2017年3月23日木曜日

僕の通知表

今年1年教えてきたある女子生徒から手紙をもらいました。とても心が温まりました。

それと同時に、子供達のこういう言葉が、僕の成績表みたいなものなんだな、と改めて思いました。


私は中学3年間、英語が全く出来ないし、苦手だし、嫌いでした。

英語の本読むなんて、絶対出来ないし、したくないと思ってました。でも今年、ORT読んだりOED引いたり、英文考えたりするようになって、自分でも全く出来ないことは無いって事に気づきました。一年前の自分では想像もつかないぐらい英語に触れることが出来てます。今じゃBruno Mars好きでよく歌ってます笑スピーキングもまだまだ皆には追い付けないけど、自分の中では出来るようになったと思えます。この一年で英語が「嫌い」から「好き」になれたのは、自分にとって本当に大きな事で、進路とかの見方も変わりました。十督先生のお陰です。本当にありがとうございました。 」

自分の英語教師としての仕事は、点数や進学率にコミットすることではなく、生徒の心と気持ちと習慣にコミットすることなんだな、と決意を新たにしています。


英語が嫌い、英語が苦手、英語はちょっと、という生徒を笑顔にし、元気になってもらい、英語に対するハードルを下げ、英語を授業で使い、たくさんの英語に触れて、もっと英語が知りたい!もっと英語に触れたい!と自然に思ってもらえることが僕の授業のテーマであり、目的なので、こういうメールをいただくと、今年一年は実りある一年だったな、とホット胸を撫で下ろします。

そして何よりも、この子が英語をこんなに好きになって、英語に対してワクワクドキドキな気持ちになってくれたこと、これが一番の慶びであり、誉れです。


過去にもこれと同じようなメールをもらったことがあります。こちらは男の子です。


「6年間本当にありがとうございました(´つヮ⊂)
突然なんですけど、俺、英語自体は好きなんです
たしかに勉強は全然できないし、嫌いだけど笑
でも英語で喋ったり、英語で映画見たり、音楽聞いたりってのはすごい好きで
そういうのって、この学校に来てなかったら絶対なってなかったし、先生に出会ってなかったら絶対なってなかったと思ったんです。
実際グラマーよりリーダーの方が好きで、黙々と問題解くより、音読したり、皆で英語の音楽歌ったり、そういう方が僕には楽しくって、記憶に残ってるんです。
先生は以前、僕たちに俺のせいで英語を嫌いにさせたかもしれないって言ってくださったことありましたよね?
でも俺、先生に出会ってなかったら英語の楽しさなんて1ミリも知らなかったと思うし、嫌いだったと思うんです。
きっと、こう思ってるのは自分だけじゃないと思います!
それに、先生は僕たちに本気でぶつかってくれて、俺は本当に先生の事が好きです!笑
結局何が言いたいんだよみたいになっちゃいましたけど、
偉そうになっちゃいますけど、先生の英語の教え方に間違いはないと思います!
そして、俺は英語が好きです!笑

これからも英語の楽しさを教えて下さい。

自分の英語教師としての仕事って、なんなんだろうな、と改めて考え直しました。

生徒の点数を伸ばしてあげたい、志望校に合格させたい、という気持ちは、どんな先生にも負けないくらい、強く抱いています。

その前提として、生徒が英語に大量に触れていくこと、生徒が英語を大好きでい続けること、この2つがどうしても前提条件になります。

同時通訳トレーニング、英英辞典の活用、多読、スピーキング活動、アクティブラーニング、ライティングエッセイ、全てにおいて、子供達に有効な手立てであったと思っています。

ベネッセの模試の成績も良かった。子供達の満足度もある一定のレベルにおいて、広く支持を得られることができた。

次年度はさらなるディープな英語の世界へと突入していきたいと思っています。

4技能を効果的に用いたCLIL型授業、アクティブラーニングはもはや当たり前すぎて、その言葉を使うのも耳タコなくらい定着浸透してきていると思います。

親しくさせていただいている姫路の国語の先生が先鋭的なことをしておられます。
4月に京都で勉強会があるので、そちらに参加させていただき、しっかりと勉強してきたいと思っています。

メールをくれた人、本当にどうもありがとう。
心から嬉しかった。また頑張ります。
共に次の 'giant step'を踏み出そうね。

2017年3月20日月曜日

小学生から学んだこと

息子たちと旅行に行き、有意義な2日間を過ごすことができました。

色々な会話をする中で、興味深いことを次男が言って、びっくりしました。

「お父さん、勉強の中で一番学べる行為は何と思う?」

僕は、うーん、考える、かな、話す、かな、と色々答えましたが、息子が、全部違う、と言いました。

どんな答えが返ってくるか、と静かにしていたら、こんな風に言いました。

「お父さん、それはね、教える、っていうことよ。人に教えるのはね、自分で知っとかないかんし、勉強しとかないかんやろ?

