同級生が栄転と成り、上京が決まりました。昨晩はその餞の宴があり、別の同級生が経営する居酒屋で酒を呑みました。
中々良い会で、同級生たちと久方振りの再会と、暫しの別れを惜しみました。帰りシナ、タクシーに相乗りしまして、僕は方角が違いましたので、自宅寄り三駅手前で降ろして貰い、徒歩40分歩いて帰りました。
今朝は寝坊して6:50amに起きました。
さてさて。僕は出掛けるとき、必ずコートのポッケに文庫本を持って行きます。マア、今読んでいるものを大抵は忍ばせる訳ですが、今は草枕か、福翁自伝かの何れかを持って行くようにしています。
外出する時に持って行く本は、小難しい本は向かない。物の哲学書や思想書は読んでいても頭に這入ってきません。其れこそ、バートランドラッセルの哲学入門や、ロランバルトのエクリチュールの零度なんかは、持って行って読んだ所で、マッタく頭に這入らない。考えても考えても、気が散っていけないので、こういうのはあまりお勧め出来ない。
痛快で、小気味良い筆致や文体で書かれた物をニヤニヤしながら読むのが一等向いています。そういう意味では、小説やエッセイは外出の伴には打って付けです。
この頃は、福沢諭吉さんの福翁自伝にすっかりはまり込んでしまい、どこへ出掛けるにもこればかり読んでしまう。内容が痛快愉快この上ないのです。
本は何の事はない、ベンジャミンフランクリン自伝と同じ様なもので、本人が生まれて、どこそこで成長して、功を為し名を遂げ、という話が展開されて行くのですが、普通の
自伝と決定的に違う所は、諭吉本人の性格や気質です。
彼、壱萬円札の顔になってますけれども、世間で捉えられてるイメージは、彼本来のヒトとなりとズレているんじゃないか、と僕は思います。
諭吉、punkerです笑。いや、ほんとに笑。punkerでrevolutionaryで、誠実で、真直ぐなヒトです。子どもです。大酒飲みです。
性格は真面目で勤勉だったことが本の内容から伺えますが、言動はパンクそのものです。人に媚び諂ったり、おべっかを使ったり、顔色をうかがったり一切しない。
自分の信ずる事、感じた事に素直に行動する。その実、波風を立てたり、喧嘩をしたり、人の悪口を言ったりして、周囲に諍いを起こす様なマネはけしてしない様なバランス感覚に優れている。でも、威張っている人や間抜けを、ホールデンコーンフィールドのように小馬鹿にしてる。そこがこの上なく気持ちいい。胸がスットするんです、読んでいると笑。
「ライ麦畑でつかまえて」を読んでいると、ホールデンの社会不適応さ加減故の、彼の出鱈目な口調や行動に目が離せなくなり、あー、もう、どうすんの、この人、と思いながら物語にグイグイ引き込まれて行きますよね。あれに似た感覚。でも、福沢の物語がホールデンのそれと違うのは、これは実際に起こった出来事や本人がした事が、多少の脚色を本人の筆で交えて書かれている点です。
地下鉄の中で、諭吉の行動にどんどん引き込まれる。読んでいると、あまりの荒唐無稽さぶりに、ニヤケが止まらない笑。あー、この人、どうすんの、どうすんの、と思いながらどんどんページを捲って行く。昨晩は、宴会に行くのに博多駅で降りねば成らぬところを、余りにも筋に引き込まれてしまい、危うく東比恵まで乗り過ごしてしまうところでした笑。
これは冒頭に出てくる、諭吉少年時代の一節ですが、彼の怖いもの知らずさや、物怖じせず、なにものにも動じない気質が感じられる逸話です。
「ソレカラ一つも二つも年を取れば、おのずから度胸も好くなったとみえて、年寄などの話にする神罰冥罰なんということは大嘘だと独り自ら信じ切って、今度は一つ稲荷様を見てやろうという野心を起こして、私の養子になっていた叔父様の家の稲荷の社の中には何が這入っているか知らぬと明けてみたら、石が這入っているから、その石を打っ棄ってってしまって、代わりの石を拾うて入れて置き、また隣家の下村という屋敷の稲荷様を明けて見れば、神体は何かの木の札で、これも取って捨ててしまい平気な顔をしていると、間もなく初午になって幟を立てたり太鼓を叩いたり御神酒を上げてワイ〃しているから、私は可笑しい。「馬鹿め、乃公(おれ)の入れて置いた石に御神酒を上げて拝んでいるとは面白い」と、独りうれしがっていたというような訳けで、幼少の時から神様が怖いだの仏様が難有いだのということは一寸(ちょい)ともない。占い呪い一切不信仰で、狐狸が付くというようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。子どもながらも精神は誠にカラリとしたものでした。」
この他に、世話になっている長崎の屋敷の人を騙して大分に戻ったり、金がないものだから、船頭を騙して下関まで渡ったり、痛快なエピソードがどんどん羅列されて行きます。しかし、行間を読みますと、本人は至極真面目、言いつけられた仕事は何でもこなしますし、家事雑用は見事なまでに長けています。捌ける人なんですねぇ。
大工仕事や修繕修理は当たり前、請われた仕事は何でもスイスイ片付けてしまう。器用この上ない。無駄口をきく訳でもなく、スッとやる。
勉強に関しても猛烈に勉強します。あるとき、長崎で世話になっていた人が大分に訪ねて来るのですが、その人は大金持ちで、当時は舶来品だった洋書の原書を大金を出して購入し、諭吉に見せるのです。中身は築城の書、要塞を作るオランダの本なのですが、諭吉はこれが読みたくてたまらない。しかし、先方も大金を叩いて買った洋書、そう簡単に見せる訳でもない。そこで、企てて、諭吉はその人に上手い事言いくるめてその本を借ります。借りて、昼夜を徹して寝る間も惜しまず、只管盗み書きします。盗写と諭吉は書いていますが、当時はコピー機もない時代。この本を何としても読みたい!という諭吉の情熱が、彼の行動の記述から迸るのです。
この本が読者に取って痛快なのは、この本が功為し名を遂げた人の自慢話くさくないところです。ぜんぜんそんな嫌らしいスノビッシュな雰囲気がない。俺はこんな努力を惜しまなかったんだ、という書き方ではなく、もうさ、俺、この本が読みたくて読みたくて、溜まらないわけよ、だからね、このおっさんをなんとか言いくるめてだまくらかしてさ、んで、務めもあるから、なんとか時間をやりくりしてさ、バレちゃいけないしさ、もう大変でさー、なんていう筆致でこの盗写の様子を振り返るのです。
子どもっぽいというか、情熱的というか、そういう所に惹かれるんです。小利口になり、賢しらに埃を払う如く無茶や無鉄砲を冷笑する嫌いは、ここには微塵も感じられない。そういう諭吉の破天荒さと、彼がその後に為した事に目をやると、この福翁自伝、胸に迫るものがあります。
