2017年7月20日木曜日

若い英語の先生たちへ:生徒の為に英語を勉強しよう




とある勉強会で、発表を頼まれた時のこと。5年くらい前の話。

「英語の授業で生徒に同時通訳トレーニングをさせることになんの意味があるのか。入試に関係ないことをさせて、生徒を不幸にしているのではないか。」と別の学校の英語の先生に言われ、そういう下らないことをして、自分の趣味に生徒を付き合わせるのはダメなことだ。受験指導をもっと勉強して、趣味に逃げるような仕事の姿勢を早急に変えろ、とアドバイス(だったのかな、どうなんだろう。)を受けたことがあるんです。

この言葉を聞いて、表現を失うほどのショックを受けたと同時に、もうこの勉強会にいても、生徒の為にならないな、という思いが強まったことを思い出します。その後、ほどなくして、その勉強会には二度と行かなくなりました。

英語力を高めて生徒たちの前に立ち続けること。
英語教師として、一番大事なこと。
専門家として、守るべき学びの姿勢。
毎日の英語の勉強、トレーニングを絶対に疎かにしないこと、
教材研究は業務であり、授業の予習は仕事なので、英語の勉強にカウントせず、自ら、英語の勉強に毎日コミットし続けること、この1点こそが、まず生徒の知性に対して敬意を払う最重要事項なのではないか、と僕は思っています。

若い頃の自分は、「生徒にこれを教えても、できないし、わからないから、これはやめておこう。代わりに、簡単にできて、わかりやすいこれにしておこう。」と思って授業を作っていた時代があります。

でも、ある日、他県の先生の素晴らしい授業実践に触れ、僕も自分の生徒たちに素敵な英語体験をさせたい、英語に触れる喜び、外国語を学ぶ喜び、外国語学習を通してみる祖国の文化、祖国の様子を見せたい、そんな風に強く思い立ち、生徒たちに本当の英語力をつけさせる為にどうすれば良いのか、英語教材ではなく、ネイティブが日常触れている英語に生徒も触れさせ、その上で、英語の力をつけて行きながら、英語を通して世界をみる視野を培わせたい、そう信じ始め、「生徒は、これはまだ難しすぎるのでは。」と思う発想を全て捨てました。

代わりに、「できないかもしれない。でもきっと喜んでくれると思う。ただしこの活動だけでは生徒の英語力が全て上がるわけではないから、補完、補強できるように責任を持って鍛えよう、よし、こういう授業をやってみよう。」と勇気を奮い立たせて、生徒に少しでも良いと思う活動や実践を全て授業にぶつけていくことに決めて、毎日実行し続けました。

人の目なんて、評価なんて、評判なんて、全く気になりませんでした。そんなの、後回し、とにかく生徒が身を乗り出してやり続ける活動、継続して力をつけていける方法論を模索し続けました。

同時通訳トレーニング、和訳先渡し、スピーキング活動、グループワーク、ライティング活動、多読、歌の活動、どれもやり始めた当時、全く理解を得られないばかりか、冷ややかな視線を向けられたり、冷笑され、こんなことをしても無意味だ、絶対に失敗する、考え方が甘い、現実を見ていない、生徒は受験さえ突破できればいいんだ、なぜ自分の評価が下がるような授業実践をするんだ、ともう四方八方から総攻撃を受け続けました。

でも、泣きませんでした。
でも、転びませんでした。
でも、後ろを見ませんでした。

代わりに、英語が苦手だったり、コミュニケーションが苦手だったり、悪さをして目をつけられたりする子供達の顔、表情、授業中の様子、学年でどんな風に過ごしていくか、自分の英語の授業が子供達に何かコミットできないか、そこに目を向け続けて教壇に立ち続けることにしました。

文法の説明が不味かったり、問題演習が下手だったり。
生徒が居眠りしたり、授業中に授業がうまくいかなくて崩壊したり。

ありとあらゆることも経験しましたが、その度に、
俺の英語力が低いから、生徒たちに満足のいく授業ができないんだ、と思い、勉強に打ち込みました。

僕には留学経験がありません。ですから、留学をしている人にはとても負い目を感じています。

僕も願わくば、留学したかった。米国で大学の学位を取り、流暢な英語を話して帰国し、立派な先生として歩みたかった。

でも、それはできない。どうしよう。

本屋さんで必死になって解決策を見出そうと本を探した。
出会った本が、KHシステム。そしてアルクのEnglish Journalでした。貪るようにトレーニングに打ち込みました。
食い入るように、EJに書いてあることを全て馬鹿正直に実行しました。

