2017年2月21日火曜日

授業百花

*授業百花
今日はスピーキング2日目。ペアメンバーはこちらで指定。概ね運用の仕方がわかってきました。先生がペアを組むって大事だな、と改めて実感。

スピーキングしながら評価シートにコメント書きしてもらい、フィードバックをとりました。フリーディスカッションにフラストを抱く生徒が多く、インプットがまだまだなんだよね、と頭を掻きつつ、次のクラスに移って生徒の様子を見る、の連続です。

「一生懸命伝えようとする姿勢」を活動で仕掛けていくためには、身近ではない人と組ませることも大事なんだよね、と改めて思わされる場面を数多く見ました。

授業では"On the desk"というルールを徹底させるようにしていて、とにかくカンペを見ずに英語をどうにかこうにかして伝える、という練習をさせています。でも、根気が入りますね。なかなかできるようにならない。

・同じペアで組ませると飽きや馴れ合いが来る。一方で習熟度合いが実感されやすい。
・違うペアで組ませると緊張感があり、英語が出てきやすい。ジェスチャーもこなれて来る。でも、どこまで自分が話せているかは、評価基準を指導者が洗練させないと、実感しにくい。

活動の途中で、日本語にて、改善点の話し合いの時間を1分設けるんですが、その時間がよかった、と書いていた生徒がいたので、途中で日本語思考に戻して、その後、また英語に戻る、という方が上達が早いのかな、とも思いました。 *添削の瑕疵?
昨日、今日と、授業外では生徒の添削が80枚カケル2日間で、160枚強ありましたが、これも見ていると意外と早くなるもんでして、あー、はいはい、これね、ここよ、はい、そして、ここ、うーん、これはいいなぁ、なんて思いながら指摘のアンダーラインだけして、あとは一切教えないスタイルの継続。

色々聞いて来るときに、こちらもヒントをあげる練習になるから、相互扶助ですね。とてもいい関係です。

掲載した生徒の英文には間違いがいっぱいです。文法が全然わかってないな、と思われるかも知れません。

僕たちはマララユスフスザイさんのスピーチを聞くとき、感動を覚えますが、誰も彼女の文法の間違いを論う人は散見されません。
生徒の間違いを冷笑したりすることは、フェアではないと僕は思っています。

自分の想いを英語に乗せて、一生懸命に伝えようとする生徒たちが数多く生まれてきていることにこそ、統合型言語学習の意義は見出されるのでは、と僕は考えていて、グローバル教育の先には、コンテンツをいかに充実させるかがまず先で、その後にスキルとコマンドがそれに付随してfollow upしていく流れが子供に負荷が少なく、自然に英語が身についてく道筋なのではないか、と生徒たちの活動を観察していて気付かされます。
スキルに関しては、fluencyをどんどん広げながら、accuracyを広く限りなく遡求していく求道型が良いのでは、と実感で思っています。

多読もスピーキングもライティングスキルも、文法コマンドも、鳴く前に殺してしまえホトトギス型では手も足も出なくなってしまうんだよな、と子供達の英文を見ていて思います。

実際にスピーキングやライティングをやらせつつ、多読も継続しながら、途中でKHの研修の時のようにインプットの時間、振り返りの時間、再チャレの時間を持って1つの授業パッケージにしていくことが、遠回りでいて実は一番実りが大きい、とこの頃つくづく考えさせられますね。

今日、友達と話していて、やっぱり、今やっているオーガニック言語学習って、読み切り漫画じゃダメなのよね、って二人してしみじみ語り合いました。

継続性を持ってして日々の取り組みを地味に見つめないと、一時的にすごく効果がありそうな方法って、1週間で海外英会話!な本と同じメソドロジーの瑕疵に陥ってしまいますもんね。

改めて、先生の仕事って地味だし、目立たない部分の準備や配慮、自分の英語の勉強や研鑽、教養の希求を以って支えらえていくものなんだよね、という観念を改めて内在化する機会が得られました。
毎日、頭を垂れまくっています。

英語のライティング添削はしない方がいいのかな、とずっと悩んで行ったり来たりしていました。

去年の11月に京先生のセミナーを受けて、ライティング添削をしてても、オーガニックな指導や統合的な言語活動の指導を続けていれば、生徒が英語を書かなくなる、というピットフォールに陥らなくなる、という事実を学び、生徒たちの添削をやれるようになりました。

文法のミスを指摘する=自分の内容は否定された、と感じさせてしまう危険性が文法訳読のみの指導にはあるのでは、と思います。

一方で、授業の中で、CLILに基づく授業展開や、多読によるsense of Englishの吸収、スピーキング活動によるアウトプット、良質なインプット、などにより、生徒たちが英語に接する姿勢や態度が、書きたくない、という気持ちを乗り越えさせ、もっと相手に伝えたい、という気持ちを力強く育むんだな、という事実に驚嘆しています。

生徒はもっとできるようになりたい、生徒はもっと自分の気持ちを相手に伝えたい、と潜在的に思っていると思いました。

そのためのサポートとして、添削=害悪、という図式は当たらないと今は実感を込めて思います。

物事には段階、フェイズ、状況、現場、そこにいる人、という重要なファクターがあります。

それを胸算用に勘定し忘れると、おかしな観念に取り憑かれてしまうんですよね。これが正しい!あれはいかん!みたいなアレです。


神は偉大ですね。聖書を読んでいてわからなかったことが子供たちの姿勢を通じて学ばさせる、ナウシカでユパ様が言っていた「負うた子に救われた。」というセリフは現実のものになりました。

もっとも大いなるもの

単語の綴りを一生懸命練習するけれど、何度も、何度も間違える子がいる。 でも、授業中、何度もうなづきながら説明を聞き、話に耳を傾け、大きな声で歌を歌う。フォニックスの発音を、口を縦横いっぱいに開けて発音する。 oshienと単語テストに書いてきた。oc...