そしてね、また、それだけじゃダメで、友達に説明する時に、わかりやすく言わないかんやろ。やけん、色んな工夫がいるとよ。

やけんね、人に教える、っていう行為がね、勉強の中で、一番学べる行為とよ。知っとった?」

僕は、この言葉を聞いて、これが小学校4年生がいう言葉か、と驚嘆してしまいました。

その後続けて、
「へぇ、じゃあ、授業の中で学び合いとか、話し合いとか、富士くん(次男の名前)が先生役になったりすることがあると?」

と聞くと、理科の専科の先生がとても素敵な先生らしく、次男はその先生が授業中にしていることを全て話してくれて、さらにその先生が語ってくださるお話の内容も教えてくれました。

その先生、めっちゃ良い先生でね、でもちょっと変わっとうっちゃけど、好きっちゃん。めっちゃ勉強になるとよ、と付け添えて話してくれました。

自分が授業でアクティブラーニングをしていることを息子たちは全く知らないはずです。でも、このお話を聞くと、とても嬉しい気持ちになりました。

小学校の現場では、どんどん子供達の知性にコミットする教育実践が行われている、ということ、さらにそれを受けた生徒が、自分が感じた教育効果を実感して深く内在化できているということ、さらに、仲間と一緒に勉強したり工夫したりしている授業の形態は、全国的に広がりを見せ、各現場でかなりの部分で浸透してきている、という事実を知ることができたからです。

年度末に息子たちと旅行に行き、今年の総括を子供の口から聞かされる、ワーズワースの詩を思い出して、胸が熱くなりました。

今年一年、本当に充実していました。
たくさんの成長と、たくさんの素敵な時間と、たくさんの発見と。また一つ、良い歳の取り方ができました。

息子たちに感謝したいと思います。

My Heart Leaps Up- William Wordsworth 訳:壺齋散人


My heart leaps up when I behold
A rainbow in the sky
So was it when my life began;
So is it now I am a man;
So be it when I grow old,
Or let me die!
The Child is father of the Man;
And I could wish my days to be
Bound each to each by natural piety.

空にかかった虹を見ると
私の心は高鳴るのだ
少年の頃もそうだった
大人となったいまもそうだ
年老いてもそうありたい
でなければ死をたまえ!
少年が長じて大人となる
だから私は少年の頃の
敬虔な気持を持ち続けたい



2017年3月19日日曜日

ぼくもういかなきゃなんない〜高校三年生へ贈る言葉


卒業していく高校三年生のサッカー部壮行会にお招きいただき、参加してきました。素晴らしい会でした。

スピーチを頼まれましたので、いつも卒業生に話すことを話しました。記憶している限り再録すると、こんなスピーチだったと思います。記憶が曖昧なところは脚色で誤魔化してるので、そこは行間を各自で埋めていただくとよろしいかと思われます。

「大学や予備校へ旅立つ前に、畳の部屋に両親に来てもらい、そこで正座をして、深々と頭を垂れ、今までお世話になりました、ありがとうございました、これからもう少し迷惑をかけますが、どうぞよろしくお願いします、と言いなさい。必ず言いなさい。

卒業は君らのためだけのものではなく、親も教師も成長させる大切な節目の行事なんです。君らが小さい幼子だったイメージで君らのご両親は君たちを大切に可愛い子供として育ててこられた。

君らが大人に成長するのは嬉しくもあり、その可愛い子供が、自分の前からいなくなる寂しさがある。

そして何より、自分は親ではなく、老年を迎える、という覚悟の始まりでもあるんだよね。

だからその節目に、君らがご両親に挨拶をすることはとても大事な意味を持つんです。

親として、そして一人の男として、女として、ご両親は君らの卒業に際して、成長を、老いを、寂しさを、嬉しさを、そんな想いを全て受け止めながら、君らにバトンを継ぐ、そんな大切な節目が卒業なんです。

