2015年4月16日木曜日

英語授業論:受験指導の悪法を憂う

生徒達と英語の授業の中で、英語を話したり書いたりする活動を毎回入れています。英語をとにかく「話して」、「書く」のです。内容は毎回僕が指示を出します。


大学入試には英作文が出題されるところが多いので、英作文の対策を生徒に行なわなければならないし、リスニングはセンター試験のみならず、二次試験にも課せられる大学も増えて来ているので、リスニング対策もしないといけない。


毎回このテーマの授業をする時に、なんとも言えぬ虚しさを憶えるんです。それは、教えても教えても生徒は書ける様にならないし、英語が聞ける様にならないからです。


何故なんだろう、と自答し続けて、出た答えは、生徒に力がないからでも、僕に教える力量が足りないからでもない、というものでした。


普段から書くこと、聞く事をしていない人が、試験の為だけに書いたり聞いたりするトレーニングをしても、それはスキルや自分のコマンドとして手元に残って行きにくいのではないか、と僕は考えました。


英作文を書く際のテクニックは、僕も生徒に教えますし、プリントを拵えて、生徒達に持たせます。でも、それでも心の負荷がいくぶん下がるというだけで、根本の作文力の力や、リスニング力の力にはつながっていってないのではないか、と僕は虚しさを拭いきれないでいたのです。


毎日の授業の中で、書く活動、聞く活動が日常的に行なわれていれば、生徒はそれに慣れ、その上で研鑽のドリルを行なう事で、力を補強して行く、という流れになって行かないと、力はつかないのではないか、僕はそう考えました。


メタ認知の高い高校生を教えていれば、もののテクニックの様なものは立ち所に自分のものにしますが、運用していく力を鍛えて行くには、どうしても書く作業と聞く作業が、日常的に繰り返される必要があります。


聞く力を伸ばすには、英語を聞くしかない。書く力を伸ばすには、英語を書くしかない。遠回りに聞こえるかも知れないけれど、これは本当にそうなのです。


僕が今授業で行なっているアプローチは、美術に喩えると、模写やデッサンのような作業です。ある英文を読み、そこに出てくる人物描写を毎回行ないます。英文があっているかどうかのチェックも生徒同士にさせる。


生徒同士で英文をチェックさせる目的は、生徒の文法スキルを運用レベルにまで高める狙いがあるからです。生徒同士にお互いのミスをチェックさせ、人の間違いを添削する行為を通して、自分が文法を使いこなすときの審美眼を培います。則ち、ミスに対して敏感になる目を養う狙いがあるのです。


ある人物の描写を、全て主語を統一して、Heで始まる文章を7つ作りなさい、と指示を出し、英文を辞書を引かずに読みながら、そこに登場する人物の描写をします。


次のステップでは、その文章を関係代名詞や接続詞を使ってつなぐ活動を入れます。ここに来るまでに生徒は、一文単位の英文を相当数書く事になりますから、その英文同士をつなげる練習を実際に自分が作った英文で行なうのです。これは今思いついたアイディアなのですが、この英文同士をつなぐ作業、友達が書いて来た英文で行なうのも手かもしれません。


さて、文をつなぐ練習をある程度行なったら、今度はこの人物についての描写を段落単位で行なってみよう。その際、経歴を書かせる時には時系列を意識させ、時制に対する意識を上げさせます。


この2つの活動の合間にも、友達同士の英文チェックの作業を挟みます。ここまでできるようになったら、実際にその人物に関するエッセイを二パラグラフ12文〜16文くらいで行なわせます。


この様な活動をたっぷりとやり込み、実際にあらゆる場面を想定しながら英語を書いて行く作業、書いたものを元に、それを友達と英語でトークする作業を繰り返し、繰り返し行ない、英語の運用能力を上げて行くのが僕の授業の狙いです。


通常、英作文を教える、という話になると、和文英訳を思い浮かべたり、自由英作文を思い浮かべたりすると思います。僕もつい最近までそういう発想で生徒に指導していました。


しかし、現場で感じた事は、このままこのアプローチを取っていても、生徒はいつまで経っても、英語を英語のままで発信できるようにはならないのではないか、という不安でした。


入試問題の対策としては、このアプローチは間違いはないと思われます。でも、このアプローチはあくまでも入試問題に対するアプローチであって、この方法で延々勉強を続けていても、将来的に英語を使って発信できるようにはならないのではないか、と僕は感じたのです。


英語を使って色々な表現をする場合、あらゆる場面を想定しながら英語を作る必要があると思います。入試英作文の和文英訳は、ごくわずかに切り取られた一場面を英語で表現するとどうなるか、という技量を問う問題です。


そうすると、日本語を解析する技術を上げる必要がありますし、日本語の解析力が上がった所で、その平易な日本語に言い換えた表現を英語で何というかを知らなければ、その問題に答えられない事になります。


僕は入試に出される様なややこしい日本語を、平易な日本語に置き換えるスキルは確かに必要だと思います。でも、これは入試の為の勉強に終始せざるを得ず、残念ながら、将来的な視野で俯瞰して、グローバル教育への橋渡しにはならないのではないか、と結論付けてみて、今の授業メソッドに辿り着いたんです。


色々な方法はあっていいと思いますし、生徒達への愛情があれば、どんな授業形態でも上手くいくと思うんです。でも、今ここで展開している話は、そういう事ではなく、命題として「英語を英語のまま理解し、英語で実際に発信する力を生徒に付ける為に、教師が取りうる授業形態を模索するとどうなるか」ということであって、そこはきっちりとわけて考えないといけない、と僕は思っているんです。


