2015年4月10日金曜日

こんな子供に誰がした。

卒業生で浪人生活に入った子が、今日の夕方訪ねて来ました。何でも、基礎からやり直したいのだそうで、英語の易しめの問題集と小難しい文法用語が連なる分厚い参考書を持って、5文型が分からないから一から教えて欲しいとのご所望。職員会議が終わるまで職員室の前で舞ってくれていたので、彼のノートにメモを書き留めながら丁寧に教えました。


彼曰く、「先生の説明は分かるんです。でも、問題集で、次の文はどの文と同じか。用法が同じ文を記号で選びなさい、っていう問題でいつもつまづくんです。僕、どうすればいいか分からなくて。もっと参考書を細かく読み込んでから問題を解いた方が良いですか。」と質問を、眉間に皺を寄せながら、すっかり悩み果てた様子で僕に訴えるのです。


僕、彼を抱きしめたかった。ごめんね、こんな風に考える様になってしまったのは、僕ら大人のせいなんだよね、と胸が苦しくなりました。


文法事項を細かく教え込みすぎると、子供達は文法事項の細かい用語を知らないと英語がわかった事にならない、と思い込んでる。目的格補語と主格補語の違いは何か、とか、形容詞の叙述用法と限定用法の違いは、とか。枚挙に遑がない。


英語教師である僕がこんなことを言うのは身も蓋もないかも知れないですが、正直申し上げて、微に入り仔細に穿って文法事項を網羅した参考書を読み込んだ所で、英語が使いこなせる様にはならないと思うし、そんな必要はないのではないかと思っています。


文法というのは、その言語の筋道を理解するのに必要最低限で十分だし、実際日本語を使っている僕らだって、副助詞の用法がどうだ、とか、音便の違い、音節の切れ目などを、会話や読み書きの都度、一々思い返したりせず、間髪入れずに脳で判断して立派に使いこなしています。それで十分ではないでしょうか。


大学入試に英語が問われているのは、文法事項の蘊蓄を詳しく勉強して来なさい、という意図ではなく、英語で読み書き、会話、聞き取りが正確に行なえるか、という技能を問うているわけで、細かい文法事項は英語そのものを研究したり、生業にしている人がある程度知っていれば良い事柄だと思っています。


英語を生業にしない大多数の人にとって、微細な文法事項は語学習得の邪魔にしかなりません。たとえば用法にしたって、世の参考書に切り取られて載っている英文のコンテンツから考えて、これは不定詞の副詞的用法だ、としても、英文の使われる状況から判断すれば、形容詞的用法にも副詞的用法にも取れる英文だって存在します。そういう曖昧な含意を言葉は常に含んだ上で放たれているわけで、それを全て書物や学問の中に封じ込めてしまい、その中身を全て攫おうと試みるのは徒労以外のなにものでもないのではないでしょうか。


英語が苦手な子は、得意な子や先生達はその微細な文法事項を、まるで魔法使いの様に自在に操り、英文を理解できていると思い込んでいると思いますが、これは文法教育の弊害以外のなにものでもないと僕は考えています。教える方も教わる方も双方悪気はないんです。でも悲劇は後を絶たない。そういう思い込みに苦しんでいる子供達を楽にしてあげたい、僕は本気でそう思います。


最低限の文法事項と最低限の語彙を学んだら、どんどん英語に触れて、辞書も引かずに片っ端からどんどん読む、どんどん聞く、間違えてもいいからどんどん話す、どんどん書きながら友達同士で少しずつミスを修正して行く、という形を取る方が、英語を習得する一番の近道です。

沢山の英語に触れているうちに、文法理解が曖昧だと、それ以上先に進めないという壁に必ず突き当たるんです。その時に初めて、じゃあ参考書で調べてみましょう、という話でも遅くはないと僕は思う。

中高6年間である程度の文献まで読みこなせる英語力を身につける為に俯瞰的に学習内容をカリキュラムに乗せると、どうしてもこの流れを逆行せざるを得なかった、という理屈は僕も重々理解しているつもりだし、明治以降の翻訳文化を鑑みて、この方式で英語を習得して来た国民としては、オイソレとその学習メソッドを放り出す事も間々ならないことも承知しているつもりです。


でも、そのお陰で、英語ができない子供達や、できないとは言わないまでも、英語が好きではない子供達の、英語に親しみ、英語を学ぶ事により異文化との違いや、新しい価値観を学ぶチャンスを、そのことの所為で削いでいる気がして、眉毛ぴくぴく、唇ワナワナ、憤懣遣る方ないのです。


卑近な例で申し訳ないですが、僕はラテン語をやっている時に、学習メソッドとして、訳読解釈法で学習を進めています。ガリア戦記と新約聖書を毎日やっているんですけど、これは原文をノートに写し、三行開けて、三行目には訳本に載っている和訳を書き出し(聖書は羅英聖書を用いているから英文で訳を書いているますけど)、一語一語の意味を辞書で調べ、丁寧に意味を青ペンで書き込み、その語の活用を書いて、次に進む、という遅遅としたやり方をとっています。


ラテン語の音声教材は世にほとんど流通していないし、聞き取りなんて今の僕の文法理解や語彙力だととてもじゃないけれどできない。そこで僕は取り敢えず多くのラテン語に触れながら、その都度単語と活用を何度も反復して憶えつつ、過去にやったノートの頁を読み返し、また前に進む、という方式をとっているんです。止むを得ず、というか、ね。