草枕は佳境に入っています。もうすぐ物語が閉じます。草枕は文学作品なので、表現や筆致が非常に美しい。しかも漱石の豊潤な語彙と名人芸の文体のせいで、これは、マア、できれば全身で言葉を浴びたい。だからノートにも美しい文を書き写したいと思うので、地下鉄で読むには向かないのです。
諭吉の話に感けて、他の本を忘れてしまいます笑。
不倫はいけません笑
ではまた^^
追記:同級生から、明治の先達や維新の徒が起こし、信じていた思想信条をフリーハンドで礼賛するのは危ないよ、これが第二次世界大戦に至るまでの礎石になってるんだから、とご助言頂きました。友達に感謝し、僕が読んでいる物をどのように捉えているか、歴史的な観点からは一旦離れて、作品を読んでいる事、当今の政治や歴史認識の其れとは一端はなれている事を情理を尽くして説明しました。
お断りしておきますが、明治の志士が成し遂げた志を持って、今の世直しをしようなどという不埒な事は一切考えていません。成熟し切った民主主義や国民国家解体の流れがいくら世の趨勢とは云え、時代や置かれている状況が違い過ぎます。それは乱暴というものです。これについて述べ出すと長くなりますので、酒を呑んだ時にでも話します。
2015年3月25日水曜日
2015年3月24日火曜日
恋は桃色
「神の御業は時に適って美しい」とはソロモン王の詩で、コヘレトの言葉として、旧約聖書に載っていますが、この言葉は生きているうちに、何度も何度も実感される言葉だからこそ、偉大なのだと思います。
今、遠くに住んでいる親友と、毎朝、毎晩、色々な事をやり取りしています。そのダイアローグの中で気づかされる事、学ばされる事がたくさんあるのです。
お互いに話す内容は、今日はなにがしの本を読んだ、だの、どの節が良かっただの、あの漢詩は本当に良い、だの、あの小説のどこそこが良いんだ、などという趣味の世界の他愛もない話なのですが、その話も縦横無尽に脱線しまくって、結局なんの話だったっけ、と忘れてしまう事もしばしばです。
親友と話す時に、親友が言った事に対して、それは新約聖書に書いてあるよ、と言って節を引用した事があるのですが、それが高じてなのか知らん、自分はクリスチャンなのに、学校の務め以外、自宅で聖書を読む機会が減ったな、と感じ、良い機会だからと思い立って、聖書を読み、英語で筆写することにしました。
僕は自分でノートを2冊作っていて、1冊は英語の英文の筆写とか、まとまった文献の要約とか、新しい単語を見つけたらそういうのを書いたりとか、色々雑記するようにしています。
もう1冊は、日本語版。これは古典、漢文、詩、俳句、小説の一節、なんでも良いんですけど、美しいな、素敵だな、と思う文章をどんどん乱書していくんです。理由なき乱書。
それで、ここ暫くは日本語の美しさに圧倒され、心から打ちのめされていましたので、親友と芭蕉は偉大だ、とか、漱石の一節がどうの、とか、論語が良いんだ、とか、俺は李白と亀仙人とバックトゥザフューチャーのドクが全部混じったようなおじちゃんになりたいんだ、とか訳の分からない事を言いながら漢詩を綴ったり、俳句を作ったりしておりました。
英語の方がヤキモチを妬きまして、たまには相手にしてよ、と呼んだ気がしたので、論語を英語で筆写しつつ、ああ、そうか、家にギデオンの日英聖書あったよね、と思いながら、親友に贈った聖句を筆写することにしました。山上の垂訓のところですね。マタイによる福音書。
そういえば、と又思い出して点と点が線で結ばれる。学校で机の片付けをしていたら、大学生の時に履修していたラテン語の教科書が出て来た。その横には、僕が何時買ったか覚えていないのですが、かなり若い頃にカソリックの教会の売店で購入したラテン語の聖書が置いてあった。何かの役に立つか知らん、と思い、自宅に持ち帰っておりましたが、英語で聖句を筆写する際に、じゃあ一つ、ラテン語でもやってみようかね、と思い、徐にラテン語で聖句を筆写しておりました。
何やら六つかしい事で、単語やら意味やらも文法も分からん。何が書いてあるんだろうと思い、気になり出して、辞書を引きながら、ああ、なるほど、なるほど、と思いながらひたすら書き写しました。
3日間ほど作業をやっていると、ムズムズしてきた。おっ、おいでなすったな、と独り、やれやれと思う気持ちと、まぁ仕方がないか、というあきらめの気持ちでほくそ笑みました。僕の悪い癖で、一旦好きになったらマッシグラ、惚れたが負けよ、アップップ、なのです。
ラテン語の文法書を読み進め始めたんです、止せば良いのに。すると、もう止まらない。止める事が自分でもできない。
ネットでラテン文法、と検索をかけると、有り難い世の中で、数カ所、ラテン文法を解説してくださってあるページに遭遇。食い入るように読み込み、ノートにそれをまとめる。
こんなことをして、誰が得するかも、何の役に立つのかも分からない。でも、身体が勝手に動いてしまうのだから、仕方がない。
大学生の頃はさっぱり分からなかったラテン文法も、良い意味での「大人目線」フィルターを通して見るので、素直かつ冷静に入って来る。ああ、なるほど、なるほど!と思いながらノートに書き留め、書き留めたものを自分でもう一度復習って、また書く、の繰り返し。
気がつけば時間が経っていて、俺、何やってんだろ、と苦笑い。
毎朝、毎晩、決まった時間に寝起きして、決まった事をやって、身体を動かして、机に向かって寝る、っていう、それこそヘンリーディヴィッドソローみたいな森の生活の様な毎日を送っていますが、胸や心は、毎暁、もう、恋いこがれる気持ちに似て、ぎゅっと摑まれ続けているのです。
恋は盲目とは良く言ったもので笑。
長生きすると、良いことありますね^^
昨晩酒に酔って、ワイングラスに注がれた赤を眺めて出しました。
房を見ぬ 赤に溺すと 葡萄さけ 十督
ではまた^^
今、遠くに住んでいる親友と、毎朝、毎晩、色々な事をやり取りしています。そのダイアローグの中で気づかされる事、学ばされる事がたくさんあるのです。
お互いに話す内容は、今日はなにがしの本を読んだ、だの、どの節が良かっただの、あの漢詩は本当に良い、だの、あの小説のどこそこが良いんだ、などという趣味の世界の他愛もない話なのですが、その話も縦横無尽に脱線しまくって、結局なんの話だったっけ、と忘れてしまう事もしばしばです。
親友と話す時に、親友が言った事に対して、それは新約聖書に書いてあるよ、と言って節を引用した事があるのですが、それが高じてなのか知らん、自分はクリスチャンなのに、学校の務め以外、自宅で聖書を読む機会が減ったな、と感じ、良い機会だからと思い立って、聖書を読み、英語で筆写することにしました。
僕は自分でノートを2冊作っていて、1冊は英語の英文の筆写とか、まとまった文献の要約とか、新しい単語を見つけたらそういうのを書いたりとか、色々雑記するようにしています。
