2015年3月14日土曜日

話が分かり難くてすみません。

話が分かり難くて、すみません。


昨日ブログに発信者の用いる言葉や話について批判的に書いたら、幼なじみに、解ろうとしても解らない人もいるんだ、とご指摘を賜りましたので、言い訳します。


分からない人には何度でも教えますし、何度も説得をする、というのが情理を尽くす、の本意で有あって、分かる人だけが分かれば良い、というのは、理解ができる、という能力のことを言っているのではないんです。全然違う。


分かる人というのは、分かろうとする人のことを指す。分からない人というのは分かろうとしない人のことを云っているのです。


受け手の話と発信側の話が交錯しているので解りづらいと思うのですけれど、そういうことなのだと僕は思っています。


能力の適否によって受け手を選別するのであれば、その言葉はかなり狭い範囲に限定されて発せられることになります。これはたとえば、同じ技術なり、学問なりをやっていたりとか、趣味の話をしている時がそれですね。


思想信条や政治の話、哲学の話をしている時もこれと同じなのかな、と思いますが、上の例とこの場合が違うのは、技術や学問はお互いに専門的な技術なり、用語なりを共有しないと話が前に進まないのに対して、後者は相手の心や考えに訴えかける文章なので、受け手側に読もうとする気持ちがないと、読まれないし、心に入らないんですよね。


受け手側が分かりたいと思っている時というのは、何度も聞き返したり、調べたり、という苦労を惜しまないと思うんです。分かりたい、という気持ちはどこから来るのか。それはその言葉に呼ばれた時であり、その言葉を発した人とアンテナの感度が一致した時なんだと思います。


たとえば、愛着であったり、親しみの感情を寄せている人から発せられる言葉は、自分に取って一番身近ですし、そういう人から発せられる言葉には、相手から「おい、俺の話を聞けよ、な。」って言われなくても、耳や身体が感知して、きちんとキャッチしようと心が起動するんです。本当に。


たとえば家族や身近な先生、これは趣味のサークルで教えてくれる人でも良いんですけど、あるいは友達とか親友とか、親しい知り合いとかが何かを言ったりする時って、別段努力をしなくても聴くじゃないですか。分かること=分かろうとすること、ってそれに近い感覚なのだと僕は思っているんです。


わざわざパソコンなり、スマホなりでブログを読もうと思ってくださる方は、恐らく、今までの話の筋で言うと、僕と親しい人か、僕の教え子か、家族か、友人か、だと思うんですね。


その方々に発するメッセージとして、僕はこの人たちに最大限の敬意を払いたいし、払わなくてはダメだ、と思っているんです。だって、そうじゃなければ、書く意味がないから。


その人たちに分かる様な形でだけ発信をしていると、その人たちに対して使う言い回しや、話の中身がいつも決まって来たりする。そうすると、そもそも同じ様なことを言うんだったら、会ったときにコタツでみかんでも食べながらやりなよ、って話になるんですよね。


ブログに自分の考えなり、思いなりをわざわざ書くんですから、コタツで話せる様なことはコタツで話すとして、読んでくださった方が辞書を引いたり、ググったりしながらでも、読むような内容のことを僕は書きたいんです。


労を惜しまない、ということは、こちらに対して愛情が向けられている、ということですから。逆に、めんどうだからいいや、という気持ちだったらわざわざそんなことしませんし。


愛情を向けて書く、というのは、逆を返せば、相手からの愛情も受けたい、だけども、そこに用いる言葉は特別なものにしたい、薄っぺらな言葉遣いや、ありきたりのことを言うのでは、もどかしい気持ちがある、っていう感情から自然にわき起こることなんじゃないかな、と僕は思っています。


ですから、分からないからもうちょっと詳しく教えて欲しい、と問われれば、時間を惜しまない。相手がきちんと理解してくれるまで、何度でも話しますし、そのときに納得がいかなければ、それこそ長い時間を掛けて伝え続けて行く。そういう行為を通してしか、思いや考えは人の心には届かないのだ、と僕は考えているんです。


だから、難しい話をわざとしている、というのは相手の心や知性に対する僕なりの敬意ですし、配慮でもあるわけなんです。そんなの、なんの配慮だよ、って話だと思うんですけど、僕は自分の話を聞いてくれる人をバカ扱いするようなマネをしたくありませんし、そんな生き方はごめんだと思っています。


僕は関わる人にできるだけ愛情や愛着を持って人生を終わりたい。自分に対して愛着を抱いてくれる人を愛して死にたい。そう思っているんです。自分の揚げ足を取ったり、自分とは合わなかったり、嫌いだと思っている方に対して、時間を割くのは、残りの人生時間をソロバンで弾いても、割に合わないな、と思っているんです。


長くなって申し訳ないんですけど、僕が昨日ブログで書いたこととか、今まで書いて来たこととか、これから書こうとすることは、こういう気持ちに基礎付けられているんです。


りえちゃん、ごめんね^^;


では、また^^





もっとも大いなるもの

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