そのうち、埒があかなくなって来て、ああ、これはそろそろ文法を丁寧に攫った方がいいな、という態に落ち着いて、今日からラテン語基礎文法という本を勉強し始めたんです。そうすると、今まで闇雲に触れていたラテン語の用法や活用がじんわりと身体にしみ込んで行くんです。なるほど、一昨日出て来たあの単語はこういう用法のこの格のことだったんだ、とか、語順に関する事を学んで動詞や名詞の活用をきちんと憶えないといつまでたっても意味が取れる様にはならないということなどを理解する事ができてくる。


それは畢竟、ある一定のラテン語に触れて来たからこそ納得が行く、という話で、いきなり文法書から勉強していたら、とてもじゃない、名詞や形容詞にまで活用変化がある言語なんて、勉強していられない、と直ぐに放り出していたに違いない、と僕は感じました。やはり、頓馬で非効率なように見えても、沢山のラテン語に触れながら、折に触れて、分からない事を調べ、その都度少しずつ文法事項を習得して行き、ある程度分かる様になって来てから、体系的に文法を学ぶ方が良いのではないか、と僕は考えました。


さて、さっきほどの生徒の話に戻る。僕はそんな確信を得ていたので、彼に分厚い参考書は一端本棚に戻して、簡単な文法問題集を繰り返し解き直す事、あとは実地訓練で、長文がいいなら長文をやりつつ、分からないところが出て来たらそれをノートに写して解釈して、意味も調べなさい、と伝えました。分かる内容は何度も音読したり、筆写した方が余程身に付きます。これは実際にやった人で無いと分からないことです。


海外在住経験や留学経験がある人ならいざ知らず、日本にいながらに英語を身につけようと思えば、その方法が一番遠回りなようでいて、一等効率の良いやり方なのです。先ずはたくさんの英文に触れる事、問題集や参考書の英語に毛嫌いの質があるなら、歌や映画で構わない。あるいは自分の好きなものをネットで調べ、Wikipediaの記事を読む事から初めても良いではないですか。なぜわざわざ自分の興味関心が死んでしまうような学習法を継続してまで我慢を続けなければいけないのでしょうか。悲しい事です。語学は楽しいもののはずなのに。


英語そのものにアレルギーや苦手意識を持っている人が、さらにそのアレルギー体質を助長するようなもので一生懸命に英語を分かろうとしている、こんなマゾヒスティックな学習法で何を身につけようとしているのか、僕にはさっぱり意味が分かりません。勧めようとも思わないし、こんな苦痛を伴う学習法。


勉強は本来、楽しいものです。知らない事が分かる様になる事、世の中は広く、自分の知らない素敵なものに満ちあふれていることを知る事は、人として生まれ生きるものとして、無情の喜悦を感じずにはいられない心持ちのはずです。


勉強が嫌いになる方法を生徒に紹介したくありませんし、苦しいけれど頑張る、と歯を食いしばる生徒の姿を見るくらいなら、先生、もう楽しくて、気がついたらぜんぜん寝てなくて、あー、もうどうしよう、勉強楽しい!ってなっているうれしそうな生徒の顔を見る方が僕は好きなのです。どんな先生でもそう思って教壇に立って居られるはずです。僕はそう思っています。


生徒達に勉強好きになって欲しい。勉強が楽しいということに気がついて欲しい。小学校の理科の時間に、先生が初めて川に連れて行ってくださった事、実験を初めてした事、国語の時間に題材を使って劇をしたり、発表をしたりしたこと、そのときの胸のときめきをもう一度思い出して欲しいんです。あの頃、本気で「楽しい!」「面白い!」という気持ちをどんな子供でも持っていたはずなんです。


小学校を卒業してからも、勉強そのものの楽しさは本来変わらないはずなのに、多くの子供は勉強の楽しさや学ぶ喜びを知らないまま大学生になったり、社会に出て行ったりしてしまう、そんな現状がもどかしくて仕方がないのです。取り敢えず試験に出る所だけを勉強して、最低限の努力で学習を終える、なんて、本当に悲しい事です。授業で聞いた先生方のお話の他にも、その教科の楽しさや面白さは沢山あるはずなのに、その楽しみに行き着く前に心を閉じてしまう子供達が当今の日本には多い気がします。


レバレッジ(てこ)を利かせて、効率よく学習し、最低限の努力で最大の効果を出す、という哲学が跋扈し始めておかしくなった気がします。勉強は最低限の努力などでするものではなく、本来、学習の第一の目的は「知らないことがわかる」ことなのではないか、と僕は思っているです。


「効率よく最低限の力で最大限の成果を上げる」のは金儲けの話であって、そんなことを勉強に持ち込んだら、勉強の醍醐味や学ぶ楽しさは全て削がれてしまう。僕はそのことが惜しいですし、子供達が学ぶ機会を自ら削ぐ様に、私たち大人が、あるいは社会風潮が後押しするべきではない、と思っているんです。




今年受け持ったクラスの子供達のアンケートを見ますと、英語が苦手と書いている子も結構いました。恐らく件の彼のような悩みを真面目に実直に抱えてる生徒もいると思いましたので、罪滅ぼしの念も込めてブログを書きました。


どこに打つけて良いやら分からない怒りに任せて書いたら、こんな長文になってしまいました。どうもすみません。


ではまた。


もっとも大いなるもの

単語の綴りを一生懸命練習するけれど、何度も、何度も間違える子がいる。 でも、授業中、何度もうなづきながら説明を聞き、話に耳を傾け、大きな声で歌を歌う。フォニックスの発音を、口を縦横いっぱいに開けて発音する。 oshienと単語テストに書いてきた。oc...