もう1冊は、日本語版。これは古典、漢文、詩、俳句、小説の一節、なんでも良いんですけど、美しいな、素敵だな、と思う文章をどんどん乱書していくんです。理由なき乱書。
それで、ここ暫くは日本語の美しさに圧倒され、心から打ちのめされていましたので、親友と芭蕉は偉大だ、とか、漱石の一節がどうの、とか、論語が良いんだ、とか、俺は李白と亀仙人とバックトゥザフューチャーのドクが全部混じったようなおじちゃんになりたいんだ、とか訳の分からない事を言いながら漢詩を綴ったり、俳句を作ったりしておりました。
英語の方がヤキモチを妬きまして、たまには相手にしてよ、と呼んだ気がしたので、論語を英語で筆写しつつ、ああ、そうか、家にギデオンの日英聖書あったよね、と思いながら、親友に贈った聖句を筆写することにしました。山上の垂訓のところですね。マタイによる福音書。
そういえば、と又思い出して点と点が線で結ばれる。学校で机の片付けをしていたら、大学生の時に履修していたラテン語の教科書が出て来た。その横には、僕が何時買ったか覚えていないのですが、かなり若い頃にカソリックの教会の売店で購入したラテン語の聖書が置いてあった。何かの役に立つか知らん、と思い、自宅に持ち帰っておりましたが、英語で聖句を筆写する際に、じゃあ一つ、ラテン語でもやってみようかね、と思い、徐にラテン語で聖句を筆写しておりました。
何やら六つかしい事で、単語やら意味やらも文法も分からん。何が書いてあるんだろうと思い、気になり出して、辞書を引きながら、ああ、なるほど、なるほど、と思いながらひたすら書き写しました。
3日間ほど作業をやっていると、ムズムズしてきた。おっ、おいでなすったな、と独り、やれやれと思う気持ちと、まぁ仕方がないか、というあきらめの気持ちでほくそ笑みました。僕の悪い癖で、一旦好きになったらマッシグラ、惚れたが負けよ、アップップ、なのです。
ラテン語の文法書を読み進め始めたんです、止せば良いのに。すると、もう止まらない。止める事が自分でもできない。
ネットでラテン文法、と検索をかけると、有り難い世の中で、数カ所、ラテン文法を解説してくださってあるページに遭遇。食い入るように読み込み、ノートにそれをまとめる。
こんなことをして、誰が得するかも、何の役に立つのかも分からない。でも、身体が勝手に動いてしまうのだから、仕方がない。
大学生の頃はさっぱり分からなかったラテン文法も、良い意味での「大人目線」フィルターを通して見るので、素直かつ冷静に入って来る。ああ、なるほど、なるほど!と思いながらノートに書き留め、書き留めたものを自分でもう一度復習って、また書く、の繰り返し。
気がつけば時間が経っていて、俺、何やってんだろ、と苦笑い。
毎朝、毎晩、決まった時間に寝起きして、決まった事をやって、身体を動かして、机に向かって寝る、っていう、それこそヘンリーディヴィッドソローみたいな森の生活の様な毎日を送っていますが、胸や心は、毎暁、もう、恋いこがれる気持ちに似て、ぎゅっと摑まれ続けているのです。
恋は盲目とは良く言ったもので笑。
長生きすると、良いことありますね^^
昨晩酒に酔って、ワイングラスに注がれた赤を眺めて出しました。
房を見ぬ 赤に溺すと 葡萄さけ 十督
ではまた^^
2015年3月21日土曜日
ヨーロッパ映画について
今年に入り、1月2月と随分と欧州の映画を観ました。ヨーロッパの映画はキリスト教の影響を、濃淡に関わらず受けていると思っていましたので、何故そのような終わり方になるのか、どうしてそのような展開になるのかをずっと考えたりしていました。
自分なりにある結論に至ったのですが、ヨーロッパ人にとって、どのように人生を捉えているか、という問題がどうしても頭から離れませんでした。
キリスト教の人生には、輪廻転生の考え方はありませんから、人間は生まれたら死まで一直線で、天に召されればそのまま二度と帰って来ない、という考え方が根底にあります。大雑把に言えば、ですけどね。叱られそうだけど。
仏教の考え方は基本的に輪廻が基準ですから、死ねば生まれ変わる、と思っている。死んでしまうと別のものになってしまうからこそ、今しかない浮き世は儚いと閑雅て要るんじゃないか。僕はそう思ったんですね。侘びとか寂びとかの観念もそこに帰属しているんじゃないか、と日本映画とヨーロッパ映画を交互にみながら考えていたんです。
たとえばフランスの映画を観ていて、これはもう、何でも良いんですけど、ゴダールだろうが、ジャックタチでも良いけど、映画の筋とはぜんぜん関係ないきれいな風景とか、アートになる様な景色とか、そういうのがパッて挿入されるんですよ。高校生とか大学生の時にこれがさっぱり分からなかった。なんで筋と関係のない画を入れる必要が有るんだろ、って。向田邦子のドラマとか、橋田壽賀子のドラマだったら、考えられないことです。だって、それは筋とは無関係ですから。
でも、ヨーロッパの映画って、必ず入る。何故だろう、って。考えたんです。
死生観みたいなものが「人生一度きり。」”You
only live
once!”だからこそ、人生そのものの虚しさみたいな観念がグルッと一回転して、カルナバルだ!ってラテン人達は考えたんじゃないか、と僕は思ったんです。美ーエロティシズムー死、ていう観念は一直線で繋がってるんだ、って大学生の頃ジョルジュバタイユの本に書いてあるのを読んだんですけど、ぜんぜん意味が分からなかった。それを三島由紀夫さんが、俺はそういうのを掘り下げて作品を作ってるんだ、って言って、ラディゲの死とか、サド公爵夫人とかをご自身で解説なさってあるのを読んで、ぜんぜん意味が分からなかった。え、なに言ってるの、って。
ところが、齢四十一にして、ここに来て、ああ、ってなった事があるんです。なるほどね、と。
僕らが英語の時間に時制を教える時に、時間軸を左から右に矢印で引いて教えます。あれを何百回とやっていて、その時には考えもしなかったんですけど、ヨーロッパ映画を観てて、ああ!って膝を打ったんです。ユリイカ!ってこう言う時に言うんだ、ってそのとき思いました笑。
ハイデガーの時間と存在って、これまた小難しい哲学書が有って、これも大学生の時分、背伸びして一生懸命読みましたけど、ぜんぜんその時は意味が分からなかった。でも、全ての過去のdotsがconnectする時が有るんだな、って実感を伴って分かった気がしたんです。
人生は直線上に左から右に時間が流れ、その後、死が訪れて、天に召される。この流れが前提にあるとすると、生きる事に執着しないと、天国に逝ってしまっては後の祭りだ、っていう考えがまずあって、その上で、だからこそ、生きてるうちに生に執着するんだ、っていう無意識の概念が身体化されてるんじゃないか、だから映画も芸術も生活もあんな風になるんじゃないか、と僕はぼんやり考えたんです。
