2015年3月25日水曜日

不倫はいけない。

同級生が栄転と成り、上京が決まりました。昨晩はその餞の宴があり、別の同級生が経営する居酒屋で酒を呑みました。


中々良い会で、同級生たちと久方振りの再会と、暫しの別れを惜しみました。帰りシナ、タクシーに相乗りしまして、僕は方角が違いましたので、自宅寄り三駅手前で降ろして貰い、徒歩40分歩いて帰りました。


今朝は寝坊して6:50amに起きました。


さてさて。僕は出掛けるとき、必ずコートのポッケに文庫本を持って行きます。マア、今読んでいるものを大抵は忍ばせる訳ですが、今は草枕か、福翁自伝かの何れかを持って行くようにしています。


外出する時に持って行く本は、小難しい本は向かない。物の哲学書や思想書は読んでいても頭に這入ってきません。其れこそ、バートランドラッセルの哲学入門や、ロランバルトのエクリチュールの零度なんかは、持って行って読んだ所で、マッタく頭に這入らない。考えても考えても、気が散っていけないので、こういうのはあまりお勧め出来ない。


痛快で、小気味良い筆致や文体で書かれた物をニヤニヤしながら読むのが一等向いています。そういう意味では、小説やエッセイは外出の伴には打って付けです。


この頃は、福沢諭吉さんの福翁自伝にすっかりはまり込んでしまい、どこへ出掛けるにもこればかり読んでしまう。内容が痛快愉快この上ないのです。


本は何の事はない、ベンジャミンフランクリン自伝と同じ様なもので、本人が生まれて、どこそこで成長して、功を為し名を遂げ、という話が展開されて行くのですが、普通の
自伝と決定的に違う所は、諭吉本人の性格や気質です。


彼、壱萬円札の顔になってますけれども、世間で捉えられてるイメージは、彼本来のヒトとなりとズレているんじゃないか、と僕は思います。


諭吉、punkerです笑。いや、ほんとに笑。punkerrevolutionaryで、誠実で、真直ぐなヒトです。子どもです。大酒飲みです。


性格は真面目で勤勉だったことが本の内容から伺えますが、言動はパンクそのものです。人に媚び諂ったり、おべっかを使ったり、顔色をうかがったり一切しない。


自分の信ずる事、感じた事に素直に行動する。その実、波風を立てたり、喧嘩をしたり、人の悪口を言ったりして、周囲に諍いを起こす様なマネはけしてしない様なバランス感覚に優れている。でも、威張っている人や間抜けを、ホールデンコーンフィールドのように小馬鹿にしてる。そこがこの上なく気持ちいい。胸がスットするんです、読んでいると笑。


「ライ麦畑でつかまえて」を読んでいると、ホールデンの社会不適応さ加減故の、彼の出鱈目な口調や行動に目が離せなくなり、あー、もう、どうすんの、この人、と思いながら物語にグイグイ引き込まれて行きますよね。あれに似た感覚。でも、福沢の物語がホールデンのそれと違うのは、これは実際に起こった出来事や本人がした事が、多少の脚色を本人の筆で交えて書かれている点です。


地下鉄の中で、諭吉の行動にどんどん引き込まれる。読んでいると、あまりの荒唐無稽さぶりに、ニヤケが止まらない笑。あー、この人、どうすんの、どうすんの、と思いながらどんどんページを捲って行く。昨晩は、宴会に行くのに博多駅で降りねば成らぬところを、余りにも筋に引き込まれてしまい、危うく東比恵まで乗り過ごしてしまうところでした笑。


これは冒頭に出てくる、諭吉少年時代の一節ですが、彼の怖いもの知らずさや、物怖じせず、なにものにも動じない気質が感じられる逸話です。


「ソレカラ一つも二つも年を取れば、おのずから度胸も好くなったとみえて、年寄などの話にする神罰冥罰なんということは大嘘だと独り自ら信じ切って、今度は一つ稲荷様を見てやろうという野心を起こして、私の養子になっていた叔父様の家の稲荷の社の中には何が這入っているか知らぬと明けてみたら、石が這入っているから、その石を打っ棄ってってしまって、代わりの石を拾うて入れて置き、また隣家の下村という屋敷の稲荷様を明けて見れば、神体は何かの木の札で、これも取って捨ててしまい平気な顔をしていると、間もなく初午になって幟を立てたり太鼓を叩いたり御神酒を上げてワイ〃しているから、私は可笑しい。「馬鹿め、乃公(おれ)の入れて置いた石に御神酒を上げて拝んでいるとは面白い」と、独りうれしがっていたというような訳けで、幼少の時から神様が怖いだの仏様が難有いだのということは一寸(ちょい)ともない。占い呪い一切不信仰で、狐狸が付くというようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。子どもながらも精神は誠にカラリとしたものでした。」


