2学期に入ってからあまりブログを更新していませんでしたが、今日はとても嬉しいことがあったので、どうしても書いておきたいと思い、久しぶりにブログを書くことにしました。
9月に入ってから、夏休みに全国のいろいろな先生方から教えていただいたことを自分で整理し、消化しながら自分の授業を変えていく日々が続いていました。
9月は教科書のレッスンの使い方をかなり頑張って変更し、苦戦を強いられました。とても苦しんでいて、誰にも相談することもできず、どうすれば子供達がグループワークに積極的に取り組むようになるんだろうか、と脳に汗をかく日々が続きました。
9月からはインプットの量を増やし、子供達のアウトプット力を高めていくことを決意していましたので、教科書の音読を基軸トレーニング化することにシフトし、既習のLesson6に固定して同時通訳トレーニングを行ってきました。また、学年で採用されている単語帳キクタンリーディングの文章を使いながら、同通トレーニングにより、語彙習得を高めようとつとめてきました。
Oxford Essential Dictionary英英辞典の取り組みは、語義をノートに書く前に、自分で語義を考えて書き、その後OEDの語義を確認して、驚いた部分に赤線を引いたり、コメントを書いたりしておいで、と伝えました。
インプット指導熱が高まってきて、10月の初め頃、週一回20〜30分の多読では、絶対にインプット量が足りないと判断し、毎時正課の授業で20分、週四回あるから80分、月にすると5時間半くらい英語の絵本を読書させることを決意し、今に至っています。現在その多読の活動が2ヶ月くらい経ちましたが、今日のブログの冒頭に書いた嬉しいことはここにあります。
英語が苦手なある男の子が、今日の朝の授業の多読中に、絵本のリーディングレベル5のものを読んでいました。多読の方法を教わった時に、「やさしいものをできるだけたくさん、ゆっくり、息長く読んだ方が読解力や語彙力、英語力は伸びる、というデータが豊田高専の先生のデータで実証されている。」と聞かされ、英語が苦手な生徒たちには、できるだけ細心の配慮をして取り組ませてきたつもりだったので、びっくりしてしまったんです。
多読中の教室は、大学の図書館のように静かで、誰も居眠りをしている子供はいません。読書の習慣がついたのか、集中力が切れずに読めているので、私語を絶対にしないのです。
他の生徒の妨げにならないように、僕は小声で、「ねぇ、これ、かなり難しいと思うけど、どう?読めるかな?」と尋ねました。
その子は恥ずかしそうに、「先生、僕、こないだレベル3を読んでて、それで、ちょこっとレベル5を読んでみようと思って読んだら、全然わからんかったけん、レベル4を全部読んだんすよ。そしたら、レベル5がすーっと読めるようになったんです。」と言いました。もう、この子を抱きしめたくてたまりませんでした。
英語が苦手で、英語の授業はチンプンカンプンなはずだったこの子が、自分の力で英語の絵本を手に取り、半年かけて自分で英語がわかるようになったんです。読めるようになってきたんです。レベル5の絵本は、長文読解問題の1題半くらいの文章量でしょうか。それを20分で1冊と三分の一くらい読むんです。
この子は誰からも力を借りずに、自分で絵本を手に取り、自分で選んだ本を自分のペースで読んでいき、難しいレベルに入っても無理なくスムーズに英語が読めるようになっている。これが喜ばずにおられましょうか。
子供が自分で伸びる力は本当にすごい。子供達の力はいくらでも伸びる。先生が何も教えなくても、子供たちは自分でわかりたい、できるようになりたい、という気持ちを持って取り組むことができる。素晴らしい現場を目の当たりにした心持ちがしました。
また、放課後の多読授業の時間、Roger Nichols & the Small Circle of Friendsというグループの、"Let's ride", "I'm coming to the best part of my life"という名曲を2曲歌いました。教室は思いがけず大合唱になり、子供たちが大きな声で、とてもマイナーで古いオールディーズの洋楽を、秋の夕方、野球部の練習が聞こえてくる教室で合唱している姿を見て、僕は胸が震え、興奮を覚えました。
