2015年5月5日火曜日

暁の会について

三月に先生方や卒業生の為に、と共に勉強をする仲間を募りたい、と勉強会を立ち上げた。会の名前は暁の会、これから日本の英語教育は夜明けを迎える、その夜明けを拝む為に馳せ参じて、共に学びを深める会にしよう、という強い想いを込めて附けた名前です。


この会は、趣味や遊びでやっているのではない、本当に授業や英語学習に悩む仲間と共に燃え立ち、励ましあって、勉強を続けて行こうという強い気持ちを持って立ち上げた会です。


この会によって、僕は、功を為し名を遂げようなどとは一切考えていません。また、この会が大きくなろうとも、小さな群れであろうとも、止める気もなければ、一切の外部的圧力にもけして屈しません。


この会を通して、僕が本を書いたり、何れかの会社主催のセミナーの講師にあわよくばなろうと目論むものでもありません。


勉強会によって、共に学ぶ仲間と燃え立ち、日本の子供達の為に、少しでも英語の授業を良いものにしたい、力を附けたい、と願っているのです。それ以上でも、以下でもありません。


世には意地の悪い人や短見で了見が狭く、自分の考えている事が凡て正しいと考えている方もいらっしゃいます。なので、僕がブログを書いている内容をお読みになったり、Facebookに投稿するエントリーについて、お叱りを戴くこともあります。


例えば、トレーニングやスキル中心主義に対して、僕が舌鋒鋭くブログで書いたりすると、ではお前は授業ではトレーニングをしないのか、お前のしていることは矛盾しているではないか、と言われる事があります。


最初に断っておきますが、9年も前に同時通訳の先生から何度も指導を受け、その指導を信じて自分で何度もトレーニングを重ね、日々トレーニングを繰り返し、それを授業に何度も取り入れ、その後、数年経ち、このメソッドだけの授業では、子供達の力を伸ばすのには限界があるのではないか、と自分のトレーニング体験と子供達への実践を重ね合わせて何度も何度も吟味し、得た結論であり、知見なのです。


トレーニングやスキルを子供達に教え、力を伸ばして行く事に対して、僕はなんら反論しませんし、その方法論について、自分も授業の中で実践しています。毎回毎回、俳句を英語で読んだり、絵本の読み聞かせをしたり、歌を歌っているだけで、生徒が英語ができるようになる、と結論付けるのは愚かしい事で、では、何故こんな実践を一学期の一等初めに持って来ているのか、という事を先ず考えてみて欲しいのです。


単語帳を読ませたり、教科書の英文を何度も音読、暗誦させたり、僕もその都度の授業で生徒達に課しています。ただし、この方法だけでは、いつまで経ってもアウトプットができる様にならない、ということを、確認し、その為に授業に何が必要なのかを一生懸命に考え、追求しているのです。その結果が今の授業展開に活かされています。


「トレーニングを生徒にさせ、スキルを注入し、メソッドを教え込めば自然に生徒はできるようになる」という教育的仮説に対して、僕は抗うものではありません。翻って、この説に対して、全面的に与できない、と僕は実体験を伴って強く信じてます。それだけでは片手落ちなのです。


トレーニングでついた力をどのようにアウトプットに活かして行くのか,という点。例えば構文を憶えさせられたり、例文の暗誦をさせられた、という記憶のある大人はたくさんいらっしゃるでしょうし、その結果、英語使えないじゃん、という想いを抱いておられる方が大半だと思います。


そのメソッドは今も連綿脈絡と繰り返される。僕はそれは思考停止ではないか、と思いました。生徒に対して心を鬼にして暗唱を強いることは大切です。でも、自分が言いたい事を、その暗唱させられた例文を使って、他語に言い換えて言う練習はさせられていないのが大半の現場の実情なのではないか、と僕は思います。