入試で高得点が取れる授業は大事な授業だと思っています。でも、それだと、生徒の将来を保証する事として、あまりにも心もとない気がするのです。入試が終われば忘れ去られてしまう様なスキルを、躍起になって生徒に教え込むより、入試が終わった後でも、将来的にずっと使える技術を身につけさせる事の方が、僕は大事なのではないか、と思っています。


その意味で、自分の授業を考えた時、生徒達にもっともっと英語を使わせる活動を行わせ、その延長線上に、入試問題すらも軽く超えて行ける様なスキルを構築できないか、と仮説を立てて、日々実践を重ねているのです。


元来、英語を書く、英語を聞く、英語を読む、英語で話す、という4つの技能は、個別に指導されるものとして考えられて来た。でも、その方法で生徒に力がつかない。ではアプローチを変えて、これら全ての技能を盛り込み、授業で全ての技能をフルに活用しながら生徒達を鍛えて行く方法論は取れないか、と思い、今の授業形態を続けています。


そうは言っても、僕だって当然、生徒に入試向けのスキルやテクニックを教える事もあります。また、英語のロジックや、長文の基本フォーム、旗印表現(discourse marker)などを教える時には、ガイダンスとして日本語で解説する授業をしています。


その中で、必ず毎時、僕が生徒達に英語で語りかけ、生徒は英語を聞き、僕や友達と英語で話し、話した内容を英語で書く、という作業をし、さらに参考資料を辞書を引かずに英語で読み、意味のわからない単語や表現、文章の内容などを友達と話しながら、理解へと結びつけていく、という活動を入れる様にしているんです。


僕が今取っているアプローチは、膨大な時間が掛かります。やっている活動の成果の出方は、まるで農作物を育てる作業と似ています。すなわち即効性が期待出来る様なメソッドではありません。


過去の自分の授業の反省を鑑み、一度今までの授業方法を全て打ち捨て、生徒に揺るぎない英語力を付けさせる為の授業とは何かを問い続けた結果、この方法が、一見時間は掛かりそうだけれども、将来的に盤石なスキルと力を保証しうるのではないか、と僕は考えたのです。




そういう意味で、たとえばありがちな入試演習授業みたいなことは今年は忌避したい。問題を配り、生徒に解かせて解説をし、彼らが退屈しない様に教師が取って附けた様な面白おかしい話をして、なんとなく授業が盛り上がっている様な、そういう茶番はやりたくないな、と僕は思ったんです。


生徒達に入試問題に触れさせる時、そこで語られているトピックについて、生徒が「知りたい!読みたい!」と思う様な知的好奇心をくすぐられる様なアプローチもあっていいんだと僕は思っています。その意味で、今の僕の授業形態はもしかすると、新たな可能性を十分にも十二分にも含んでいるかも知れない、と僕は信じて疑わないのです。


どんなに良い単語帳があっても、単語そのものを運用出来なければ意味がありません。その意味で、単語帳を用いるのは、語彙を体系的に意識する為には有効であっても、ある単語帳だけにすがれば、すべての語彙力は万全だと考えるのは、短見だと僕は思います。そんなわけない。言葉は生きているのであって、有機的な作業を持ってしてしか、認識語彙は運用語彙へとは昇華し得ない。自分のボキャビル学習を振り返ってみても、単語帳だけで上手くいったということはなくて、たとえば時事英語の単語帳があるのですが、それで一応体系的に語彙を攫っておいて、その後は、実際に北米ニュースや政治討論番組、トークショーなどをみながら、実際にその語彙が使われている場面に数多く接する作業がなければ、残念ながら単語は自分の運用語彙にはなり得ず、意味を知っている、というレベルの枠からは抜け出す事はできません。それを実感を伴って分かっているので、生徒を指導する時に、無味乾燥な学習指導はもう捨てても良いのではないか、と僕は自分に言い聞かせたのです。


僕はそんなに大した英語力はありませんし、留学もしてないし、ハイパーな学歴を持っている訳でもありません。でも、一つだけ言えるのは12年間、自分の身体を使って徹底的に英語のトレーニングをしてきて、曲がりなりにも、どういう風な過程を経れば英語力が身に付いて行くか、ということは、ある程度は分かっているつもりです。その意味に於いて、どうして自分がやっているトレーニングと、自分がやっている授業は、こうもずれが大きいのか、と12年間自問自答してきました。その結果、ここに述べた様な結論に達した、というわけです。


長くなって申し訳ないですが、英作文の秘訣とか、リスニングのテクニックとかの話を聞くよりも、先ずは英語を実際に使う事、たくさんの英語に触れる事を授業で数多くしかけて生徒を揺さぶりたい、今はそう思っています。その意味で、権威的なものや、悪しき受験テクニックみたいなものは、陳腐で吹けば飛ぶようなものだと僕は思っています。そんなものに加担したくもないですし、生徒達には本物の力をつけさせたい。そう思って、毎日授業改善を行っている最中です。


ではまた^^


















もっとも大いなるもの

単語の綴りを一生懸命練習するけれど、何度も、何度も間違える子がいる。 でも、授業中、何度もうなづきながら説明を聞き、話に耳を傾け、大きな声で歌を歌う。フォニックスの発音を、口を縦横いっぱいに開けて発音する。 oshienと単語テストに書いてきた。oc...