その後、Oxford Reading Treeシリーズの本に加え、名古屋で英語教室をなさってあるI先生がご好意で貸してくださったハロウィン関連の大量の絵本を混ぜて、好きなものを読みなさい、2 Finger Ruleでね(見開き2ページに2個以上わからない単語が出てきたら、迷わずレベルを一つ落として読むこと。京都外大の安木先生にご教授いただいた多読メソッドです)、と伝えて多読活動を30分行いました。
そこには元気のいい、だけども英語がとても苦手な男の子が座っています。その子はレベル6を読んでいたのです。もしや、と思いつつも、その子にも、「難しい本読んでるね。すごいじゃない。」と小声で言うと、はにかみながら嬉しそうにしていました。「前のレベルのやつは全部読破したの?」と尋ねると、「レベル4、5まで全部読んでて、今これなんです。」と笑顔で答えてくれました。「読んでて、意味がわかる?」と尋ねると、「前のレベルを全部読んでから、あー、だいたいこれはこう言う意味か、これはこう言う流れね、と言う感じでお話が掴めてきました。」と言う返事が返ってきました。「大成長だね!すごい!すごい!素晴らしいことだね!」と返すと、とても嬉しそうにしていました。
多読を毎回の授業で20分ずつ入れ始めてから1ヶ月半が過ぎようとしています。1学期まで英語が苦手だった子、英語が嫌いだった子が、真剣に集中して絵本を読んでいます。また、活動をする時、絵本を読み聞かせしあったり、絵本の内容を英語で友達に説明したりする時、子供たちは笑顔で、元気いっぱいに取り組みます。
スピーキング活動とライティング活動の連動では、1学期には何度やっても3、4行しか書けなかった生徒たちが、今では、5分間でB5の3分の2を埋め尽くす英語が書けるようになりました。
教科書を使った同時通訳トレーニングでは、シャドーイングが一番の得意で、その後の逐語訳トレーニングも、なかなかできずに友達とキャッキャと言いながらトレーニングを楽しんでいます。
教科書の内容をグループで読んでいくグループワークでは、男子と女子が連携を取り、協力しながら英文を読み解き、英語の質問に答えて行っています。
特別なことは何もしていないのに、英語ができなかった生徒がとても喜んで多読やスピーキングに取り組み、苦手だったことを苦に思わずに取り組めるようになりました。
体感で、読解やリスニングやライティングに対して、物怖じしたり、無意味な恐怖心を抱かなくなりました。素晴らしいことだと思っています。
子供達の成長を見つめながら、子供達はみんな、できるようになりたいんだな、わかるようになりたいんだな、わかるようになると楽しく面白くなるんだな、と言うことを、口には出さなくても、心から望み、願っていることを、子供自身から教わりました。
英語が苦手だったり、劣等感を感じていたり、英語が嫌いだったりする生徒を5分でも10分でもいい、輝かせたい、笑顔にさせたい、と、今日生徒たちからまた励まされた気持ちになりました。
生徒たちが笑顔になるのが本当に嬉しいです。何にも代え難いご褒美をもらった心持ちになりました。
2016年11月16日水曜日
2016年11月1日火曜日
子供に勝る天才なし。
8月、9月、10月と怒涛の日々が過ぎ去りました。北は仙台、福島、茨城、東京、名古屋、京都、大阪、博多、と様々な場所で多くの先生方と出会い、多くの示唆とご教授をいただきました。
生徒たちの頑張りを毎日毎日、ノートでの対話を通して見つめています。
同時通訳トレーニングを始めた時、これを中高現場に卸すのは、狂気の沙汰だ、絶対に無理だ、と多くの人から言われました。何度も何度も言われました。
でも、今、自分が教えている生徒たちの活動の姿を見たり、音読トレーニングノートのコメントを読んでいたりすると、限界を決めているのは、大人の方なんだな、ということがわかりました。
でも、今、自分が教えている生徒たちの活動の姿を見たり、音読トレーニングノートのコメントを読んでいたりすると、限界を決めているのは、大人の方なんだな、ということがわかりました。
子供達はどんなことにも柔軟に対応できる力を持っている。学力と言われる偏差値のような輪切りに誤魔化されて、いつしか僕ら大人は、子供達の可能性を信じる自信を失っているのではないか、と僕は強く思いました。
子供に全部英語で授業をしたら、苦手な子や英語が嫌いな子が、ますます英語を嫌いになると、昔管理職に言われました。
でも、英語で授業をしていても、読み聞かせや、歌や、ORTや、スピーキングのリクエストは、音読トレーニングノートのコメント欄には何度も上るのに、英語で授業をしないで欲しいと書かれたことは一度もありません。
