2015年3月11日水曜日

再び「草枕」

「草枕」の読みかけを読み進めるが、なかなか先へと進ませてくれない。紅葉漱石は意地が悪い。刺激的な語彙や言い回しが目を捕らえて放さない。日本語をこんなに深く味わいながら読むのは何年ぶりだろうか。大学に通っていた頃、赤鉛筆で至る所に線を引きながら、三島由紀夫の小説を読み耽っていた頃を思い出す。

草枕。矢も盾も堪らなくなり、ノートを購入して、気になる語彙を書き綴ることにしてみる。現在の口語乃至は常用漢字、常用口語表現が失って久しい美しい日本語、仮名遣いが如何なく随所に鏤められ捲っている。

確と、という表現は「しかと」と読む。確実で間違いのないことを表す言葉だが、我々が現在使っている「しっかりしなさい」とも同語源を持つ。「確と見届ける」などの表現は今でも用いるが、口語で日常的にこの語をverbal commandとして頻用する例には中々お目に掛かれない。

一例には枚挙に遑がない。唸るばかり。ノートにどんどん書き綴って、一々嘆息する。紅葉漱石の恐るべき秀才振りに圧倒される。打ちのめされる、という語彙はこういう心持ちを表現するに相応しい。

芸術家が日常の一場面を切り取って、それを美の極みにまで高める様はどのような事なのか、漱石は以下のような表現で表す。

「この故に天然であれ、人事にあれ、衆俗の辟易し近づき難しとなす所に於て、芸術家は無数の琳琅(りんろう)を見、無情の宝璐(ほうろ)を知る。俗にこれを名けて美化という。その実は美化でも何でもない。燦爛(さんらん)たる光は炳乎(へいこ)として昔から現象世界に実在している。只(いち)(えい)眼に在って(くう)()乱墜(らんつい)するが故に、俗界の覊絏(きせつ)(ろう)として絶ち難きが故に、栄辱(えいじょく)(とく)(そう)のわれに(せま)ること、念々切なるが故に、ターナーが汽車を写すまでは汽車の美を解せず、応挙が幽霊を描くまでは幽霊の美を知らずに打ち過ぎるのである。」

日常の凡庸なる一原風景を、芸術家が見る世界。見た物を捕らえてtraceし、表現する。その美しさにため息を漏らす私たちは、芸術家のフィルターを通して初めて、私たちの周囲に無造作に置かれたobjectsの美の真髄に近づくことができる。芸術家の面目如実さ足や、ここに有り。

化学の先生と先日話していて伺ったが、今現在高校生が学んでいる物理や化学などの理科科目は自然科学の学問の世界では古典なのだそうである。今現在のテクノロジーに対してこれらの学識や知見が必ずしも即効性を持ち得るものではない、と先生は仰っていたが、間髪を入れずに、でも、古典の知識がないと、今現在のテクノロジーも全く理解ができないようにできてるんだよね、だからさ、古典ができないと、どこの世界でもやはり駄目だ、って事なんだよね、と二の句を続けられた。

温故知新。全くその通りである。再び漱石に戻り、暫し日本語の美の世界に包まれていたい。

第6章の美しい散文詩のような一節で今日は終わりたい。
「空しき家を空しく抜ける春風の、抜けて行くは迎える人への義理でもない。拒むものへの面当でもない。自から来りて、自から去る、公平なる宇宙への意(こころ)である。掌(たなごころ)に顎を支えたる余の心も、わが住む部屋の如く空しければ、春風は招かぬに、遠慮もなく生き抜けるであろう。」

では、また^^

もっとも大いなるもの

単語の綴りを一生懸命練習するけれど、何度も、何度も間違える子がいる。 でも、授業中、何度もうなづきながら説明を聞き、話に耳を傾け、大きな声で歌を歌う。フォニックスの発音を、口を縦横いっぱいに開けて発音する。 oshienと単語テストに書いてきた。oc...