前の世代の人からしっかりとバトンを受け継いだよ、という意味で、必ずご両親に感謝をしなさい。

卒業おめでとう。」

谷川俊太郎さんの、さようなら、という詩を添えて贈ります。

僕からも卒業おめでとう。立派になったね。本当に立派になった。成長した。嬉しいよ。

さようなら   谷川俊太郎

ぼくもういかなきゃなんない
すぐいかなきゃなんない
どこへいくのかわからないけど
さくらなみきのしたをとおって
おおどおりをしんごうでわたって
いつもながめてるやまをめじるしに
ひとりでいかなきゃなんない
どうしてなのかしらないけど
おかあさんごめんなさい
おとうさんにやさしくしてあげて
ぼくすききらいいわずになんでもたべる
ほんもいまよりたくさんよむとおもう
よるになったらほしをみる
ひるはいろんなひととはなしをする
そしてきっといちばんすきなものをみつける
みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる
だからとおくにいてもさびしくないよ
ぼくもういかなきゃなんない

http://www.nicovideo.jp/watch/sm211195

2017年3月17日金曜日

一年最後の授業にて


今日、今年度最後の授業が3コマありました。
最後の授業だったので、久しぶりに歌を2曲歌い、子供達に読み聞かせをして、進級へのメッセージを伝えて終わりました。

お時間がある方は、動画を見ていただければ、と思います。
https://www.youtube.com/watch?v=uSTbLZqGGSc

この本はハッピーエンドで終わる本ではないのですが、敢えてこの本を選んで読みました。

この本は、ある学校に転入生の女の子が来るのですが、その子に辛く当たったり、仲間外しをしたりして、何一つ優しく接してあげられなかった主人公の女の子が、後悔の念を深く胸に抱く、というお話です。

これから子供達はクラスを解散し、色々なコースに分かれてしまいます。バラバラになっていきます。

また新たな出会いと新しいクラスで、新しい人間関係が始まると思います。

そんな局面にあって、今敢えてこの本を一緒に味わいながら、これからの自分の進路について、またその先にある生活について、しばし考えてもらう時間にして欲しい、僕はそう思っていました。

今年一年、子供達と一緒に学んだことは、グループ活動を通じて、グループの人たちと協力し、協働を通じて、他者と交わることを通じて、自分を見つめ直し、人格を深めていく、と言うことでした。

色々な人格がぶつかり合う中で、決してうまくいくことばかりではありませんでした。

自分とは合わない人、接していてイライラしてしまう人がどうしても出てきてしまう。

でも、決してグループをばらしたり、特別な対策を講じたりしませんでした。

それは、「人は一人では生きられないんだ」ということを教えるために、どうしても必要なことだと僕が思ったからです。

「電車の中で小さな子供を連れたお母さんたちに対して、悲しいんだけど、冷たい言葉を投げかけるような話を、耳にするようになって、悲しい気持ちがするんだよね。」と僕はあるクラスで語りかけました。

「そんな赤ん坊やお母さんに対して、迷惑だ、という人だって、幼い頃があったはずなんだよね。また、おじいさんやおばあさんに対して冷たく接したりするのを見聞きしたりすると、とても胸が苦しくなるんだよね。自分だって、おじいさん、おばあさんにいずれなるのにね。

障害を持っている人をバカにする人がいるけれど、自分だって、事故や病気などの不可抗力で、障害を持ってしまったり、あるいは家族が将来、障害を持って生活をすることを強いられるような可能性が僕ら一人一人にはあるんだよね。

