2015年5月3日日曜日

自問と自省と自戒と

自分で勉強会を主催する様になり、スタートを切ってから色んな事を考える。何の為にこんなことをやってるんだろうか、と呆れてしまう事もある。自分のことも間々ならないのに、いろんな人を巻き込んで、何をしてるんだ、と思うのも事実。
自分は本を書いているわけでもないし、セミナーの講師をしたり、世に顔が売れている訳でもない。特段、何の取り柄もないし、英語を教えているけれど、英語もそんなにできない。
子供達の未来の為、と紋切り型にしてしまうと、なんだか分かった様な感じで行けない。何の為に動いているんだろう。毎日毎日、いろんなアイディアに挑戦しながら、「自分がやったことがないこと、自分が経験したことがないこと」を生徒と一緒にやりたい、と思っているだで、その気持ちだけが自分を動かしている気がしてならない。それ以外は特別になにも考えていない。

自分には守るものがない。これをしなければマズいとか、こうしなければいけない、という課題も命題も何一つ与えられていない。情念が赴くまま、一体どうすれば、授業中に子供達の目が輝くか、とそればかり考えている。

過去6年間、生徒達の力を伸ばそう、伸ばそうと考え、受験に役立ちそうないろんなシステムを敷き、子供達にたくさん勉強を強いた。無我夢中で子供達に勉強をさせた。その結果、多くの生徒達の基礎学力は保証されたが、一方で英語嫌いを生んでしまった事実にも目を背けられなくなった。僕は一体、何の為に子供達の前に立ち、授業をしているんだろう、そんな想いばかりにとらわれ、去年の秋口、恐ろしいほどの罪悪感に捕われた。自分のせいで、どれほどの子供達が英語を嫌いになってしまったんだろうと思うと、胸が痛み、悲しい気持ちになった。

自分は何の為に授業をしてるんだろう、生徒の成績を伸ばせばそれで終わりなのか、と。生徒達の成績を伸ばす事は仕事の一つではあっても、それが全てになってしまうのはおかしいのではないか、と何度も自問自答した。

若い頃、中嶋洋一先生の本を食い入る様に読んだ。大事な所に付箋を貼り、蛍光ペンでチェックを入れ、自分の勉強ノートに先生の本を要約し、毎日指導案を作り、授業の反省日誌を書いて20代を過ごした。

英語の授業を通して、子供達の目を輝かせ、学力を保証する事はもちろんのこと、その先に、子供達の将来の為、英語の授業を通して、人生を、社会を、個性の形成を、他者との交わりを、全身を使って教えてあった中嶋先生のメソッドの虜になった。

自分は30代に入り、いつしかそんなことを忘れていた。どうすれば生徒の成績が一点でも上がるか、そんな事ばかりを考えて教壇に立っていた。それはそれで、間違っていなかったと思う。いや、そう思いたい。でも、今の自分はそんな風に考える事がどうしてもできないし、それが正しいんだ、と胸を張って言えない。

6年間教えて来た子供達のことを誇りに思っている。だけど、自分が彼らに施して来た指導が、本当に正しかったのか、今でも悩むし、あれで本当に良かったんだろうか、と何度も何度も自答して、今の授業があるのかも知れない。

英語が苦手な生徒から、先生、先生の授業大好きだったよ、と言われるとき、自分はこの子に何もしてあげられなかったのに、と罪悪感でいっぱいになる。英語が苦手な生徒達から、たくさんの笑顔や優しさをもらった。先生、先生のこと、大好きだよ、と言われるたびに、自分はこの子達に何一つしてあげていないのに、本当に申し訳ない、今までこの子達に何をしてあげられたんだろうと胸が苦しくなる。

恐らく、退職するまでこんなことを何度も何度も、繰り返し、繰り返し考えながら、仕事を終えていくんだろうと僕は思う。それはどんな先生であってもそうだろうし、仕事には完成がない、という立脚点に立ってみれば、仕方がないのかも知れない。

けれども、それはそれで仕方ないんだから、あきらめるしかないんだよ、と割り切っていくことも自分にはできない。それはそうかも知れないけれど、精一杯、その子達に尽くして、誠意を持って一生懸命に誠実に向き合いたい、そう考えてしまう。そう思ってしまう。