たとえばヨーロッパを旅行するとどこの国の彫像も、男は筋肉ムキムキでマッチョを極めてますし、女性の裸体の絵や彫刻はわんさかあります。子どもも大人もそれが当たり前だと思って、そういう芸術品が無造作にポンポン置いてある。
これは、生きることに執着すると、逞しさを極めたものこそが、もっとも生きる力があり、生命力で満ちているんだ、という象徴として、そういうものに美を求めた事の帰結なのではないか、と僕は考えたんです。そう考えると自然に、ああ、なるほどね、って。
また、裸体は性に対する執着です。性は命の誕生に繋がる行為ですから、もっとも美しい裸こそが美しい生命を宿すのに相応しい、と彼の国の人々は観念したのではなかろうか、と僕は考えたんです。
死して天人と成る前に、生きる事に執着し続け、人生を謳歌することこそ、もっとも美しい生き方なのだ、と。だからヨーロッパ人は基本的に我がままなんだろうし、生活の中に美を意識し、取り入れるんだな、と考えを新たにしました。
たとえばファッションにしてもそうです。儚い流行のサイクルみたいなものがあって、パリコレみたいなものも、季節ごと、年ごとにトレンドがどんどん取って代わられる。それは単純にオルタナティブが先行者を取り替える、ということではなく、生きる事に執着するが故の、美への飽くなき追求の一端なんじゃないか、と僕は思ったんです。
だから話の筋とは関係ない美しいものが画像に取り込まれていても映画がきちんと成立する。生きることへの執着そのものが人生讃歌なのだ、と考えている人たちに取って、なんら不自然はないのだと思います。根拠もヘチマもない考えで申し訳ないんだけど、こんな風に思ってヨーロッパ映画を観ると、妙に納得してしまうんです笑。
逆に日本映画は侘び寂びみたいなものがここ彼処にあって、美しかったり、感情の高まりみたいなものの描き方が剥き出しになっては出て来ない。それこそ、谷崎潤一郎さんの言葉を借りるまでもなく、十言う所を七しか言わない、チラリズムのようなスタイルで、人生を描き出す。その、微かにしか現れて来ない美しさとか、儚さみたいなものに、我々日本人はアワレを憶える。それがDNAに組み込まれてるんじゃないか、と錯覚してしまうほど、映画で描かれるわびしさの中に美しさが在する部分と、観ている物が心の琴線の弦を共鳴する箇所がピタッと一致する。そんな気がしているんです。
輪廻転生は人生がぐるぐるっと一回転してまた振り出しに戻る、っていう観念ですから、死んでも帰ってくる、っていう発想でしょ。そうすると、生きているうちに人生を謳歌する手法として、美を全面に打ち立てたり、強さを誇る事、あるいはエロティシズムが露骨に剥き出しになることを佳しとしない嫌いがあるんじゃないか、と僕は考えるんです。
だって、生きてるうちにそんなものにしがみついたって、どうせ死んじゃうし、死んだら死んだで、成仏しても、別物になって、はい、ってまた生まれ変わるんですから。その、儚き一時の中、虚しき世の中に僅かながらに在する美に萌えを抱く気持ちが、私たちの中にはある。
これは「北のカナリヤ」っていう吉永小百合さんの映画を観ていて思った事でした。ああ、これって二十四の瞳と同じ様なモティーフを持ってるんじゃないかな、って。
簡単に筋をお話しますと、吉永小百合さんは島の分校の新任教師で、ご夫婦で赴任して来られて、子ども達に合唱を教え、コミュニケーション能力のない子どもの歌の才を見抜き、その子が立派に歌えるように教え育てます。その時の合唱の仲間はその小さな学校の子ども達全員なんですけれども、吉永さんは島の妻のある男性と不倫をしてしまい、旦那さんは自殺をして、島を追い出されてしまう。悲惨極まりますね。
その後、数十年を経て、ある日、コミュニケーション能力がなかった子どもも立派に就職しているのですが、なにぶん、色々と難しい生き方を強いられてて、ある日、人殺しをしてしまう。捜査の手が吉永さんにも及びます。犯人の青年に綴った手紙から刑事が捜査にくるのです。
青年はとうとう、元の島で逮捕されることになる。しかし、彼が逮捕される前に吉永さんが刑事さんに頼むんです。時間を下さい、って。その後、警察が見守る中、かつての合唱のメンバーが、彼の連行の前に、一緒に成って昔の合唱を唄って物語は終わります。
どこにも救いがないんじゃないか、って暗澹たる気持ちになるくらい暗いんですけど、この最後の、ちょっとだけ幸せな感じがほんのり残る感じこそ、日本人の持つ「もののあはれ」の観念の現れなんじゃないか、と僕は考えたんです。
二十四の瞳も、戦前戦後を経て、成長する子ども達、大人の子ども達に対する想い、平和への願いが込められていますが、事の悲惨さは北のカナリヤと同じです。大人になって再会しても、死んだ人がいたり、生活が立ち行かなかったりで、ぜんぜん救いがない。でも、再会できたメンバーで旧知を温め合う、っていう仄かな、おおよそ救いとは呼べないんじゃないか、ってくらいのちょこっとだけ幸せな一場面が、遠慮がちに添えられるだけです。
アワレ、ですよね。これは色々な漢字に置き換えて考えても、全部意味が成立する。憐れ、哀れ、矜れ、何でも良いけど、死や悲惨さの中に希望を失わない、というか、ほんのり微かに見え隠れする美みたいなものに希望を見いだす文脈が敷かれたものを佳しとするというか。
こんな風に考えられるようになって、僕は高校生の時に友達と観て、ぜんぜん意味が分からなかった映画を見返してみようと思っています。
フェリーニとかゴダールの映画にも、そういう意味もあったのか知らん。よう知らんけど笑。
ではまた^^
良い週末を^^
2015年3月20日金曜日
掃除をすること
親しい友人の来客があり、遅くまで酒を酌み交わしていた。爽やかな宴だった。
今朝方も寝坊するでもなく、朝6時半に起床、昨日の片付けを済まし、家事の雑事を終え、志ん生師匠の蒟蒻問答を聴いた。
昨日は色々な話をしたが、学校教育の中で失ってはいけないものはなんだろう、という話になった。僕は「掃除じゃないですかね。」と即答した。「分かる。だけどどうしてそう思う?」と聴かれたので、こう答えた。
「ほら、掃除って、やってもやっても切りないじゃないですか。さっき掃除したのに、もう汚れてる!なんだ、意味ないじゃん、こんなの、って思うでしょ?それが掃除なんですよね。これって、生きる、ってことを、教えるのに最適な教育活動なんじゃないかな、って思うんです。
僕ら、生きてて、色んなことを達成したり、頑張っても、その頑張りみたいなのって、すぐなくなっちゃうっていうか、過去の栄光化しちゃうじゃないですか?