子供は過去の自分、老人は未来の自分の姿、障害や不都合を強いられている人は、将来自分がそうなる可能性を先に生きてくれている人なんだよね。

どの人を否定しても、それは自分を否定することに繋がってしまうよね。

僕はみんなに、どんな人も決して粗末にせずに、まるで自分のことのように大切に愛おしく思って接して欲しいと思って、一年間授業をしてきたよ。

英語を通じて、みんなが頑張ったことによって、みんながそんなことを考えるきっかけになってくれたら、嬉しいと思っています。

一年間ありがとう。Thank you so much. 」

と言って、授業を閉じました。

人は一人では生きられない、そんなことを、様々な教材を使い、英語を話し、読み、聞き、書くことによって、体全体で考えた一年だったと思います。

英語の力が伸びたことはとても喜ばしいことです。

ですが、もっと嬉しいこと、それは、この授業の時に、子供達が真剣な眼差しで、読み聞かせを聞きながら、最後に僕の話にしっかりと耳を傾けてくれたことでした。

これこそが、子供達の人格の成長を物語っている瞬間だ、と僕は感じました。

実りの多い一年間でした。

子供達、一年間どうもありがとう。


2017年3月13日月曜日

「分かり合えやしない、ってことだけを、分かりあうのさ。」

何かの議論をしていて虚しくなる時に、その理由を考えるんだけど、なかなかわからない時もあって、なんだか、納得がいかない、という時がある。生きていると何度も。 でも、そんな時は、若い頃にあったエピソードを思い出しながら、それと重ね合わせるようにして、今教えている子供たちとのやりとりを思い出して、少しにやけて、早くそういうモヤモヤを忘却の彼方に追い遣るようにしている。 ものの見方や物差しが個人個人で違うし、擦れを解消しようと思っても、日々の生活の基盤が違えば、当然各々のパラダイムがどうしても一致しないのは致し方がないことなので、怒ったり悲しんだり、歯噛みしたりしても、結局は何一つ変えることはできないんだ、とあとでわかるだけで、何も良いことはない。 だから、そんな時は、無垢で無辜なものを思い浮かべて、一人でにやけてヘラヘラして、どうでも良いじゃんね、そんなの、と思うようにしている。 僕らはお互いに「分かり合えるはずだ」と信じてしがみ付いているから、どうしても相手と意見が合わなかったり、自分が納得がいかない時は感情を揺さぶられてしまう。どこかで、相手と分かり合いたいという自分の願望が勝ってしまって、なんでなんだよ!どうしてなんだ!と心が揺れてしまう。 でも、血が繋がっている家族ですら、何を考えているのかわからないのに、ましてや毎日接している他人と、何かを分かり合えることなんて、難しいどころか、あるわけがない、というのが自然な理路のはずだということを、僕らはいつも忘れてしまう。 だから、心象の揺らぎは、自分勝手な感情の悲劇性に依拠することが多い、、、と僕は思う。 人との繋がりにあって、人はなぜ優しくなれたり、相手を赦したりできるのかを考えた時に、どこかで「分かり合えるはずなんて、あるはずがないんだ。」と思っている諦観が、人を温かく優しくしてるのではないか、と僕は思うことがある。 分かり合えるはずなんてないからこそ、相手を知ろうとする。自分が相手のことをどこまでいっても知り尽くすことができないからこそ、相手に対する理解や許容が足りていない気づきと自覚が、初めて深く内在化される。 そう思うと、自分が感情を揺さぶられているのは、相手に対して甘えているからではないか、と恥ずかしい気持ちになってしまう。 23歳の頃、新任教師で、正義感と情熱だけが支えで、未熟だった自分が、今覚えば若気の至と片付けてしまう出来事に感情を奪われ、心と頭が爆発しそうになるのを抑えながら職員室にいた時、2人の女子生徒が、先生、タンポポあげる、と言って、手の汗と熱でクタクタになりかけそうなタンポポをくれたことを思い出す。彼女たちの笑顔と差し出されたタンポポを見ると、自分は何のせいで我を忘れてしまっていたのか、分からなくなってしまった。 感情を揺さぶられることは避けられない。人は一人では生きられないから、気が緩んでいたり、ふとした隙間に、つい、分かり合えるはずのない他人に甘えてしまい、気分を簡単に壊してしまう。
今日子供達が、授業の中で、グループワークをしている姿に思いを馳せた。普段は仲が良いわけでもなく、かと言って素っ気なくしているつもりでもないメンバー同士が、1つの目的に向かって活発に議論をし、真剣に英文を読み、ああではない、こうでもない、と話をしている姿に、感情の揺らぎの強さと脆さを憶え、恥ずかしくなった。 人は一人では生きられない。子供の無辜で無垢な姿が、人の世の真理を体現している瞬間に自分を立ち会わせしめた。

だからこそ人は、愛について考えることに意味を見出すのだろう。

2017年3月12日日曜日

"Good listeners are those who take thoughtful listens to each one they're with."