今、現場で子供達に読み聞かせをしたり、俳句を英語で暗誦したり、多読の取り組みを始めたり、歌や教科書のレッスンで過去にも増して発音指導をしたり、ネットの英語スピーチをどんどん聞く様に奨励したりしている。毎回授業に行く度に、子供達の目が輝く姿を見るのが楽しみで仕方がない。

この取り組みを繰り返し、繰り返し行なって行きながら、生徒達が自ら燃え立って勉強に向かう気持ちを育てたい。今はその気持ちで毎回の授業を一生懸命全力投球している。
自分から、勉強したい!という気持ちで前のめりになる姿勢を育てたい。テクニックやメソッドを教えるのは簡単なんだけれど、子供のやる気のスイッチを入れるのは難しい。心に灯を点し、ハートに火をつける事は本当に大変なこと。

僕は、関わる全ての生徒が、僕の手を離れ、卒業をした後でも、英語に向き合おうとする気持ちを自分の中に持って卒業してくれる事を切望している。学ぶ気持ち、学ぶ事によって、より深く他者への理解を深める事を望んでいる。それは僕が何故先生をしているか、ということに大きく関係しているのかもしれない。わからないけれど。

英語を教えるだけだったら、僕は先生なんかしない方が良い。英語なんか、できないんだから。そうじゃない。英語の先に何があるか、授業の先に何があるか、教室で教える時間の向こう側に、子供達の何があるか、それを考えなければ僕は教壇に立ち続ける意味を失ってしまう。そう思っている。強く。

そういう考えを深めて行くと、誰かと話がしたくなった。だから勉強会を立ち上げた。一人の先生の前には200名の生徒達がいる。全国に何万と子供がいる。自分が今こんな風に考えたり思ったりしている気持ちを、同じ様に抱いている先生方もいらっしゃるに違いない、そんな先生達と話がしたい、そしてお互いに燃え立って前に進みたい、そんな風に考えた。

スキルやメソッドを垂れ流したり、トレーニングで埋め尽くされる様な授業を、僕はしたくない。子供達の心に何かが残る授業がしたい。僕らにとってはただの週の一コマかもしれないけれど、子供達にとってはそれが人生の一ページだと信じたいし、そう思って教壇に立ち続けたい。だから、その為に、何倍も努力をして、何倍も勉強をし、何倍もアイディアを温め、人の何倍も大胆に、勇気と智慧と力を持って、子供達に全力でぶつかって行きたい。そんな風に、今、泰然自若と自分に向き直っている。

僕はもうブレないし、何にも動じないと思う。恫喝や脅迫めいたことを誰かが僕に言ったとしても、絶対にそんなものには屈しないし、それで方針を変えたり、子供達に対する姿勢を曲げたりは、絶対にしない。むしろそんなことを慈しみ、憐れんで、祈りに憶えると思う。

そんな風に昨日、静かに考え、その結果をここに書いた。

The Acts of the Apostles 新約聖書:使徒言行録9章4節〜7節
{9:4} Et cadens in terram audivit vocem dicentem sibi: Saule, Saule, quid me persequeris?
{9:4} And falling to the ground, he heard a voice saying to him, “Saul, Saul, why are you persecuting me?”

{9:5} Qui dixit: Quis es Domine? Et ille: Ego sum Iesus, quem tu persequeris. Durum est tibi contra stimulum calcitrare.
{9:5} And he said, “Who are you, Lord?” And he: “I am Jesus, whom you are persecuting. It is hard for you to kick against the goad.”

{9:6} Et tremens, ac stupens dixit: Domine, quid me vis facere?
{9:6} And he, trembling and astonished, said, “Lord, what do you want me to do?”

{9:7} Et Dominus ad eum: Surge, et ingredere civitatem, et ibi dicetur tibi quid te oporteat facere. Viri autem illi, qui comitabantur cum eo, stabant stupefacti, audientes quidem vocem, neminem autem videntes.
{9:7} And the Lord said to him, “Rise up and go into the city, and there you will be told what you ought to do.” Now the men who were accompanying him were standing stupefied, hearing indeed a voice, but seeing no one.

9:4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
9:5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
9:7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。

もっとも大いなるもの

単語の綴りを一生懸命練習するけれど、何度も、何度も間違える子がいる。 でも、授業中、何度もうなづきながら説明を聞き、話に耳を傾け、大きな声で歌を歌う。フォニックスの発音を、口を縦横いっぱいに開けて発音する。 oshienと単語テストに書いてきた。oc...