もう一つ。英語は、質問に対して一文で答えても、英語にはなりませんで、相手に納得してもらう為に、きちんとしたロジックの枠組みで話をしなければ、話が前に進みません。たとえば、What kind of Japanese food do you like the most?とネイティブに質問されたとします。言葉尻だけを取れば、「どんな日本食が、あなたは一番好きなの?」という意味ですが、その答えとして期待されているのは、I like sushi the best. という一文だけではなく、何故寿司が好きなのか、寿司が好きになったキッカケは何か、あなたのオススメの寿司はどんなものか、と言った情報までを相手に伝えて、初めて相手は「なるほどね、あなたが寿司が好きなのはそういうきちんとした理由があるからなんだね。」と理解を示す、それが英語のロジックですし、英語の基本のフォームなのだと僕はKHシステムで国井先生と橋本先生に教わりました。


その意味で、中学から高校一年生段階まで、あるいは高校二年の段階まではトレーニング中心の授業でもある程度仕方がありませんが、トレーニングをしつつ、生徒達に言い換え表現を練習させたり、スモールトークの取り組みを通して、実際に憶えた英文を積極的に使わせる活動が授業に入っていなければ、いつまで経っても憶えた英語が、生徒にとっての活きた英語の持ち駒にはなり得ないのです。


話は「話す」に傾いたように思われますので、これを「聞く」「読む」「書く」に向けてみますと、これらの4技能は実は密接に関わっていて、話すだけをやっていても英語はできる様にはなりませんし、読むだけをやっていてもダメ、これらの要素は複合的かつ複雑に絡み合って、「英語」という外国語の技能をなすわけで、セパレートに教えていても、この4技能が絡み合うようにはならないのではないか、と僕は推論します。


「話す」ことが上手な人は「書く」ことも上手い。これはスピーチ上手な人を例にとってみてもよくわかります。ところが、書く、だけをいくら練習しても、話す、ができるようには中々なりません。話す、とは、英語において、機械的に英文を繰り返す事ではなく、自分が憶えている英文や構文、単語表現をその都度入れ替え、それを先に述べたロジックの上に乗せて述べる必要があります。ですから、「話す」と「書く」は、この点において密接に繋がっています。英作文を鍛える時に、同時に「英語で話す」を鍛えた方が、トレーニングによって英語を鸚鵡返しにさせるよりも、より言語活動の効果は高まると僕は睨んでいます。


同時に、英語を「聞く」行為について。これも先述と同意ですが、英語を聞く時に、先のロジックを意識して聴くのと、一文一文をバラバラに理解するのでは、自と理解に差が生まれます。英語は全て、ロジックの枠を持って語られたり、書かれたりします。そのロジックの枠組みを逸脱して、発せられても、相手には納得してもらえないし、理解してもらえない以上、ロジックの約束事をきちんと守らないと、英語を話す事にはならない。リスニングをやっている時に、このロジックを意識しながら聴くのと、どのように発音されているのかを意識しながら聞く事、さらに言えば、聞き覚えのない語彙の数を減らして行く事、この三点こそがリスニング力向上において最も重要で、その点を外して生徒達に指導をしても、生徒達はいつまで経っても聞ける様にはなりません。


同時に、このロジックを意識した聞き取りのフォームが身に付くと、まとまった文章を読む時に、おのずとそのロジックを意識した読み取りフォームが身に付きます。なぜなら、読まれる英文も書かれる英文も、英語のロジックの約束事の上に成立しているからです。その点を意識して指導を重ねると、生徒達の聞き取り力に違いが出、差が生まれます。その方針を授業で行なって行くべきではないか、と僕は考えているのです。


では、今僕がやっている授業実践の、「絵本の読み聞かせ」「多読」「歌」「ロジック」「自由英作文(人物描写・英文要約)」などはこれらのスキルやメソッドのどこを目指してやっているのか、と言いますと、これはそこに入る前の段階。まずは「英語そのものに慣れよう、英語そのものを学習する取っ掛かりを作ろう」という目論みの元、行なっています。


いろんな方法論があっていいと思いますし、4月から5月に掛けて、どのような目論みをもたれても、最終的に生徒達に力がついていることはとても大事な事です。僕は自分の生徒達を見て、生徒観をきちんと分析し、今現状で、自分が教えている生徒達を英語学習に向かわせる為に何が必要か、ということを鑑み、今の授業を設計しています。