僕の英語をわかっていない子供たちもたくさんいると思います。でも、子供達が寝ないんです。子供達が伸び伸びと授業を楽しんでくれているんです。
子供に全部英語で授業をしたら、苦手な子や英語が嫌いな子が、ますます英語を嫌いになると、昔管理職に言われました。
でも、英語で授業をしていても、読み聞かせや、歌や、ORTや、スピーキングのリクエストは、音読トレーニングノートのコメント欄には何度も上るのに、英語で授業をしないで欲しいと書かれたことは一度もありません。
僕の英語をわかっていない子供たちもたくさんいると思います。でも、子供達が寝ないんです。子供達が伸び伸びと授業を楽しんでくれているんです。
課題のノートである、OEDノート(英英辞典ノート)や、音読トレーニングノート(音読を記録するノート)に、溢れんばかりの情熱的なコメントが毎週毎週、毎日、毎日、これでもか、これでもか、と並ぶんです。
子供達の頑張りを見ていると、大人である自分が、子供達の限界を決めてしまっているのではないか、と恥ずかしくなります。
今、放課後補習の時間に多読を行っていますが、それでは足りないのではないか、と思い、正課の授業中に、20分間以上(生徒が熱中しているときは30分くらい)、ORTの多読をやっています。週に四回授業があるから、生徒たちは週に80分くらい英語の本を読んでいる計算になりましょうか。
生徒たちは夢中になってORTを読んでいます。こんな姿を僕は20年前に想像もしていませんでした。受験のドリルと問題演習をすれば生徒は伸びると思っていました。でも、それは違うんだ、と今は本当に、強く心から思います。
生徒たちに協働学習をさせることを戸惑っていた時期がかなり長かった。でも今は、協働学習が、生徒の集中力、協調性、自己発信力、聴く力、英語へのアプローチ法、全てを変えていくんだと現場で目の当たりにしています。
生徒たちは夢中になってORTを読んでいます。こんな姿を僕は20年前に想像もしていませんでした。受験のドリルと問題演習をすれば生徒は伸びると思っていました。でも、それは違うんだ、と今は本当に、強く心から思います。
生徒たちに協働学習をさせることを戸惑っていた時期がかなり長かった。でも今は、協働学習が、生徒の集中力、協調性、自己発信力、聴く力、英語へのアプローチ法、全てを変えていくんだと現場で目の当たりにしています。
先生が一方的に何かを教授するよりも、子供達に時間をあげて、考えさせて、ヒントをあげて、自分たちで勉強に向かわせることで、子供達が英語の学力のみならず、生きる力を、他者を思いやる心を、人の話を集中して愛情を持って聴く力を養っていけるんだ、と子供達の姿を見て学ばされました。
子供達の姿を見ていると、子供達はなんでもやります。なんでもできます。子供達はどんなことでも乗り越えていけます。
子供達の姿を見ていると、子供達はなんでもやります。なんでもできます。子供達はどんなことでも乗り越えていけます。
不安や心配を持っているのは大人の方なんです。子供達ではない。大人が現状や、子供達の成長や、子供達の伸びを縮めている。狭めている。決め付けている。
僕はそう思っています。
毎朝、子供達からノートが上がってきます。それを僕は毎朝心待ちにしています。子供と対話ができる時間、子供が、先生、あのね、こんなことあったんだよ、と書いてくる時間を楽しみにしています。
今教えている生徒たちの先生で僕は本当に幸せです。
この子たちを立派な大人に育てたい。
この子たちが弱者を切り捨てない素敵な人になって欲しい。
だから僕は誰も見捨てないし、見捨ててはいけない。
どんな子供も大切にしないといけない。
どんな生徒も、人として、一人の人間として、尊重し、寄り添い、良きサマリア人として寄り添い続けたい。どんな子供も見捨てたくない。どんな子供とも仲良くしたい。どんな子供も尊重したい。
さらには、どんな学校の先生とも、生徒とも関わりたい。どんな先生でも、子供達の前では良い先生であって欲しい。
どんな子供達でも、どんな先生に習っていても、幸せで嬉しい時間を一瞬でもいいから、過ごして欲しい。そう、心から願っている。
この子たちを立派な大人に育てたい。
この子たちが弱者を切り捨てない素敵な人になって欲しい。
だから僕は誰も見捨てないし、見捨ててはいけない。
どんな子供も大切にしないといけない。