先週からセミナー続きで、週末は家にいない日々でした。

⭐️3/4土アクティブラーニング研修会、70名参加満員御礼にて大成功。












先週土曜日は70名の参加者が集い、敬愛する溝畑保之先生の4時間半ものロングワークショップ、素晴らしい会でした。
参加してくださった先生方、本当に有り難うございました。
第二弾も企画したいと思っています。

溝畑先生、長時間に渡るセミナー、本当に有り難うございました。感謝してもしきれません。九州を始め、全国の仲間たちと共に、先生から学んだことを実践に活かし、新しく前に進んで行きたいと思っています。

⭐️その夜、飛行機に乗り、東京へ。

日曜日は午前中、別件の仕事で本郷へ。その後、仲良くさせていただいている方から東大を案内していただくことに。素晴らしいキャンパスに吸い込まれて、散策、午後は楽しく仲間とランチ、そしてCLIL型授業のワークショップを30名の関東地区の先生方と。

CLIL型授業実践、去年暮れのネタはJoe O'dannel、今年2月末から今日の新潟まではSteve Jobs、次回は4月1日(土)の東京が新年度1発目です。別のネタを1から作って行きます。

⭐️良き傾聴者たち

そして今週末は、人生初の信越地方訪問!新潟県長岡市に行って来ました。

去年から親しくさせていただいている荒木美恵子ちゃんに呼応する形で、新潟に行かせていただける機会を頂けたこと、本当に感謝の気持ちで一杯です。

美恵子ちゃんを始め、高橋先生、前田先生、小林先生、スマイルプロジェクトの先生方、大変お世話になりました。感謝の気持ちでいっぱいです。有り難うございました。

最初のセッションは高橋先生の"You had a bad day" by Daniel Powterの曲を使った授業でした。



https://www.youtube.com/watch?v=gH476CxJxfg

この曲の持つDramaturgieをきちんと細かく生徒にわかりやすいように砕いてタスクを設計し、スピーキングとブレストを繰り返しながら、曲の魅力について、lyricsの内容について理解を深め、曲に寄り添うようにemotionを揺さぶりながら最後に参加者全員でこの曲を大きな声で歌う、という授業は、歌を用いた英語の授業で、4技能タスクを十分に使いながら行う素晴らしい時間でした。

僕のワークショップはJobsのCLIL型授業の集大成、もうこれでJobsを使ったネタは終了です。新潟で一番いい形で終わることができたのは、何よりも参加者の先生方の傾聴のご姿勢が素晴らしかったからだと思います。

授業をしていて感じる先生方の聴く姿勢は、これまでに僕が経験したことがない温かさ、深い他者理解のための傾聴姿勢、そして何よりも、わからないことをきちんと理解しようとする学びの姿勢そのものでした。素晴らしいaudienceでした。

今回は交流のスタートですが、東北地方の先生方と同じく、今後、信越地方の先生方とも活発に交流が始まるかと思うと、胸が高鳴ります。取り分け、先生方のそのご姿勢が、授業者をも育ててくださるという、まさに「学び合い」の空気感が、何度もこの場所を訪れたい、という気持ちに駆り立てるのです。

ランチを経て、幾島先生のスリランカ訪問のプレゼンテーションでした。新任の先生なのに、先生のプレゼンテーションはとても感動的で、ご自身のご経験を通して生徒(我々です)に語りかけてくる言葉の柔らかさ、先生の温かい視線、深い他者への慈愛を底流に敷いた問いかけに、タスクの中身は自ずと深い問いかけとなり、1時間があっという間に過ぎて行き、受講後、全体の心が倍音が共鳴するように震えていたのを肌で感じ、鳥肌が立ちました。

ファイナリストは京都から西山哲郎君。CLIL型授業で、アクティブラーニングのタスクをふんだんに取り入れ、4技能を縦横無尽に行き来しながら参加者のパフォーマンスを上げていく素晴らしい2時間でした。彼のこれまでのどの発表よりも洗練され、オリジナルで、誰も真似できない素敵な授業でした。

今回は、読解、文法の両面で、いかにタスクを自然に取り入れ、生徒に提示していくか、という示唆に富んだプレゼンが為され、明日からすぐにでも使えるメソッドとアクティビティが満載でした。

さらに、今回は、彼の視点の面白さ、高次元スキルベースのタスクを作成する際に陥りがちな自家中毒を難なくすり抜けていく巧妙かつ狡猾な鋭い彼の視点を通した教材研究法の提示をやってのけ、友達ながら、憎たらしいほど涼しくこれをやってのける彼の優れた授業者としての視点に、深い驚嘆を覚えました。

今回の新潟の現場は、授業者である自分にとっても、参加者の皆様にとっても、互いに深く学び合い、視点を掘り下げていくことができた、という点で、収穫がとても高い1日となりました。また明日からの授業が楽しみで仕方がありません。

新潟の先生方が持つ傾聴の姿勢、その奥に底流する深い慈愛と他者理解の愛、まさにlove supremeを、体全体で感じ、これからの教育活動に深みと広がりを与えてくださった先生方お一人お一人に本当に感謝しても仕切れません。

