2015年4月2日木曜日

文が長くてすみません。

初めに、すみません。
長い文章です。うんざりするかも知れません。
長くてすみません。


さて、先日教え子から心温まるお葉書を頂戴しました。本当に嬉しく思いました。手書きで、米粒大の日本語が葉書にびっしりと書き込まれて居り、手紙を呉れた人の深い愛情が伝わってくる、真心の籠った手紙でした。こんなお手紙、もう随分と戴いていませんでしたので、とても嬉しかったです。


手紙の中で、教え子がこのブログを読んで呉れている事を知りました。このブログは実際に誰が読んでいるのか、10年間もやっているのに僕には分かりません笑。ここ数日登場している西山君は、僕のブログを読んでくれている事を、こちらが照れるくらい繰り返し、繰り返し伝えてくれます。そして、それが社交辞令ではないと感じる様な、たとえばあの記事はこうだったとか、あの時にこんなことを書いて居られましたよね、とか、実際に読んでいる人じゃないと絶対に分からない様な、かつ、書いた本人すら忘れ去ってしまっている内容のことシカジカを、事細かに伝えてくれたりするんです。


こういうの、すごくうれしいですよね^^


昨日戴いた手紙にも、上の西山君の例のように、他者の目から見た自分の過去が綴られていました。それはまぎれもなく、自分が生きていたあの時間に、その人も時同じくしてその場に在り、また同じ空気や気持ちを多少成りとも共有していた事実が明らかになることに他なりません。


他者が共有してくれていた過去の自分の時間を、他者という鏡を通して現在の私が見るとき、自分が生きてきた軌跡を確認する事ができます。自分は今生きているけれども、今果たして自分の存在はなんなのだろう、自分は何の為に生きているんだろう、これから自分はどこに行くんだろう、ということを、人は普段意識はしませんが、有意識無意識に関わらず、ゲームは進行して行きます。ゲームオーバーが来るまで、人はそのルールが分からないまま一生を終えて行きます。死んでもこのゲームのルールも何が正しいのかも、そもそもなんでこのゲームに参加しているのかすら、分からないまま生涯を終える。誰にも分からない。


神様に祈っても、答えを出してくれる訳で為し、なんとはなしに、ああ、こんな感じなのかな、という微かな光と希望を持って生きてる、それが生きているってことなのかな、と僕は思っています。


他者から差し出された自分の過去が、この朧げに不安をやり過ごす毎瞬間の連続に、仄かに一筋の希望を与えます。ああ、生きてて良かったね、ってこういう時に思う安堵の気持ちなのではないかと僕は思うんです。


ガリア戦記の中には、金や地位が在る程度有り、血統が高いとされている男が、謀略を企てる話が出てきます。ラテン語でそれを読んでいると、自負心と高貴のプライドに満ちていますが、儚くその野望が潰える。


また、ソロモン王が書いた「コヘレトの言葉(旧約聖書)」にも、「伝道の書(旧約聖書)」にもそんな話がゴマンと出てきます。切りがない。


謀略を企てる人の一生も、自分の人生も同じです。ルールも同じ。置かれている境遇や時間が違うだけで、全く一緒。理由が分からないまま生まれて来て、既にゲームに参加している人から見よう見まねでルールを学び、新しく参加するプレーヤーにルールを教え、ルールやゲームのコンテンツの意味がわからないまま、ゲームオーバーになる、それが人生なのではないでしょうか。


ゲームのルールは朧げにしか分からない。だけども次から次にゲームに参加してくるプレーヤーは後から後から湧いてくる。人の一生はこんな歴史の連続性の中に位置づけられている、と僕は考えています。


その中で、自分が教わった事を次のプレーヤーに教える事、そしてゲームオーバーになるまでそれを繰り返す事、それが「教育」なのでしょうし、「教え育てること」なのではないか、と僕は思っています。


教えることの意味や学ぶ事の意味は、正直良く分かりません。理由はわからないけれども、そうしなければならないし、せざるを得ない。そういう風に身体に基礎付けられている。これに抗おうと思っても容易ならざらんことです。そんなことはできない。だって人間はそうやって歴史を継ぎ足して今に至っているんですから。