どんな生徒も、人として、一人の人間として、尊重し、寄り添い、良きサマリア人として寄り添い続けたい。どんな子供も見捨てたくない。どんな子供とも仲良くしたい。どんな子供も尊重したい。
さらには、どんな学校の先生とも、生徒とも関わりたい。どんな先生でも、子供達の前では良い先生であって欲しい。
どんな子供達でも、どんな先生に習っていても、幸せで嬉しい時間を一瞬でもいいから、過ごして欲しい。そう、心から願っている。
僕は20年前とはほとんど変わっていません。20年前に子供のことを心からかわいい、と思えた自分を神様に心から感謝しています。こんな仕事を与えられたことを、神様に心から感謝しています。本当に素晴らしい仕事に巡り会えました。僕は死ぬまで子供に教えて死にたい。そう心から思っています。
マジックジョンソンが残した言葉が素晴らしくて、20年前に出会ったのですが、未だに忘れられなくて、今日掲載します。胸が震えます。あの時の気持ちは今だに失われずに地続きです。
子供達、いつもありがとう。本当にありがとう。
Don't let anyone tell you what you can't do.
If you don't succeed, let it be because of you.
Don't blame it on other people.
A lot of people doubted me, too.
Some people don't want you to make it, because they're not going to make it.
They're give up, so they want you to give up, too.
As the saying goes, misery loves company.
Don't give up!
Surround yourself with people who are energetic and disciplined.
Surround yourselves with ambitious, positive people.
If there are adults you admire, don't be afraid to ask them for help and advice.
You're the only one who can make the difference.
Whatever your dream is, go for it.
2016年10月3日月曜日
なに、もっと自由になったらいいじゃない?😀
北陸に住む大学院生とメールのやり取りをしていて、彼の悩みを聞いていました。
いろんなことをやり取りしていましたが、「自分がどういうことについて悩んでいて、それをどんな方に、どんな風に聞いて欲しいのか、自分でもわからないのです。」という一節に深い興味を覚えました。
自分でもわからない、という反応は、とても正しいんだと僕は思っています。人はしばしば、物事の事の起こりと成り行きに決着をつけたがる。そうじゃないと、心が疲れてしまうからです。
白黒はっきりつけやがれ!というのは、心の揺らぎを回避するために、どちらか一方の解釈を採択することにより、安寧を得るために人がする、生きる術なのだと僕は考えています。
目の前に起こることを、problemと取るか、what happenedと取るかで、全く解釈が異なる。ただそれだけ。それだけなんです。英語で解釈すると、分かり易くなりますね。日本語で解釈してしまうと、言葉とともに感情とか、心象とかも同期してるから、めんどくさいんですね、感情的に。だから、日本語で考えることを回避しちゃう。いやになっちゃうんです、もろに心が見えてしまうから。向き合うのはしんどい、と解釈してますからね、通常は。
目の前に起こることを、困ったことだと思うと、心はそれを「悩み」と認識するから、悩む。
目の前に起こることを、迷うと、心はそれを「揺らぎ」と思って、気持ちがブレてしまう。
目の前に起こることを、迷うと、心はそれを「揺らぎ」と思って、気持ちがブレてしまう。
目の前に起こることを、経験したことがない、と取ると、それに対して適応しようとするか、それを拒絶してしまうか(見なかったことにする、っていう手も採用してしまうけど)、になってしまう。
人間は事象に対して、心の解釈によって、ああでもない、こうでもない、と悩んでしまうんですよね。
でも、実際に起こっている事実は、誰の目にとっても正しく起こっているというだけの話で。