有り難うございました。また会いましょう。本当に有り難うございました。

深い慈愛に包まれた日曜日の夜更けです。

2017年3月9日木曜日

蛹から成虫へ

サナギが成虫になる、って、英語でどういうんだろう、と思い、wikipediaで調べたら以下のような簡潔な説明文が表示された。

A pupa (Latin pupa for doll, plural: pupae or pupas) is the life stage of some insects undergoing transformation. The pupal stage is found only in holometabolous insects, those that undergo a complete metamorphosis, going through four life stages: embryo, larva, pupa and imago.
The pupae of different groups of insects have different names such as chrysalis for the pupae of butterflies and tumbler for those of the mosquito family. Pupae may further be enclosed in other structures such as cocoons, nests or shells.[1]

今日は3つの”Three pupas have undergone its each transformation.”な出来事があった。

1つ目。
英作文の添削指導を頼まれて、指導学年外の生徒の添削をしながら共に1ヶ月。彼が今日学校を訪ねて来て、一橋、ダメでした、申し訳ありませんでした、と男泣きに泣いていたこと。

彼は、自身の不甲斐なさや、至らなさを涙に乗せて吐き出していたんだと思う。でも、彼のこれまでの学園生活を知っていると余計にその涙に、意義を見出さずにはいられなかった。

傲慢に振る舞い、世界は自分を中心で回っている、というピットフォールに陥りそうになっていた彼と話をして、君は一人では生きられないんだよ、と背中を押し、受験を迎え、毎日英作文の添削という作業を通じて、互いに向き合う時間を与えられた。

彼は自分の作文を僕にぶつけながら、様々な想いを語ってくれた。その中で、僕が彼に伝えられることを正直に全て話した。人は一人では生きられないこと、人は誰かのために仕事をする、ということ、人は、他者のために働くことによって初めて生かされること、など。

彼はこの1ヶ月で、神様に導かれるように換えられていった。その姿を間近に見ることが許された僕は、本当に幸せだったと思う。

先生、ご期待に添えなくて、こんなにお世話になったのに、申し訳ありませんでした、と彼の口から漏れ聞こえたその言葉こそが、彼の成長の全てを物語っていると思った。

立派になった。彼が思春期のガラスの天井を打ち破った果ての、一絞りの言葉だと思った。
よく頑張ったよ、本当によく頑張った、と彼に声を掛けた。

2つ目。
去年担任を持っていた2名の子らが、後輩中学生のために講演をしに、わざわざ忙しい中、学校に馳せ参じてくれた。彼らが過ごした6年間を、中学生に存分に語ってくれた。その言葉の端々に、彼らが在学中には決して味わうことのなかった、深い自己内在を感じ、心が震えた。
新たな場にあって、彼らの身に何かしらの変化が起こり、今日この場に立って、中学生に話をする、という形態を通じた自己回顧を経て、さらなる成長を遂げようとする彼らの明るい未来に、大きな夢や希望を抱いた。素晴らしい時間だった。

3つ目。
一昨年クラスを持っていて、一番手のかかった子が、今日訪ねて来てくれた。
先生、今まで迷惑をかけて本当に申し訳なかった。守ってくれてたのに、あんな態度をして、本当にごめんなさい、と男泣きに泣いた。蛹が成虫へ変わる瞬間に立ち会えるのは、この仕事をしていて、何ものにも代えがたい、大いなる慶び。

甘えもあったろう。苦悩も自虐もあったろう。人に無自覚に頼っていた、という自省と自責もあったろう。心細かったろう。そして、それでもなお、人に向き合える幸せに、胸よりも先に体が震えただろう。誰から頼まれるでもなく、涙は静かに瞳の膜を覆って、溢れるのを待てずにいただろう。そんな彼の姿がとても美しく、頼もしく、未来を感じた。

今日一日、いつもと変わらぬ一日。
神様がいろんな角度から、人の成長とは何かを教えてくださった。

神の御業は時にかなって美しい。
旧約聖書に書き記してある文言は、今ここにあって尚、正しく美しい。

S.D.G. 

もっとも大いなるもの

単語の綴りを一生懸命練習するけれど、何度も、何度も間違える子がいる。 でも、授業中、何度もうなづきながら説明を聞き、話に耳を傾け、大きな声で歌を歌う。フォニックスの発音を、口を縦横いっぱいに開けて発音する。 oshienと単語テストに書いてきた。oc...