ゲームをする時に、できるだけ極楽環境でプレーをしたい。その為には他のプレーヤーが邪魔者であってはいけませんし、他のプレーヤーが仲間でなければ行けません。そうしないと、快適にプレーを続ける事ができないですもの。


その為に、大人は子どもに教え育てる。それが教育の本質、親の躾、大人から子どもへの贈り物なのではないか、と僕は考えています。


人間は社会を形成しなければ生きて行けません。これは社会的に実験が行なわれ、歴史が証明している所です。ロシアのミハイルバクーニンによって唱えられた無政府主義も、ついぞ社会においてその態を為す事は在りませんでした。


無秩序、無政府、無態勢では人間は生きる事ができないのです。俺は群れるの嫌いだからさ、って言ってる人だって、絶対に独りでは生きて行く事ができない。無人島で生活する人は、色々なことを考えたりすると思うんですけれど、独りで群れずに生きて行くんだから、何も考えずに楽しく生きて行けば良いと思うんです。でも、そんなことは絶対に起こらない。無人島にいる独り身だって、過去を振り返ったり、今後どうなるんだろう、という考えが頭を過るはずだから。それは果たして誰に対して向けられているのでしょう。自己?まさかね。望郷の念やサウダージは、独りでは生きて行けない、ことへの人間の無意識の原点回帰なのでしょうし、それがデフォルトでなければ、人は人ではあり得ません。


独り、母を思い、家族を思い返し、父を想い、兄弟を憶い、友人を懐かしむ。その独りの気持ちは既に独りのものではなく、他者との時間の共有そのものなのです。


話が長くなりました。畢竟、子どもを立派な成熟した市民として一定数社会に送り出し続けないと、人間は滅んでしまう、その為に誰の責任とか、誰の所為とかではなく、これはもう、関わる大人全員で必死になって子どもを育てないと行けない。僕はそう思っています。関わる大人全員が、子どもを立派な成熟した市民にする責任があり、義務があるんです。


よく、義務教育なんだからしっかり勉強しなさい、というような事を仰る人、いらっしゃいますけど、これって子どもに伝える言葉として間違っているんです。義務教育というのは、イギリスの産業革命の時に、児童労働が大変な問題になって、このままではイギリスがダメになる、と資本家達は考え、親は子どもを働かせてその金で酒を呑んだり、遊びほうけたりせず、きちんと親として子どもを教育して立派な青年にする義務を負いなさい、という理由で始まったことなんです。だから、教育を受ける権利を持つのは子どもの方で、教育を受けさせる義務を負うのは大人の方なんです。ぜんぜん事の筋目が違う。


大人は子どもに勉強してもらう為に、背中で教えないといけないね、と僕は西山君や高木君(鎌倉学園中高の英語の先生。高木君については愛情を込めていつかブログに書きます。彼も僕の親友です。)と話すのですが、それはもう、人類への一大コミットメントだと僕らは信じて疑いません。


ですから、何故勉強するんですか、とか、どうして本を読むの、とかいう問いすらもバカバカしいというか、そんなの、当たり前じゃないか、と僕らは思っているんです。


大人が馬鹿だと子どもも馬鹿になります。大人が勉強する姿を見せ続けないのに、子どもがどうして学びましょう。大人が遊びに感けて本なぞ読まなければ、どうして子どもが書物に学びを起動しましょうか。


勉強しなさい、と言うのは易いことです。でも、勉強することが大切なんだ、と黙って背中で伝え続ける事でしか、子ども達に学ぶ事の大切さ、そして学びの先に、自分も大人になったらきちんと子どもを育てなければ行けないんだ、という、人類のDNAに組み込まれた回路を正常に作動させることは、不可能だと思っています。


長くなってすみません。学ぶ、教える、は対概念です。どちらが欠けてもいけない。



ではまた^^

もっとも大いなるもの

単語の綴りを一生懸命練習するけれど、何度も、何度も間違える子がいる。 でも、授業中、何度もうなづきながら説明を聞き、話に耳を傾け、大きな声で歌を歌う。フォニックスの発音を、口を縦横いっぱいに開けて発音する。 oshienと単語テストに書いてきた。oc...