例えば、他人の葬式を見て悲しくならないのは、それが自分に関係がないからであり、自分の身内の葬式を他人が見て、他人はそういうつもりはないのに笑顔だったりすると、なんだかばかにされているような心持ちがして腹が立つのは、それが自分の目の前に起こる出来事に対して、自分がきちんとcommitしてるからなんです。
日常に起こることは、事実として変わらない。でも、それをどう解釈するかによって、心は揺らぐ。その揺らぎに耐えうる設計が脳と心に施してあるところに、神の業の心憎さがあります。どうしろって言うんだよぉ、本当によぉ、と身悶えが日常に日々瞬間瞬間で準備されているんです。
一喜一憂は止めること、他人に気に入られることを止めること、自分が本当にやりたいこと、なりたい自分、自分の心のヴォイスに従うこと、評判や批評や、他人の冷たい目や、中傷や冷笑、陰口を無視すること、大事なことですね。人からどう思われているか、なんて気にしていたらいけません。人は人、何を言われようが、どのように見られようが、命まで取られるわけではありません。意外と何とか飄々と生きていけるもんです。ですから、人の目を気にして、傷ついたり、悲しくなったりする自分は、自分自身に酔っているのだと思いましょう。自分に酔うのはよくありません。自分大好きなら良いと思います。酔うと吐きますし、二日酔いします。長引くわけです。やめましょう。誰も幸せになりません。
他人に気に入られることをやめるのは、コミュニケーションのコントロールの権限を手放すことです。人は変えられない。自分が何を思っても、人の気持ちや心を変えることはできないのです。それは受信者が決めることだからです。(受信者の感度の精度については、ここでは言及しません。これ一本でブログがあふれてしまいますので。受信者がツッコミを入れる社会態勢なのが今の日本社会なのだと思います。ただし、誰も受信者の感度やセンシティビティについては何も言及しません。受け手がバカな場合はどうなるのか、という問いを立てません。お客さんを怒らせるようなバカな真似、誰もできないからです、いや、本当に。)
自分の内なるヴォイスに素直になりましょう。自分のやりたいこと、なりたい自分は、今の自分には理解できていない、ということが人生には往々にしてあります。人の目を気にしてると、自分が不幸になるばかりで、何もいいことは自分の人生に起きません。悲しい気持ちや閉塞感ばかりに苛まれて、いいことは一つもありません。そういう不毛な生き方を捨てましょう。
自分がやりたいこと、やりたかったこと、これからやろうと思うことを、心の情念の赴くまま、今すぐやりましょう。自分が幸せになると、周囲にいる人にも同じ思いを伝えたくなる、笑顔をお裾分けしたくなる、そうやって幸せや笑顔の連鎖は生まれます。
バカげた自己陶酔はやめましょう。
寂しがりやの人はペットかぬいぐるみを買いましょう。
悩みの多い人は、ジムで体を動かしてみましょう。
マンネリに陥っている人は、いつもやらないことをやりましょう。違うルートの帰り道で帰るとか、家では薄着で過ごすとか、辛いものを食べるとか、本棚の本を全部捨てるとか、なんでもいいんです。自分が「え?マジで?それやっていいの?」と思うことを大胆に断行しましょう。
日常に起こることは、事実として変わらない。でも、それをどう解釈するかによって、心は揺らぐ。その揺らぎに耐えうる設計が脳と心に施してあるところに、神の業の心憎さがあります。どうしろって言うんだよぉ、本当によぉ、と身悶えが日常に日々瞬間瞬間で準備されているんです。
一喜一憂は止めること、他人に気に入られることを止めること、自分が本当にやりたいこと、なりたい自分、自分の心のヴォイスに従うこと、評判や批評や、他人の冷たい目や、中傷や冷笑、陰口を無視すること、大事なことですね。人からどう思われているか、なんて気にしていたらいけません。人は人、何を言われようが、どのように見られようが、命まで取られるわけではありません。意外と何とか飄々と生きていけるもんです。ですから、人の目を気にして、傷ついたり、悲しくなったりする自分は、自分自身に酔っているのだと思いましょう。自分に酔うのはよくありません。自分大好きなら良いと思います。酔うと吐きますし、二日酔いします。長引くわけです。やめましょう。誰も幸せになりません。
