕は訳もなく、何か甘酸っぱい気持ちになった。

担任としてこうした行動が適切だったかどうかはよくわからない。きっと受験生の担任としては、ダメな行為なんだろう。
しなければならないことを放り出してもいいから、好きな本を読みなさい、と彼女に告げたことは間違っていたのかも知れない。

でも、それでも僕はそっと彼女にソクラテスを手渡した。理由も訳もよく分からないが、そうすることがきっと正しいんだと思った。
そして、僕は、自分の心のvoiceに従った。

青春のただ中にいる人が、やっと自分の興味や関心を向けることができる何かに出会ったんだね、と思うと、胸が熱くなった。
僕は、17歳の時にライ麦畑でつかまえての文庫版を貸してくれた1つ年上の女子高校生の事を思い返していた。
友達だった彼女が貸してくれたその本を読んだとき、しばらくの間、自分の時間のリアリティは、すべてホールデンコーンフィールドの
ことで一杯になってしまった。

あれから25年時間が過ぎた。あの時に感じた気持ちと同じではないんだけれど、ソクラテスに会いに行きたいと僕に伝えてくれた彼女に
是非会っておいで、と言えたことがとてもうれしかった。

あの時の僕と今の僕は、何かが変わってしまったのかもしれない。自分では何も変わっていないと思っているけれど、きっとあの頃に感じたこと
思ったことは、二度と取り戻すことのできない甘酸っぱさがある。

ソクラテスに会いたくなった彼女は、あの時の自分と重なって見えたのかもしれない。
過去の自分に出会った気持ちに、僕は無意識のうちにとらわれたのかもしれない。
でも、本当のところはよくわからない。

ソクラテスに出会った彼女のリアリティは、いったいどんな風な色に変わっていくのだろう。
この次に彼女と話す機会がある時に、過去の自分に出会う気持ちで、聞いてみようと思っている。

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