2015年3月12日木曜日

「贈り物」を受け取り、次の人へ「贈る」ということ。

昨晩、財布を紛失した。中身は大して入っていなかったが、身分証、免許証、カードの類いの再発行や機能停止が面倒だな、と思っていた程度で、大して気にも留めていた訳では無かった。


普段、取り立てるまでもなく、自分は金に無頓着なのだけれど、友達や知り合いの方が、自分以上に慌てて心配して呉れる様子を見ていると、少しは貴重品に附いて、考えを改めなければ行けないね、と思った。


財布が戻って来たことは良いことだが、この経験を通して感じたことは、日本という国に住む人々の心根の清さと、これを無くすと困るかもしれない某の為に、態々一苦労を担いで交番まで届けて下さった方が居られた事実だ。


この国に生まれて本当に良かった、と今日思った。


普段の行いがいいから、とか、運が良かったね、とか、色々と結果論的に縦横に思いを巡らせることも自由だが、物がなくなると困る人が居る、と案じる人が同じ国に住んでいることの感慨へ想いを馳せることの方が、今日という一日に味気を加うるに十分ではないか。


人の物を盗ってはいけない、と子どもの頃に教わるのは、洋の東西を問わず、当たり前のことかもしれない。英語では、”Finders, keepers, losers, weepers.”という盗ったもん勝ちみたいな言葉もある。だが、これは「無くした物にくよくよしたって、始まらないじゃないのさ。」という諌言であって、盗人猛々しさに感けた言葉ではない。


お財布を拾ってくださった方は恐らく、ご自身がお財布をなくされて困ったご経験をなさったか、周囲に斯様な方が居られたか、或は、「困った思いをされた方を助けなければいけない」という正義感が身体化され得るような教育乃至は躾を施されて育ったか、の何れかであろう。


その何れかの思いに至り、財布を手付けずに届けてくださったのだ。この方は他者へ良き思いをpassされたのである。贈り物をしたのである。則ち「無くなった物が見つかると、あなたはきっと助かるでしょ?」という思いを届けてくださったことに他ならない。この方の行ないは、物理的物質移動に寄与したことではない。物質移動の所為を行なう前に、誰かに「贈り物」を届けなければ、という贈与の念がまず発起し、その後、間髪入れずに財布を届け出る行動に奔ったのだ。というか、僕はそう勝手に解釈した。


僕は今、市井の顔の分からぬ何方かから、「贈り物」を受けた。今度はそれを、また別の誰かにpassしなければいけない。贈り物を貰いっぱなしにするのはいけない。贈り物は返すことによって初めて、次の贈り物が届く準備が整う。


これは物理的なモノだけの話ではなく、何方かから受けた厚意なり、厚遇に対して、直接的に反応して行くこともさることながら、間接的に自己の環境に於いて、様々な方へ善意の贈り物を返し続けることを意味している。


自分の私利私欲を深めようとして、最後には自滅したり、村八分となる御伽草子には枚挙に遑がないが、あれらの昔話は、私たち「子ども」に対して、欲張りはいけないよ、ということを教えることが本意として編まれた訳ではないのではないか。そんな狭義な意味の噺なら、態々多くの口頭伝承に依って現代まで語り継がれる歴史的価値は、人の口伝てになるに連れ、色あせて溶けてしまう。


誰かから受けた良い行いやモノは、みんなでシェアしましょう、というuniversalな広義を、先祖先達が、何としても後世に語り継がねばならぬ、という人類的命題を無意識に掬い取ったからこそ、その感度が高かったからこそ、今でも語り継がれ続けているのではないか。


財布を紛失した経験を通して、そんな風なことに思いが至った。


とても良い気分だ。晩の葡萄酒の味はまた、格別であろう。



ではまた^^

もっとも大いなるもの

単語の綴りを一生懸命練習するけれど、何度も、何度も間違える子がいる。 でも、授業中、何度もうなづきながら説明を聞き、話に耳を傾け、大きな声で歌を歌う。フォニックスの発音を、口を縦横いっぱいに開けて発音する。 oshienと単語テストに書いてきた。oc...