この他に、世話になっている長崎の屋敷の人を騙して大分に戻ったり、金がないものだから、船頭を騙して下関まで渡ったり、痛快なエピソードがどんどん羅列されて行きます。しかし、行間を読みますと、本人は至極真面目、言いつけられた仕事は何でもこなしますし、家事雑用は見事なまでに長けています。捌ける人なんですねぇ。


大工仕事や修繕修理は当たり前、請われた仕事は何でもスイスイ片付けてしまう。器用この上ない。無駄口をきく訳でもなく、スッとやる。


勉強に関しても猛烈に勉強します。あるとき、長崎で世話になっていた人が大分に訪ねて来るのですが、その人は大金持ちで、当時は舶来品だった洋書の原書を大金を出して購入し、諭吉に見せるのです。中身は築城の書、要塞を作るオランダの本なのですが、諭吉はこれが読みたくてたまらない。しかし、先方も大金を叩いて買った洋書、そう簡単に見せる訳でもない。そこで、企てて、諭吉はその人に上手い事言いくるめてその本を借ります。借りて、昼夜を徹して寝る間も惜しまず、只管盗み書きします。盗写と諭吉は書いていますが、当時はコピー機もない時代。この本を何としても読みたい!という諭吉の情熱が、彼の行動の記述から迸るのです。


この本が読者に取って痛快なのは、この本が功為し名を遂げた人の自慢話くさくないところです。ぜんぜんそんな嫌らしいスノビッシュな雰囲気がない。俺はこんな努力を惜しまなかったんだ、という書き方ではなく、もうさ、俺、この本が読みたくて読みたくて、溜まらないわけよ、だからね、このおっさんをなんとか言いくるめてだまくらかしてさ、んで、務めもあるから、なんとか時間をやりくりしてさ、バレちゃいけないしさ、もう大変でさー、なんていう筆致でこの盗写の様子を振り返るのです。


子どもっぽいというか、情熱的というか、そういう所に惹かれるんです。小利口になり、賢しらに埃を払う如く無茶や無鉄砲を冷笑する嫌いは、ここには微塵も感じられない。そういう諭吉の破天荒さと、彼がその後に為した事に目をやると、この福翁自伝、胸に迫るものがあります。


草枕は佳境に入っています。もうすぐ物語が閉じます。草枕は文学作品なので、表現や筆致が非常に美しい。しかも漱石の豊潤な語彙と名人芸の文体のせいで、これは、マア、できれば全身で言葉を浴びたい。だからノートにも美しい文を書き写したいと思うので、地下鉄で読むには向かないのです。

諭吉の話に感けて、他の本を忘れてしまいます笑。

不倫はいけません笑


ではまた^^




追記:同級生から、明治の先達や維新の徒が起こし、信じていた思想信条をフリーハンドで礼賛するのは危ないよ、これが第二次世界大戦に至るまでの礎石になってるんだから、とご助言頂きました。友達に感謝し、僕が読んでいる物をどのように捉えているか、歴史的な観点からは一旦離れて、作品を読んでいる事、当今の政治や歴史認識の其れとは一端はなれている事を情理を尽くして説明しました。

 お断りしておきますが、明治の志士が成し遂げた志を持って、今の世直しをしようなどという不埒な事は一切考えていません。成熟し切った民主主義や国民国家解体の流れがいくら世の趨勢とは云え、時代や置かれている状況が違い過ぎます。それは乱暴というものです。これについて述べ出すと長くなりますので、酒を呑んだ時にでも話します。

もっとも大いなるもの

単語の綴りを一生懸命練習するけれど、何度も、何度も間違える子がいる。 でも、授業中、何度もうなづきながら説明を聞き、話に耳を傾け、大きな声で歌を歌う。フォニックスの発音を、口を縦横いっぱいに開けて発音する。 oshienと単語テストに書いてきた。oc...