あー、空しい、みたいなの(笑)。あれ、掃除と同じだな、って。生徒に、生きるって一見無意味なことなんだけど、でも、それでも生きなきゃいけないんだよね、って無言で身体に教え込むのに1番いいと思うんです。身体で感じなさい、って。
黙って掃除をする。雑巾掛けをする、箒で掃く、窓のサンの埃を取る、ばらばらに並べられた本をきちんと整頓する、埃を隈無く拭き取る、塵を捨てる、洗い物をする。そういう行為を繰り返し繰り返し、毎日やらせるんです。
そして次の日また汚れる。そしてまた掃除をする。それの繰り返し。これが生きるってことなんだよ、って。」
掃除をすることの意義をそんな風に考えている。家に居たりするとまとめて家事を片付けようと思い、ついつい色々な雑事が溜まりがちになるけれど、淡々中庸に生きようと決めてから、目の前にある一つの家事をすぐその時にするようにしている。
洗い物もシンクに置いた瞬間に蛇口を拈り、スポンジに泡を立ててゴシゴシと洗う。洗い終わったら食器棚に置いて乾かす。塵が出たらすぐに捨てる。灰皿を片付ける。汚れている卓を直ぐに拭く。
毎日、部屋の状態をできるだけ同じ状態に保つようにする。淡々と。
そうすると、生活の型ができてくる。生活の型に嵌まると、その生活の型からはみ出た行為や行動をすることが気持ち悪くなり、身体が不調になる。リズムや音律が狂ってくる。
そういうシグナルを身体が瞬時に感知できるように、身体のセンサーを高めておきたい。生身の身体の感度は、思考や発想と直結している。文武両道というのはこの意味に於いて正しい。
この身体感覚を子ども達に何としても伝えなければ、と僕は思っている。生きるって掃除と同じだよ、って。片付けても片付けても散らかる。拭いても拭いても汚れる。でも、煩雑なままでは生活は立ち行かない。だから掃除をし、片付けをする。生きてるっていうのも、これと同じことなんだよね、と身体を動かしながら生徒に伝えたい。
そんな気持ちを込めて、生徒と共に掃除をし、生きることを全身に感じていたい、と静かに黙考するのです。
ではまた^^
2015年3月19日木曜日
英語教師の授業心得について
来年度の授業のことを考えると、色々に気が散って行けませんが、只唯一、心構えと云うか、これだけは守ろうと思っていることは、「英語を嫌いにさせないこと。」です。
英語に興味関心を持ち、外国語の学習を通して他文化の価値観や考え方を学び、自国文化との差異に奮え、新たな眼が啓かれるように生徒に教えたい。そのためには、生徒が英語を嫌いになってもらうと困るんです。好きでいて欲しい。
ものを教えることは洋の東西を問わず。人類の黎明以来、脈々と続いてきた生存行為であり、教えることの英知は人類共通の智慧の結晶です。どこの世界でも連綿脈々と、有史以来ずっとやってきたのが教育です。「教える」ことによって後世に生き延びる術を伝える、これが教育の根本単位であり、基本原則です。
その起源をどこに求めても、わかりませんし、これからもわかることはおそらくないでしょう。なぜなら、人類が生き延びる為には下の世代に兎に角生き延びてもらわないと行けない。簡単に死んでもらっては困る。それでは滅亡してしまう。だから死なないように、できるだけ長生きするように、食べ物の採り方や作物の育て方、狩猟の仕方、雨露のしのぎ方から、武具の作り方など、あらゆることを教えた。衣食住足ると、今度は生きる意義は何か、社会を形成するとは何か、などに発達し、今現在アカデミアが様々な学問が自然に形勢されていった。この流れが、人類に教育が興った軌跡なのではないか、と僕は想像に助を借ります。
誰が始めたか、分からないんですけど、先達から託されたメッセージや暗黙のルールだけが口伝てや書によって残された。だから今現在、学校教育が担っている仕事は、なぜそうなっているか分からないけれど、簡単に弄くり回したり、取り替えたりしてはいけないのではないか、と僕は考えています。だって、人類の英知に逆らうことになるから。
山本五十六の「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、 ほめてやらねば人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」という言葉を引くまでもありません。
戦争をやらせたら山本の右に出る者はいない、と云われたほど、第二次大戦時に英雄視されていた山本ですら、若者を教えるときに、口やかましく怒鳴り散らしたり、ふんぞり返ったりしても、優秀な兵士は育たないのだ、という達観から、この言葉を残したのではないでしょうか。
また、山本の別の言葉に以下のようなものがあります。
「いまの若い者は」などと、口はばたきことを申すまじ。実年者は、今どきの若い者などということを絶対に言うな。なぜなら、われわれ実年者が若かった時に同じことを言われたはずだ。今どきの若者は全くしょうがない、年長者に対して礼儀を知らぬ、道で会っても挨拶もしない、いったい日本はどうなるのだ、などと言われたものだ。その若者が、こうして年を取ったまでだ。だから、実年者は若者が何をしたか、などと言うな。何ができるか、とその可能性を発見してやってくれ。」
僕はこの山本の言葉に、教育の真髄があるのではないか、と思っているんです。口やかましく生徒にがなり立てて教えていた20代の頃は、こんな山本の言葉も知りませんし、全く分かっていませんでした。しかし、生徒達が離れていく、自分からも英語からも離れてそっぽを向く状態が続いたことがあり、自分の教師としてのあり方を見つめ直したことがあります。その時にぼんやり、「俺の1番の仕事は、生徒が英語を好きになる、ことなんじゃないかな。」と朧気にじんわりと実感した記憶が今でも残っています。無力感で一杯でしたけれどもね、若くて未熟で。
あるいは大村はまさんの言葉でも別の言い方ですけれど、山本五十六が云っていることと同じことが語られている。
「しかし,劣等だとか,優等だとかいう世界の向こうの世界へ子どもを連れていくことはしなければならない。教室で座りながら,できない,つらいなどと思わせる,片っぽうは反対に得意になっているとか。これも人間を育てる世界らしからぬ世界で,そういうところに子どもを置いてはだめです。 ……ただ教室のなかで優劣の向こうへ生徒をもっていくことだけは,これはしなくてはいけないことでしょう。教室のなかで,それぞれ学習に打ち込んでいて,それぞれ成長していて,だれができ,どの子ができないなどと思っているすきまがないようにしなければならないと思います。 ……できるとかできないとかということを忘れて,全力をふるって,うちこんでやっていく。一生懸命やっていく,その向こうで,その気持ちのなかで,できる子ども,できない子があっても,そんなことに関係のない世界をつくっていくことができないか。……おもしろい授業を力いっぱいさせて,生徒に自分が劣っていることを忘れて打ち込ませるところまではもっていかなくてはと思っています。みんな一生懸命になっているとき,そんなことが気にならなくなってしまうのですね。」
大村はまさんは、焼け野原の東京で教鞭を執り始めました。新米教師で只でさえ不安なのに、紙も教科書も鉛筆もない。教室もない。学年もばらばらな大勢の子ども達が目の前にいる。大村さんは途方に暮れた。どうすれば良いんだろう、私はどんな授業をすれば良いんだろう、と。このときの大村さんの気持ちは、「二四の瞳」の大石先生と重なります。
