2015年3月18日水曜日

8月に英語の勉強合宿をやります。

ふと思い立ったのだけれど、早い話だが、8月くらいに1泊2日くらいで、英語の勉強会合宿みたいなのを泊まり込みでやりたいな、と思い始めた。


朝から集まって、一日授業研究に打ち込み、飯を一緒に食った後は、夜は英語の文学の朗読会、それが終わったら、酒を飲みながら唐詩の朗読会。


朝起きたら、英語の音読。飯食って、英語のディスカッション、ライティングセッション、で、昼飯食って、温泉チャポーンと浸かって、じゃーねー、な会。


そういうのをやりたいな、と思っています。


英語と日本語の勉強を、楽しみながらやれる会を開催したい。日本語の朗読や、英米文学の朗読をやっても良いと思うのです。


たとえば、HemingwayMovable Feastの一節を、皆さんで酒を飲みながら、音に出して読んで行く。誰も発音を正したり、解釈したり一切しない。ひたすら1時間くらい読んで行くと、その集団の呼吸がピタッと合って来て、朗読がリズムを持ち出す。ジャズのインプロヴィゼーションみたいな感覚です。そういうのを自然に作れる時間を持ちたい。


もう一つ。唐詩を酒を飲みながら朗読する会もやってみたかったことの一つです。李白の詩を酒を飲みながらどんどん朗読する。これも、解釈とかは一切しません。


言葉を音に出して読む、という行為を通じて、身体が言葉に呼応する感覚を味わいたいのです。


僕は授業で生徒に音読をさせたり、シャドーイングをさせたり、暗誦をさせたりするんですけれど、自分個人でも英語を音に出して読むことが大好きで、こんなに楽しいから、あんたもやんなさいよ、って感覚で生徒にさせてるところがあるんです。これは本当に。


自分の勉強で音読やってる、って感覚が最早無く、純然たる趣味。英文をウェブで見つけたり、良いスピーチをYoutubeとかで聞いたりすると、居ても立っても居られなくなる。え、なに、これ?こんなのあんの?え、待って、待って、え、やべー!すげぇ!これ、マジでやべぇ!ってなって、Googleでかちゃかちゃ検索して、スクリプト(スピーチの原稿)を探して、それを自分の趣味で音読するんです。


言葉は黙読よりも声に出して音読すると体全体が言葉に呼応します。声の振動に肌が感応して、発せられる言葉を全身で浴びる。その時に身体の感度が黙読をしている時のそれとは全く違う信号を出していることに気づくのです。


欧州の教会の背丈が高く設計されているのは、教会全体に聖歌隊の声や神父さんの声が倍音になって共鳴し、人々の頭ではなく、身体に訴えかけるように、という目的があったからだと僕は理解しています。そこまでソロバン勘定して教会を建ててる。絶対そうです。


識字率が低く、字が読める人がほとんどいない中で、キリスト教を布教しようと思ったら、言葉だけに訴えても無力です。だから、賛美歌の音を聖歌隊が四声で発し、梁高く掲げられた天井を大きく畝って人々の魂に届かせようとした。そういうことが無意識に分かっていたんじゃないか、と思います。


教会というのは神社仏閣と同じで、西洋人にとっての霊域です。霊域はひんやりとして、薄暗く、そこに入ってふざけたり出来ない、罰が当たる、という超然的な雰囲気を持ってないと宗教的な説得力は増しません。神様から心を鷲掴みにされる、って、言葉による説得ではなくて、それこそ、教会や神社やお寺に入った瞬間に決まる。僕はそう理解しています。


倍音の効果について、初めて知ったのは内田樹さんの宗教と身体の本を読んでからですが、僕は幸い大学生の頃、聖歌隊の部活に入っていましたので、これは実感を伴って納得せざるを得ませんでした。又、幼い頃から教会に通っていましたが、教会には必ず聖歌隊があります。目的は神を賛美することですが、上記の点から鑑みますと、宗教的な意味合いを多分に帯びて行なわれた神事なのだ、ということが、この歳になって漸く理解できたようなことです。


長生きって、するもんですね。


さて、8月に勉強会合宿をする話。言葉を身体で音楽のように感じる時間を、同志と持ちたい、と僕は考えている。解釈や注釈の話になると、頭でっかちになる嫌いがあるのでいけない。それは日常的にもやっていることなので。


身体で言葉を感じる、という体験を通して、今一度翻って音読の効果や、素読暗誦の意義について、実感感覚を持っていたい、と僕は考えているんです。私たちはつい、頭で分かってしまうことに感けて、身体が感じることを軽んじて生きてしまうことがあります。身体の感度って、本当にすごいんです。


病気になるとか、ならないとか、そういう話ではなくて、身体で感じることと、考えていること、思っていることが一致してくると、恐ろしいほど、感性や洞察力の感度が高まります。これは僕が筋トレやスポーツをし出して、毎日切々と感じることです。


身体を鍛えたり、スポーツをするのは、アンチエイジングやダイエットの文脈でしか語られない。僕はそれがとても不満です。


確かにそれも一理も二理もありましょう。僕も同意します。でも、そんな理由は付加価値として副次的にくっついてくるおまけでしかない。グリコのおまけばっかりに感けて、肝心のキャラメルを蔑ろにした子ども時代と同じです。お前らさ、おまけばっか見てるけどさ、本当はグリコはキャラメルを食べないと買った意味が無いんだぜ、って友達に口角泡を飛ばして檄文を投げるつもりで書いていますが。


身体感覚、身体の感度が上がると、それまで頭だけで考えていたことと全く発想の仕方が変わるんです。だって、身体は脳の信号によって動いてるから。脳と常にリンクしてるんですから、そうなるに決まってる。必ずそうなる。


頭で考えることは脳でこねくり回すんです。ですけど、年を重ねると、脳の信号に対して身体の反応が鈍くなる。筋肉や神経の衰えなのでしょうけれど。でも、筋肉がある一定の強度を保つ限り、神経の反応回数が減少しない限り、脳の反応と身体の感度、頭で考えたことは一定の速度でリンクし続ける。若さを保つ為に身体を鍛える、と考えるのでは、ことの筋目が逆です。身体を鍛えた結果、脳の反応に対応し得る肉体を保っているがゆえに、身体と脳の感度が一致し、それによって行動も変わる。それだけの話です。


たとえば僕はデッドリフトという腰と股の裏を鍛えるトレーニングメニューを必ず入れていますが、このメニューをやり始めてから、デスクで採点やプリント作りをする際の長時間の座り仕事の腰痛に悩まされることが無くなりました。身体を鍛えてない時に、階段の上り下りがきつかったり、デスクでの腰痛に悩まされていたことはなんだったんだろう、とふと不思議に思うこともありましたが、腰痛にならない状態が当たり前になると、脳は若い頃と同じ様な発想や思考で保たれることがデフォルトになります。なるほどね、結果としてそうなるから、アンチエイジングなのであって、アンチエイジングを目指して身体を鍛えるっていう目標を立てるのは少し違いはしまいかね、これ、と実感してるんです。


話は長くなりましたが、8月に勉強会合宿を是非やりたいと思っています。細かいことが決まりましたら、アナウンスしますので、お出かけくださいね。



ではまた^^

もっとも大いなるもの

単語の綴りを一生懸命練習するけれど、何度も、何度も間違える子がいる。 でも、授業中、何度もうなづきながら説明を聞き、話に耳を傾け、大きな声で歌を歌う。フォニックスの発音を、口を縦横いっぱいに開けて発音する。 oshienと単語テストに書いてきた。oc...