今思えば、29歳の時から本格的に燃えて始めた英語のトレーニング、この14年がなければ、今の自分はありません。

その前に、英語の先生は英語を勉強しなければいけない、と教えてくれた、英語教師達人セミナーで出会った、谷口先生、千田先生、中嶋洋一先生の言葉が今でも忘れられません。

日曜日、月曜日、と、福島県いわき市、宮城県仙台市で、英語の先生方向けのセミナーを行いました。各会場ともに25名ずつのご参加を頂きました。去年に比べ、若い先生方が増えていました。

会は充実の内容で、2日間とも、とても良いセミナーになりました。また来てください、先生、勉強させてください、若い人、困っている先生方からかけていただいた言葉が忘れられない。

セミナーから帰って来て2日目に、なお持って熱い思いでいることは、自分の中でかなり異例のことで、驚いています。

この胸の情熱に火を灯してくれた若い人たち、そして東北のみなさんの為に、今日はブログを書こうと決心して、このタイトルにしました。

どうか英語の勉強を必死にやってください。それが生徒の知性に
敬意を表することです。

自分が教えている生徒が、自分の英語力の高さ低さを見抜けないとしても、英語の勉強を続けてください。

生徒に自分の英語力の無さがバレなくてもいいや、と思えば、仕事は楽になります。

でも、それは生徒の「英語を勉強したい。」という気持ちに対する侮辱を含んでいます。お前はそんな高みほどには英語を勉強する必要もない、だからここら辺でいいんだよ、と言うに等しいことだと思います。

生徒に不要か必要かは無関係です。生徒たちの学び姿勢に敬意を表する時、私たち英語教師は、英語を勉強し続けることを決してやめてはいけない、僕はそう頑なに信じています。

若い先生方、困っている先生方、生徒たちを愛する全ての先生方に対して、これからもますます、多角的に協力ができないかを模索しつつ、勉強会、オンラインディスカッション、セミナーをやり続けていきたいと思っています。

子供を愛する人たち、未来を創る人たちのお手伝いがしたい。
そう強く、ますます思うようになりました。

多くの人がなかなか集まらないですが、この頃肌で感じることは、去年に比べ、少人数だけれども、半数以上がリピーターであり、また毎回、モチベーションを最大限に高めて来られてあるな、ということです。

鉄は熱いうちに打て。

今、この機の高まりを決して逃さぬよう、今後も教育活動を熱烈かつ、情熱的に行っていくつもりです。

日本にいる全ての子供達に、学びの夜明けを。
心から願っています。

では、また( ´ ▽ ` )

