2015年8月30日日曜日

名も無き私塾や学習会の持つうねり



多くの人々が、人任せにしないで、自分たちの手で学びの場を取り戻そうとしている。
SNSの投稿を読むだけでも、全国津々浦々に無数の勉強会や私塾のようなものが立ち上がって活動を活発に
行なっていることが見て取れる。

自分たちの学びの場を、もはや大きな誰かには任せておけない、と肌感覚で感じている人が無数に存在することの表れだと思う。
今後、この趨勢に抗うことは益々困難になって行くと思う。

人々が本当に求めているものは、大きな場所ではなく、むしろ鼓動や呼吸の震えが聞こえてくる場でしか生まれ得ないのかもしれない。
そういう場で自然発生的に生まれてくるもののなかに、自分が本当に学びたいと思っていることが在するかも知れない、という予知が人々の
身体に感知されているからかもしれない。

小さな座敷の畳の上で、5人とか6人の人たちが集まり、自分たちが学びたいと思う事を共有し合い、情報をシェアし合って、
それぞれに燃え立って、またそれぞれの個人として、それぞれの場で燃え立って行く様子が、無数に報告され続ける。

誰かに身を委ね、任せておくだけでは、もうどうしようもない、立ち行かないんだ、と人々は気付き始めたということだろう。

これさえしておけば大丈夫、この流れに乗っておけば一安心、という観念は益々無力になって行くだろう。
そうして、思考し、考え続ける人たちは、求め、動き続け、見つからなければ、自分たちで行動を起こして行くだろう。

日本にそのような学びの場が次々に生まれつつある。そのことを最大限言祝ぎ、歓迎したいと思っている。

自分が始めた勉強会も、そのような無数の数のうちの一つだけれども、市井の人々が暮らしの中で、自分たち自身で何かを求め、
何かを摑もうと動き始めた流れの中の一つであることを誇りに思っている。

ready-madeな加工品ばかりで構築された、majorityを形成する集団からは生まれ得ない知の共有が今後どんどん起こって行くだろう。
それらは決して怠惰に合流したりはせず、それぞれの動きを尊重し合いながら、次の世代にバトンを委ねるがごとく、現れては消え、を繰り返すのだろう。

これは日本に於ける教育のルネッサンス時代の到来を意味する。

自己顕示や私利私欲の為に、これらの人々をあざ笑うが如く進もうとする輩は、
呪われ、炉に投げ入れられ、焼き捨てられるだろう。

もっとも大いなるもの

単語の綴りを一生懸命練習するけれど、何度も、何度も間違える子がいる。 でも、授業中、何度もうなづきながら説明を聞き、話に耳を傾け、大きな声で歌を歌う。フォニックスの発音を、口を縦横いっぱいに開けて発音する。 oshienと単語テストに書いてきた。oc...