トレーニングやスキルもどんどん教えます。僕の中ではそれらの活動と、上記に記した事はなんら矛盾しうるものではなく、どちらも生徒達にとって必要な事だと理解しています。


考え方は人それぞれですし、いろんな意見が乱立し、それぞれが互いに尊重されうるのが民主主義の良い所です。また、僕が論じているのは、英語の授業の在り方について、授業での指導の在り方について、英語の力を附けて行く事について、英語の学習に向ける心構えについて、そんなことが中心です。


僕の方法論を通じて、僕の名声が上がり、僕の懐に金が入って来て、僕がリッチになり、幸せになる為にこんなことをしているのでは毛頭ありません。僕は清貧な生活がしたい。懐はある程度温かければ良い。金や名声の為に、心の貧しさをなお虚しくする生き方はしたくありませんし、できません。

生徒達にいろんな方法を試しながら、力を附けて行き、決して立ち止まらずに、常に思考を巡らし、修正に修正をかさねて、毎度の授業に出掛けて行きたい。僕はそう思っています。


勉強会をしても、授業改善を毎日行なっても、給料も上がらなければ、休日が増えるわけでもない。でも、そんなことはどうでもよろしい。僕がお金儲けの為に今の活動を行っているとすれば、僕はもっと狡猾に、より聡く振る舞います。絶対にそうする。だって、こんなやり方では儲かる訳がないから笑。


暁の会は、お金を取ったり、何かを強いたりしません。自分たちよりも力のある人とか、ない人とか、関係ない。息遣いが聞こえる距離で、共に語る言葉が擦れる距離感を大事にする会でありたい。70名来てもほとんどの人と会話もできないような会を標榜するつもりはありません。互いに悩みを打ち明け、共に燃え立ち、愛ある指摘をし合って学びを深め合いたい。互いに尊重ができる会であり続けたい。そう思う。


その意味で、暁の会の発展は、参加者の数や、著名人が何人来たか、という事実で推し量るものではない、と僕は考えています。そんなこと、どうでもいいことでしょ?^^
来られる先生方とともに学び合う覚悟でいます。趣味や冗談でやっているつもりは毛頭ありませんし、大人数に拡大することも、当座は求めてはいません。学びたい、と思う人であれば、誰でも受け入れたい。


セミナー講師の先生にご遠慮頂く、と以前に断ったのは、会の中座や中断を忌避したかったからです。折角燃え立って皆で話しているのに、その先生の知見で会が全て覆い尽くされてしまうと、参加される先生方の小さな声を聞き逃してしまう恐れがあったから。それが一番怖かったのです。だからセミナー講師の先生方には参加を見合わせて頂きたい、とお願いするつもりで、ああいう告知を書きました。温かく静かに見守って頂いて、懇親会などで先生方にアドバイスを戴けるのであれば、是非お越しいただきたいと思っています。ご遠慮なく、お越し下さい。


会を立ち上げ、勉強会をするにしても、いろんな憶測や誤解を生んで、そんなくだらない事で擦り減ってしまう事も事実です。ですが、お互い大人ですからね、そこは笑。


いろんな人がいろんな考えを、いろんな形で発信し続ける事こそ、教育の停滞を避ける唯一の方法だと僕は考えて、まずは自分でやれる事を自分なりにやっていますけれども。

最後に。大人ですからね、大人な対応で良いと思います^^
学び合うのに、腐し合う必要ないし、感情的になる事自体がおかしいと僕は思っています。それは愛がないじゃないですか?^^

誰もが誰の目も気にせず意見がフラットに言えて、互いに刺激し合って燃え立って行ける会を、これからも続けて行くつもりです。

ではまた^^

もっとも大いなるもの

単語の綴りを一生懸命練習するけれど、何度も、何度も間違える子がいる。 でも、授業中、何度もうなづきながら説明を聞き、話に耳を傾け、大きな声で歌を歌う。フォニックスの発音を、口を縦横いっぱいに開けて発音する。 oshienと単語テストに書いてきた。oc...