大村さんは僅かに残る禿びた鉛筆と、広告の裏紙のような紙、更には教材として新聞紙を手に、子ども達の所に行った。子ども達には新聞と紙と鉛筆を持たせ、新聞を読んで自分が良いな、と思ったところを感想に書きなさい、と発問された。
焼け野原の教室。すし詰めに所狭しと肩を寄せ合う子ども達は、徐に学習道具を手に、夢中になって読み、夢中になって書き捲った。大村さんは授業が終わるとその紙を集め、職員室に帰って生徒達の書いたものを読みながら、涙が止まらなかった、と書いておられます。
子ども達の中には、家を焼け出された者、家族を失って孤児になったもの、今日喰うにも困窮している者など、様々だった、と云います。そんな悲惨な状況にあって尚、瑞々しく描き出された子ども達の感性に大村さんは心を揺さぶられたのです。
これだ、これなんだ、と。これこそがまさに教師の仕事なんだ、と。大村さんの著書にはそれが書かれてあり、胸を鷲掴みにされます。具体的な指導法や技術についてはほとんど書かれていない。なのに、大村はまさんの本を教師として何度も何度も読み返したくなり、折に触れて手に取ってしまう。
理由は分からないんです。でも気付くと必ずそうしている。それは自分も、教える、という仕事の本質はここにこそ有るのではないか、と無意識に勘づいているからであり、またその感覚が身体化されているからではないか、と思うんです。DNAに組み込まれている、と言えば良いのか。
シュタイナーやバートランドラッセルが云ってることも、あるいは斎藤喜博が言ってることも、根本的な教育の本質を突く、という意味では同質同根同意であり、ワーディングこそ違うけれども、言われているコンテンツの枠をけして出ることはない。同じなんです。学ぶとは何か、教えるとはなにか、その本質は、手を変え品を変えても、けして変わることはないのだよ、と僕らに何度も何度も語りかけてる。
先人達が突き詰めて考えて実践し、行き着いた教育の本質が皆同等同質である場合、世がいくら教育改革を呼号したところで、本質に敵うわけがないのです。ちゃちな頭で賢しらに聡く編まれた改革案などより、実践家である偉大な先達達の残した教育哲学に寄り添うことの方が、僕は教師の本懐なのではないか、そう思っているんです。
来年度はどの学年になるのか、分かりませんが、何を持っても先ず、「生徒が英語を嫌いにならないこと」「生徒が英語に夢中になること」を一等大事にし、授業をしていきたい、と僕は考えています。
ではまた^^
2015年3月18日水曜日
8月に英語の勉強合宿をやります。
ふと思い立ったのだけれど、早い話だが、8月くらいに1泊2日くらいで、英語の勉強会合宿みたいなのを泊まり込みでやりたいな、と思い始めた。
朝から集まって、一日授業研究に打ち込み、飯を一緒に食った後は、夜は英語の文学の朗読会、それが終わったら、酒を飲みながら唐詩の朗読会。
朝起きたら、英語の音読。飯食って、英語のディスカッション、ライティングセッション、で、昼飯食って、温泉チャポーンと浸かって、じゃーねー、な会。
そういうのをやりたいな、と思っています。
英語と日本語の勉強を、楽しみながらやれる会を開催したい。日本語の朗読や、英米文学の朗読をやっても良いと思うのです。
たとえば、HemingwayのMovable Feastの一節を、皆さんで酒を飲みながら、音に出して読んで行く。誰も発音を正したり、解釈したり一切しない。ひたすら1時間くらい読んで行くと、その集団の呼吸がピタッと合って来て、朗読がリズムを持ち出す。ジャズのインプロヴィゼーションみたいな感覚です。そういうのを自然に作れる時間を持ちたい。
もう一つ。唐詩を酒を飲みながら朗読する会もやってみたかったことの一つです。李白の詩を酒を飲みながらどんどん朗読する。これも、解釈とかは一切しません。
言葉を音に出して読む、という行為を通じて、身体が言葉に呼応する感覚を味わいたいのです。
僕は授業で生徒に音読をさせたり、シャドーイングをさせたり、暗誦をさせたりするんですけれど、自分個人でも英語を音に出して読むことが大好きで、こんなに楽しいから、あんたもやんなさいよ、って感覚で生徒にさせてるところがあるんです。これは本当に。
自分の勉強で音読やってる、って感覚が最早無く、純然たる趣味。英文をウェブで見つけたり、良いスピーチをYoutubeとかで聞いたりすると、居ても立っても居られなくなる。え、なに、これ?こんなのあんの?え、待って、待って、え、やべー!すげぇ!これ、マジでやべぇ!ってなって、Googleでかちゃかちゃ検索して、スクリプト(スピーチの原稿)を探して、それを自分の趣味で音読するんです。
言葉は黙読よりも声に出して音読すると体全体が言葉に呼応します。声の振動に肌が感応して、発せられる言葉を全身で浴びる。その時に身体の感度が黙読をしている時のそれとは全く違う信号を出していることに気づくのです。
欧州の教会の背丈が高く設計されているのは、教会全体に聖歌隊の声や神父さんの声が倍音になって共鳴し、人々の頭ではなく、身体に訴えかけるように、という目的があったからだと僕は理解しています。そこまでソロバン勘定して教会を建ててる。絶対そうです。
識字率が低く、字が読める人がほとんどいない中で、キリスト教を布教しようと思ったら、言葉だけに訴えても無力です。だから、賛美歌の音を聖歌隊が四声で発し、梁高く掲げられた天井を大きく畝って人々の魂に届かせようとした。そういうことが無意識に分かっていたんじゃないか、と思います。
教会というのは神社仏閣と同じで、西洋人にとっての霊域です。霊域はひんやりとして、薄暗く、そこに入ってふざけたり出来ない、罰が当たる、という超然的な雰囲気を持ってないと宗教的な説得力は増しません。神様から心を鷲掴みにされる、って、言葉による説得ではなくて、それこそ、教会や神社やお寺に入った瞬間に決まる。僕はそう理解しています。
倍音の効果について、初めて知ったのは内田樹さんの宗教と身体の本を読んでからですが、僕は幸い大学生の頃、聖歌隊の部活に入っていましたので、これは実感を伴って納得せざるを得ませんでした。又、幼い頃から教会に通っていましたが、教会には必ず聖歌隊があります。目的は神を賛美することですが、上記の点から鑑みますと、宗教的な意味合いを多分に帯びて行なわれた神事なのだ、ということが、この歳になって漸く理解できたようなことです。
長生きって、するもんですね。
さて、8月に勉強会合宿をする話。言葉を身体で音楽のように感じる時間を、同志と持ちたい、と僕は考えている。解釈や注釈の話になると、頭でっかちになる嫌いがあるのでいけない。それは日常的にもやっていることなので。
身体で言葉を感じる、という体験を通して、今一度翻って音読の効果や、素読暗誦の意義について、実感感覚を持っていたい、と僕は考えているんです。私たちはつい、頭で分かってしまうことに感けて、身体が感じることを軽んじて生きてしまうことがあります。身体の感度って、本当にすごいんです。
病気になるとか、ならないとか、そういう話ではなくて、身体で感じることと、考えていること、思っていることが一致してくると、恐ろしいほど、感性や洞察力の感度が高まります。これは僕が筋トレやスポーツをし出して、毎日切々と感じることです。