2017年7月18日火曜日

英作文ってなんの力を測ってるのか、辛子味噌つき紫キャベツを頬張りながら不思議に思いました。


日本の英語教育の中で、「英作文」と言うと、大抵は、和文英訳のことを指し、ライティングと言うと、自由にエッセイを書いたり、描写をしたり、大意要約をしたりすること、と言うイメージを前提に話が進むように感じます。
入試問題演習のような文法ドリルみたいなもので、英作文の問題、と言うと、大抵は、和文英訳、で、これを徹底的に練習させられて、自由英作文は、直前にちょろっと書かされるか、コミュの授業でグループワークをやったりした時にだけ、ちょろっと書かされるのが精一杯、あとは、日本語1文(多くても4、5文)を英語に翻訳する問題が課せられます。すなわち、日本語を英語に通訳する問題、と言い換えても良いと思います。 問題の趣旨は、日本語で考えていること、思っていること、読んだもの、聞き知った知識を外国語で表現できるかどうか、その精緻なレベルはいかほどか、を問うているのだと思いますが、「うーむ。」と疑問に思うこともあります。 それは、和文英訳、の、和文、はコンテクスト(文脈)を持ったコンテンツ(内容)であり、流れの解釈の仕様によっては、書き用は複数存在することになるからです。その文章をどう捉えたかによって、言い方が違ってくる、当然ですよね。読んだ人によって解釈が変わって当然なんですよね。 A:「洗濯物取っておいて、って頼んだでしょ?」B:「すぐに、って意味だったの。君が帰ってくるまででいいや、と思ってたんだ。」A:「台無しじゃないの。もう。」B:「言ってくれればよかったのに。」A:「普通、それくらいわかってくれてもいいじゃない。」 と言う夫婦の会話があるとしますね。これを英作文にしなさい、と言う問題が、仮にあるとします。(こんなこじれためんどくさい夫婦の会話、出すとか、ありえないけれど、その昔、冷え切った夫婦の静かな沈黙の冬のテーブルごし描写を読解で出した某有名私大の例があるので、もしかしたらあるかもしれないと言うことで、ここはご了解頂いて、と。) この場合、AさんとBさんの関係が、男女なのか、男性同士なのか、女性同士なのか、家族なのか、共同生活をしている友達なのか、共同生活はしているけれど友達ではなく他人なのか、そこもはっきりしないので、いかようにも解釈が可能ですね。 すなわち、喜怒哀楽の設定も、気持ちの忖度も受け手側によってどうとでも解釈ができるので、これ一つが正解、って言えないんじゃないか、って状況になってしまう。 次に時制ですね。頼んだ、のは過去、意味だった、と解釈したのは、いつ?台無し、なのはAが今洗濯物の様子を見てそう思ったのか、それともそうなってしまった、と言う完了状態を憂えているのか、さらに、普通、と言う言葉、とかね。つっこみどころはいくらでもありますよね。もう少し性格悪く細かく見ていくと、Bの「すぐに、って意味だったの。、、、」はマル、で文章が終わっているので、これは疑問文なのか、肯定文なのか、厳密に言えば、わからないですよね。相手の声の抑揚や、表情、会話の間にある間合いが、この字面からは一切伝わってこないので、このコンテンツを英訳しなさい、と言われれば、とりあえず多面的に捉えることが可能なコンテクストを、自分が持ち合わせている英語のコマンドを使って、採点者に伝える努力をするしかない。それしかないですよね。 これって、もはや、英語力を問う問題なんじゃなくて、場の空気をいかに高度に読み取ることができるか、って言う能力がどれくらい長けているかによって、解答に差は出やしないのかしら、と僕はふと思ったんです。 会話の状況を英語に直して、文法の能力を見るんだったら、わざわざこんな問題にしなくても良いだろうし、じゃあ、一体この問題形式って何のためにあるのか、もはや「入試問題の入試問題による入試問題のため」にだけ存在しうる、稀有な脆くも儚いゆらぎの存在なのではないか、何という存在の悲しさ。嗚呼、和文英訳さん、、、。
上記のことを踏まえてると、無数に解答が可能な問題の精度を高めていくんだったら、むしろ、エッセイライティングを大量にやっていきながら、エッセイの条件設定、文章の幅が出てくるような付帯条件を細かく設定する、などの工夫をして、どんどん書いていきながら、ミスが出てきた場合に、効果的にそれを拾いつつ、ミスのalternativeになりうるsubstitutesを都度学んでいく方が、言語のアウトプット能力の育成だけを考えた時には、効果が高いのではないだろうか、と考えたんです。話す技術もこれと同じプロセスを経る方が確実に上手くなります。お題について英語で話す、ヒントを学ぶ、練習する、再度お題について英語で話す、の流れですね。 これまで高校生の受験指導をしていて、幾度となく疑問に思いながら、実感を伴わないまま、頭の中での結論で疑問を封印していたのですが、日、月、と福島県いわき市、宮城県仙台市でセミナーをやらせていただき、授業実践法、教科教授法をシェアしている時に、自分で整理できたことがこれでした。なるほどね、ウンウン、と心で何度も頷きながら、話をさせていただきました。僕の方が得した気分ですね。得してすみません、ごめんなさい。 詳しいお話はまたセミナーで実際に体験して頂きながら、お伝えしますね。 西山哲郎くんと一緒に追求しているオーガニックアプローチ、毎日の積み重ねによって、生徒たちの力を伸ばしていく手筈がどんどん精度を高めていっています。 考え方や理論体系、パラダイムシフトを経験しまくると、めまぐるしく展開や状況が変わってしまいますね。また新境地にきてしまった気分です。 ではまた(´ω`)

もっとも大いなるもの

単語の綴りを一生懸命練習するけれど、何度も、何度も間違える子がいる。 でも、授業中、何度もうなづきながら説明を聞き、話に耳を傾け、大きな声で歌を歌う。フォニックスの発音を、口を縦横いっぱいに開けて発音する。 oshienと単語テストに書いてきた。oc...