2015年3月13日金曜日

「おまえさ、もっと分かり難い話をしてくれよ。」

「もっと分かり難く話をしてくれ」と、ふと思うことがある。

砂糖を塗したような読み易い文章が跋扈して久しい。分かり易いもの、読み易いものを読者が求めているとでも思っているのだろうか。

傲慢である。

分かり易い話が良く出てくるのは、発信側が受け手側に配慮した、と言えば聞こえが良いが、どうもそうではないのではないか、と10年来違和感を拭えないでいる。

私の知性の在処は、尊重され得ないのか、と。

私の言っていることが分からないと、私の本意が伝わらないでしょうから、あなたに分かり易いように噛み砕きますね、という含意を含んでいるのが読みやすい文章の体ではなかろうか。それは裏を返せば、お前には私の話は分からないだろうから、私が敢えて労を執って、お前に分かり易く話をしてやっているのだ、と云うことになりはしまいか。

これほど受け手側にとっての愚弄はないのではなかろうか。読む傍から、発信側に、お前はバカなんだからさ、と烙印を押されているようなものではないか。面白くない。

「短く、分かり易く、納得のいくように」というのは商売をするときに買い手に対して売り手が使う言葉遣いなのであって、決して読者の知性に刺激を与える話形ではない、と僕は思っている。
(この場合、専門家や研究者が素人の我々に対して話をする際の言語の話をしているのではないことを断っておく。)

僕は商売人ではないので、そんな文章の書き方をしたくないな、といつも思っているし、これからもそのようにしていくと思う。

僕は子ども達や仲間に向けて文章を書きたい。思っていることや考えていることをシェアし、知恵や知見を共有し合い、何かを高めたり、膨らませたりしながら、共に生きる共同体をより居心地良くしたい。僕らの住む社会が炬燵のような場所になればいいな、と思っているだけなのである。

分かり易く、短く、と話をする時には、大事だな、と思うことをかなり端折ったりしなければ行けないことも屡々で、もどかしい。俺が言いたいことはそういうことじゃ一寸足りないんだけどなぁ、まぁ紙面もあるから仕方がないんだけど、と思いながら頼まれ原稿などは書くが、SNSで自由に発信するのに、態々話を分かり易く短くする必要など、毛頭ないと僕は考えている。馬鹿馬鹿しい。そんなことしても、なんの意味もない。

長くて難しい話を人はなかなか読まないよ、と助言を賜ることも過去に有ったが、それが嫌ならば読まなければ宜しいのであって、こんな長い話に付き合ってられないという人に向けて文章を書いたりしたくない、と僕は考えている。

短く、分かり易く話をまとめようとすると、まとめる人の力量や伝えたい情報の質に依って、情理を尽くす努力を発信側が怠ることになりはしまいか、と僕は危惧しているのである。それはいけない。

自分の伝えたいこと、お前に言いたいことがあるんだ、と思うことは、相手が納得してくれるまで、情理の限りを尽くして、受け手に愛情と敬意を最大限払って発せられるべきであって、決して端折ったり、短くして出したりすべきではない、と僕は思っているのだ。それでは愛情不足である。愛の出し惜しみはいけない。愛は無条件かつ無報酬で相手に差し出されなければ、愛ではないからである。

愛スルは動詞である。名詞ではない。言葉ではなく行為行動を指す。端折る行為は、思いを目減りさせ、情念の速度や畜力を削ぐ。目の前に差し出された言葉は初めの勢いを失い、受け手側の脳を揺さぶる火の玉には成り得ないのだ。

この人は一体全体、私に何を問いかけようとしているのであろうか、と受け手側が思うとき、受け手の知性の感度は最高値に達し、臨界まで極限する。

僕は今目の前にいる人に眠る知性に語りかけたい。そう思っている。だから、授業でも、教室でも、普段共にいる人と話をする時、分かり難く、長く、納得がいくまで情理を尽くして語りたい、そんな風に考えているのです。

分かり易い話がいい人は分かり易い話を聴いたら良いと思う。もし心がカチッとクリックされて、長い話が読みたい、と思えばその時にまたお出かけ戴ければ、これ身に余る光栄なのです。

伝わる人にだけ伝わればいい。曲解を招くような、ともすれば広義に曖昧に受け取られてしまうような分かり易い話をするくらいなら、あなたにだけ語りかけるからね、確り聴いてね、と相手の眼を見据えながら話がしたい。僕はそう思う。

それが受け手側に対しての最大の敬意だと僕は考えている。

受け手に対して敬意を払わない文章は愛がない。愛のない文章は力と説得力を持たない。
僕は愛のある文章を紡ぎたい。

受け手の知性に最大限働きかけるように、文章を編みたい。そう思っている。

分かり難い話で申し訳ないが、分かり難いブログにするつもりなので、これからもこの調子は終ぞ変わることはないと思う次第であります。


ではまた^^

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