身体を鍛えたり、スポーツをするのは、アンチエイジングやダイエットの文脈でしか語られない。僕はそれがとても不満です。
確かにそれも一理も二理もありましょう。僕も同意します。でも、そんな理由は付加価値として副次的にくっついてくるおまけでしかない。グリコのおまけばっかりに感けて、肝心のキャラメルを蔑ろにした子ども時代と同じです。お前らさ、おまけばっか見てるけどさ、本当はグリコはキャラメルを食べないと買った意味が無いんだぜ、って友達に口角泡を飛ばして檄文を投げるつもりで書いていますが。
身体感覚、身体の感度が上がると、それまで頭だけで考えていたことと全く発想の仕方が変わるんです。だって、身体は脳の信号によって動いてるから。脳と常にリンクしてるんですから、そうなるに決まってる。必ずそうなる。
頭で考えることは脳でこねくり回すんです。ですけど、年を重ねると、脳の信号に対して身体の反応が鈍くなる。筋肉や神経の衰えなのでしょうけれど。でも、筋肉がある一定の強度を保つ限り、神経の反応回数が減少しない限り、脳の反応と身体の感度、頭で考えたことは一定の速度でリンクし続ける。若さを保つ為に身体を鍛える、と考えるのでは、ことの筋目が逆です。身体を鍛えた結果、脳の反応に対応し得る肉体を保っているがゆえに、身体と脳の感度が一致し、それによって行動も変わる。それだけの話です。
たとえば僕はデッドリフトという腰と股の裏を鍛えるトレーニングメニューを必ず入れていますが、このメニューをやり始めてから、デスクで採点やプリント作りをする際の長時間の座り仕事の腰痛に悩まされることが無くなりました。身体を鍛えてない時に、階段の上り下りがきつかったり、デスクでの腰痛に悩まされていたことはなんだったんだろう、とふと不思議に思うこともありましたが、腰痛にならない状態が当たり前になると、脳は若い頃と同じ様な発想や思考で保たれることがデフォルトになります。なるほどね、結果としてそうなるから、アンチエイジングなのであって、アンチエイジングを目指して身体を鍛えるっていう目標を立てるのは少し違いはしまいかね、これ、と実感してるんです。
話は長くなりましたが、8月に勉強会合宿を是非やりたいと思っています。細かいことが決まりましたら、アナウンスしますので、お出かけくださいね。
ではまた^^
朝から集まって、一日授業研究に打ち込み、飯を一緒に食った後は、夜は英語の文学の朗読会、それが終わったら、酒を飲みながら唐詩の朗読会。
朝起きたら、英語の音読。飯食って、英語のディスカッション、ライティングセッション、で、昼飯食って、温泉チャポーンと浸かって、じゃーねー、な会。
そういうのをやりたいな、と思っています。
英語と日本語の勉強を、楽しみながらやれる会を開催したい。日本語の朗読や、英米文学の朗読をやっても良いと思うのです。
たとえば、HemingwayのMovable Feastの一節を、皆さんで酒を飲みながら、音に出して読んで行く。誰も発音を正したり、解釈したり一切しない。ひたすら1時間くらい読んで行くと、その集団の呼吸がピタッと合って来て、朗読がリズムを持ち出す。ジャズのインプロヴィゼーションみたいな感覚です。そういうのを自然に作れる時間を持ちたい。
もう一つ。唐詩を酒を飲みながら朗読する会もやってみたかったことの一つです。李白の詩を酒を飲みながらどんどん朗読する。これも、解釈とかは一切しません。
言葉を音に出して読む、という行為を通じて、身体が言葉に呼応する感覚を味わいたいのです。
僕は授業で生徒に音読をさせたり、シャドーイングをさせたり、暗誦をさせたりするんですけれど、自分個人でも英語を音に出して読むことが大好きで、こんなに楽しいから、あんたもやんなさいよ、って感覚で生徒にさせてるところがあるんです。これは本当に。
自分の勉強で音読やってる、って感覚が最早無く、純然たる趣味。英文をウェブで見つけたり、良いスピーチをYoutubeとかで聞いたりすると、居ても立っても居られなくなる。え、なに、これ?こんなのあんの?え、待って、待って、え、やべー!すげぇ!これ、マジでやべぇ!ってなって、Googleでかちゃかちゃ検索して、スクリプト(スピーチの原稿)を探して、それを自分の趣味で音読するんです。
言葉は黙読よりも声に出して音読すると体全体が言葉に呼応します。声の振動に肌が感応して、発せられる言葉を全身で浴びる。その時に身体の感度が黙読をしている時のそれとは全く違う信号を出していることに気づくのです。
欧州の教会の背丈が高く設計されているのは、教会全体に聖歌隊の声や神父さんの声が倍音になって共鳴し、人々の頭ではなく、身体に訴えかけるように、という目的があったからだと僕は理解しています。そこまでソロバン勘定して教会を建ててる。絶対そうです。
識字率が低く、字が読める人がほとんどいない中で、キリスト教を布教しようと思ったら、言葉だけに訴えても無力です。だから、賛美歌の音を聖歌隊が四声で発し、梁高く掲げられた天井を大きく畝って人々の魂に届かせようとした。そういうことが無意識に分かっていたんじゃないか、と思います。
教会というのは神社仏閣と同じで、西洋人にとっての霊域です。霊域はひんやりとして、薄暗く、そこに入ってふざけたり出来ない、罰が当たる、という超然的な雰囲気を持ってないと宗教的な説得力は増しません。神様から心を鷲掴みにされる、って、言葉による説得ではなくて、それこそ、教会や神社やお寺に入った瞬間に決まる。僕はそう理解しています。
倍音の効果について、初めて知ったのは内田樹さんの宗教と身体の本を読んでからですが、僕は幸い大学生の頃、聖歌隊の部活に入っていましたので、これは実感を伴って納得せざるを得ませんでした。又、幼い頃から教会に通っていましたが、教会には必ず聖歌隊があります。目的は神を賛美することですが、上記の点から鑑みますと、宗教的な意味合いを多分に帯びて行なわれた神事なのだ、ということが、この歳になって漸く理解できたようなことです。
長生きって、するもんですね。
さて、8月に勉強会合宿をする話。言葉を身体で音楽のように感じる時間を、同志と持ちたい、と僕は考えている。解釈や注釈の話になると、頭でっかちになる嫌いがあるのでいけない。それは日常的にもやっていることなので。
身体で言葉を感じる、という体験を通して、今一度翻って音読の効果や、素読暗誦の意義について、実感感覚を持っていたい、と僕は考えているんです。私たちはつい、頭で分かってしまうことに感けて、身体が感じることを軽んじて生きてしまうことがあります。身体の感度って、本当にすごいんです。
病気になるとか、ならないとか、そういう話ではなくて、身体で感じることと、考えていること、思っていることが一致してくると、恐ろしいほど、感性や洞察力の感度が高まります。これは僕が筋トレやスポーツをし出して、毎日切々と感じることです。
身体を鍛えたり、スポーツをするのは、アンチエイジングやダイエットの文脈でしか語られない。僕はそれがとても不満です。
確かにそれも一理も二理もありましょう。僕も同意します。でも、そんな理由は付加価値として副次的にくっついてくるおまけでしかない。グリコのおまけばっかりに感けて、肝心のキャラメルを蔑ろにした子ども時代と同じです。お前らさ、おまけばっか見てるけどさ、本当はグリコはキャラメルを食べないと買った意味が無いんだぜ、って友達に口角泡を飛ばして檄文を投げるつもりで書いていますが。
