2017年9月26日火曜日

雨にずぶ濡れになりながら、泣きながら電車に乗って、馬鹿野郎、馬鹿野郎、って言いながら泣きながら大雨の中を歩いて帰る

自分らしく生きていくことっていうのは、どういう意味に捉えられているんだろうか、と考えることがあって、それって、自分が誰かの顔を思い浮かべることなく、思い切り自分の心の声に耳を傾けることなんじゃないか、と思うことがますます多くなってきてる。

43歳だから、例えば80歳くらいまで生きられると仮定して(酒とタバコに身を焦がしてる癖にずいぶん厚かましい計算だけども)もう半分も切ってるわけで、これからの人生を思い直した時に、自分が思った通りに生きていかないと、死ぬ時に、ああ、これをやっとけばよかった、あれをやっとけばよかった、と後悔することになるんじゃないか、と怖くて仕方がないのです。

好きなことをやるっていうのは、仕事を自分のやりたい方向性でできるだけ自分の考えたこと、思ったことを実現できる形でやっていく、っていうことで、それは勇気がいるとか、協調性を持つとか、そういうことではなくて、自分がやりたいこと、やりたいからこうしようと思うこと、そして、その仕事を通して、誰かが報われたり救われたりするかもしれないという大いなる勘違いが愛へと昇華され得るんだ、と信じて自分を励ましながら進んでいく、っていうそういう原動力ですよね、それこそが大事だったりするんじゃないかしら、と僕は思ってるんですよね。

誰かのせいにして自分を押し殺してるのって、なんだか身勝手すぎるじゃないですか。自分がやりたいならやれば良いんです。できない、じゃなくて、できるところから動けば良い。動けない理由を自分以外にしてるところが、すでにモラトリアム的だと僕は思うし、人の意見に屈した自分はその人の為になってるんだ、って思うことほど、その他人に対して愛がないことはないんじゃないかと僕は思ったりしています。死ぬ間際に後悔しても遅いと思うんです。

友達と色々話してると、本当にそういう遠回りというか、人の目を気にすることがいかに自分の人生を削り去ってしまうか、ということとか、他人に依存してしまうことによって、自分の人生の後悔やら失敗やらを、誰それさんのせいで自分は、、、なんて少しばかりでも思ってしまって、それはなんだろう、不健康なのではないかしら、と友達と言い合っていて。好きに自由にやるってのは、かといって、わがまま勝手というわけでもなくて、一定の節度というかそれはもうある程度、大人ですから守っていくわけですけれども、そういうことじゃなくて。

世の中がどうすれば幸せになるんだろう、っていう自分なりのセルバンテスが擡げるというか、大いなる勘違い、僕は必要だと思うんですね。人生の合理性を優先するじゃないですか、現代人って。でも、僕は人生の合理性よりも、人生の文学性に掛けたいんです。

合理的に生きても、人生に感動は起きないと僕は思います。

雨にずぶ濡れになりながら、泣きながら電車に乗って、馬鹿野郎、馬鹿野郎、って言いながら泣きながら大雨の中を歩いて帰る、そういう納得のいかなさみたいなものと争う時間、どれくらい人生で持ってるか、で全然違うと思うんですね、感性の磨かれ方とか。

だから、みんな、もっと人目を気にしないで、自分自身に対して賢しらに振る舞うんじゃなくて、もっとこう、なんていうか、熱くグッとくる近藤マッチ的なというか、吉川晃司的な何かがいる気がしてるんですよね、僕は。

そういう泥臭い蒙昧主義的でレトロスペクティブな情熱論が、何かをモビライズしていくんじゃないのかな、と僕は思ってるんです。

スマートな生き方が良い、なんて、僕、全然思えません。
毒持ちましょう、大胆に生きましょう、聞き分けいい人やめましょう。

そう思いながら、若い人からきたメールを読んで考えていました。今日の午後の話です。

もっとも大いなるもの

単語の綴りを一生懸命練習するけれど、何度も、何度も間違える子がいる。 でも、授業中、何度もうなづきながら説明を聞き、話に耳を傾け、大きな声で歌を歌う。フォニックスの発音を、口を縦横いっぱいに開けて発音する。 oshienと単語テストに書いてきた。oc...