身体感覚、身体の感度が上がると、それまで頭だけで考えていたことと全く発想の仕方が変わるんです。だって、身体は脳の信号によって動いてるから。脳と常にリンクしてるんですから、そうなるに決まってる。必ずそうなる。
頭で考えることは脳でこねくり回すんです。ですけど、年を重ねると、脳の信号に対して身体の反応が鈍くなる。筋肉や神経の衰えなのでしょうけれど。でも、筋肉がある一定の強度を保つ限り、神経の反応回数が減少しない限り、脳の反応と身体の感度、頭で考えたことは一定の速度でリンクし続ける。若さを保つ為に身体を鍛える、と考えるのでは、ことの筋目が逆です。身体を鍛えた結果、脳の反応に対応し得る肉体を保っているがゆえに、身体と脳の感度が一致し、それによって行動も変わる。それだけの話です。
たとえば僕はデッドリフトという腰と股の裏を鍛えるトレーニングメニューを必ず入れていますが、このメニューをやり始めてから、デスクで採点やプリント作りをする際の長時間の座り仕事の腰痛に悩まされることが無くなりました。身体を鍛えてない時に、階段の上り下りがきつかったり、デスクでの腰痛に悩まされていたことはなんだったんだろう、とふと不思議に思うこともありましたが、腰痛にならない状態が当たり前になると、脳は若い頃と同じ様な発想や思考で保たれることがデフォルトになります。なるほどね、結果としてそうなるから、アンチエイジングなのであって、アンチエイジングを目指して身体を鍛えるっていう目標を立てるのは少し違いはしまいかね、これ、と実感してるんです。
話は長くなりましたが、8月に勉強会合宿を是非やりたいと思っています。細かいことが決まりましたら、アナウンスしますので、お出かけくださいね。
ではまた^^
2015年3月17日火曜日
英語授業勉強会「暁の会」始動します。
3月末に勉強会をすることをアナウンスしましたが、勉強会の準備を着々と進めております。4月に第二回目を開催する予定にしました。学びの多い会にしたいと思っています。
会の名称を「暁の会」にしました。これは三島由紀夫さんの「暁の寺」、そして孟浩然の「春眠暁を覚えず」から取っています。
自分の中に眠っていた何かが、理由無く奔り出した感があります。暁の時が来た、と犇犇と感じています。
志を同じくする同志と、学びを深め、日本の英語教育に資する活動を行いたい、と思い、会の開催を思い立ちました。
多くの賛同を得られることを目的としていません。真剣に、本気で打ち込める会にしたい。真摯に学ぼうとする仲間が欲しい。そういう想いを込めて、暁の会、始動します。
既に準備は進めています。3/30の勉強会で、今後の方向性や、授業研究の骨子、シラバスなどのコンテンツなどについて、語り合い、4/29の会につなげたいと思っています。
どうぞよろしくお願い致します。
暁の会代表 田中 十督
【英語の先生方へ重要なお知らせ】第2回暁の会開催のお知らせ
来る4/29(水)祝日に、英語授業の勉強会を開催します。
内容は以下の通りです。
■日時:4/29(水)祝日、午後13時〜18時半
■場所:福岡市の某所(参加者のみに通知)
■内容:授業研究
■形態:参加者全員、all in Englishの授業形態を取る。指導案を予め作成し、印刷したものを参加者全員に配る。40分の授業を一人ずつ行ない、良かった点、工夫するともっと良くなる点などをシェアし合う、の繰り返し。
■教材:参加者にのみ添付ファイルにて送信
■準備:きちんとした授業指導案を作り、配布するプリント類も作成して、各自で印刷して持参する。
■懇親会:夜に懇親会の予定あり。
■参加資格:以下の場合は、参加をお断りさせて頂きます。
■備考:
・参加費などは一切不要です。
・全員が学び合う会です。継続的に続けて、互いに力を高め合うことを標榜しています。
・所属は、中高、公私立を問いません。年齢、性別一切問いません。
・会の呼称を、新たな出発点と位置づけ、「暁の会(あかつきのかい)」とします。
・僕(田中十督)は管理者というだけで、僕が講釈をしたり、何かを教える、という類いの会ではありません。予めご了承ください。
■参加表明:以下のメールにご記入の上、お申し込みください。
dassenglish73@gmail.com
申し込みは
1 氏名
2 所属校名
3 携帯番号
4 メールアドレス
5 会で学びたいこと・シェアしたいこと
の5点を必ず明記の上、お申し込みください。
会の名称を「暁の会」にしました。これは三島由紀夫さんの「暁の寺」、そして孟浩然の「春眠暁を覚えず」から取っています。
自分の中に眠っていた何かが、理由無く奔り出した感があります。暁の時が来た、と犇犇と感じています。
志を同じくする同志と、学びを深め、日本の英語教育に資する活動を行いたい、と思い、会の開催を思い立ちました。
多くの賛同を得られることを目的としていません。真剣に、本気で打ち込める会にしたい。真摯に学ぼうとする仲間が欲しい。そういう想いを込めて、暁の会、始動します。
既に準備は進めています。3/30の勉強会で、今後の方向性や、授業研究の骨子、シラバスなどのコンテンツなどについて、語り合い、4/29の会につなげたいと思っています。
どうぞよろしくお願い致します。
暁の会代表 田中 十督
【英語の先生方へ重要なお知らせ】第2回暁の会開催のお知らせ
来る4/29(水)祝日に、英語授業の勉強会を開催します。
内容は以下の通りです。
■日時:4/29(水)祝日、午後13時〜18時半
■場所:福岡市の某所(参加者のみに通知)
■内容:授業研究
■形態:参加者全員、all in Englishの授業形態を取る。指導案を予め作成し、印刷したものを参加者全員に配る。40分の授業を一人ずつ行ない、良かった点、工夫するともっと良くなる点などをシェアし合う、の繰り返し。
■教材:参加者にのみ添付ファイルにて送信
■準備:きちんとした授業指導案を作り、配布するプリント類も作成して、各自で印刷して持参する。
■懇親会:夜に懇親会の予定あり。
■参加資格:以下の場合は、参加をお断りさせて頂きます。
- セミナーなどで講師などをしておられる方
- 会で授業が実際に行なえない方
- All in English で授業を行えない方
- 継続的に会への参加が難しい方
■備考:
・参加費などは一切不要です。
・全員が学び合う会です。継続的に続けて、互いに力を高め合うことを標榜しています。
・所属は、中高、公私立を問いません。年齢、性別一切問いません。
・会の呼称を、新たな出発点と位置づけ、「暁の会(あかつきのかい)」とします。
・僕(田中十督)は管理者というだけで、僕が講釈をしたり、何かを教える、という類いの会ではありません。予めご了承ください。
■参加表明:以下のメールにご記入の上、お申し込みください。
dassenglish73@gmail.com
申し込みは
1 氏名
2 所属校名
3 携帯番号
4 メールアドレス
5 会で学びたいこと・シェアしたいこと
の5点を必ず明記の上、お申し込みください。
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