他人に気に入られることをやめるのは、コミュニケーションのコントロールの権限を手放すことです。人は変えられない。自分が何を思っても、人の気持ちや心を変えることはできないのです。それは受信者が決めることだからです。(受信者の感度の精度については、ここでは言及しません。これ一本でブログがあふれてしまいますので。受信者がツッコミを入れる社会態勢なのが今の日本社会なのだと思います。ただし、誰も受信者の感度やセンシティビティについては何も言及しません。受け手がバカな場合はどうなるのか、という問いを立てません。お客さんを怒らせるようなバカな真似、誰もできないからです、いや、本当に。)
自分の内なるヴォイスに素直になりましょう。自分のやりたいこと、なりたい自分は、今の自分には理解できていない、ということが人生には往々にしてあります。人の目を気にしてると、自分が不幸になるばかりで、何もいいことは自分の人生に起きません。悲しい気持ちや閉塞感ばかりに苛まれて、いいことは一つもありません。そういう不毛な生き方を捨てましょう。
自分がやりたいこと、やりたかったこと、これからやろうと思うことを、心の情念の赴くまま、今すぐやりましょう。自分が幸せになると、周囲にいる人にも同じ思いを伝えたくなる、笑顔をお裾分けしたくなる、そうやって幸せや笑顔の連鎖は生まれます。
バカげた自己陶酔はやめましょう。
寂しがりやの人はペットかぬいぐるみを買いましょう。
悩みの多い人は、ジムで体を動かしてみましょう。
マンネリに陥っている人は、いつもやらないことをやりましょう。違うルートの帰り道で帰るとか、家では薄着で過ごすとか、辛いものを食べるとか、本棚の本を全部捨てるとか、なんでもいいんです。自分が「え?マジで?それやっていいの?」と思うことを大胆に断行しましょう。
歳をとってジムに行く人を「若作り」とバカにする人を無視しましょう。体を動かしましょう。下らない本を読むくらいなら、筋トレを1時間した方が、よほど人生は豊かになります。頭でっかちになっていると人生によいことは起きないばかりか、お腹ばかり出て、筋肉は衰えるので、普段の生活に支障を来します。筋トレしましょう。体を動かすと、連動して、脳の働きも活発になります。
体の働きと頭の働きを整理すると、脳も心もスッキリ。
見えてくる世界もシーンも違えます。
くよくよしている人に元気になっていただきたいと心から願っています。
43歳になりました。僕ももっともっと過激にパンクな生き方を選択し続けます😀
久しぶりに脱線グリッシュを更新して、なんだか、嬉しい気持ちです笑。
10月〜12月まで、勉強会が目白押しなので、ぜひ遊びに来られてください。こちらから、チェックできます😀
https://www.facebook.com/Akatsuki.English4/
2016年9月19日月曜日
新しい勉強のカタチを考える
仙台にて暁の会ロング勉強会を無事終了。勉強会6時間+懇親会3時間の計9時間、参加者の皆さんと一緒に、すべて英語で時間を過ごしました。合計9時間のうち、皆さんと日本語でやりとりしたのは正味飲み会の90分くらい。簡単なガイダンスが30分くらいあって、その後少し日本語でやりとりする時間があった程度。
素晴らしい体験を皆と共に過ごすことができました。
参加者の皆さん、また是非お会いしましょうね😀
次回は、皆さんお一人お一人にリーダーをお任せすることになると思います。
*************************************
英語教育の改革がなかなか進まないと議論が囂しいのですが、僕ら暁の会は1年半活動をしてきて、次のビジョンがうっすらと見えたような実感が得られました。
英語教育改革に関する議論は何も今に始まったことではなく、僕が新任の頃からずっとなされていますし、メディアにも常に取り上げられてきた経緯があります。
その度に、現場が変わらない→入試が変わらないから→大学が悪い→行政は現場がわかってない→現場が受験指導にしがみついている、と、形を無尽蔵に変えつつ、このループから話が抜け出さないまま、新しい指導法や流れが提示され、やる人2割、絶対やらない人2割、寄らば大樹の陰派が4割、無関心が2割、といった風景で大体推移してきているように僕には思えるんです。
暁の会で勉強会を企画し、1年半、様々な勉強会を繰り返してきました。勉強会の変遷は以下のような様相だったと思います。
1自分たちだけで実践発表
2数名の先生方にお願いして実践発表
3英語でワークショップ型
4参加型ワークショップ
5英語で参加者全員が楽しむ型
3、4は同じように見えますが、違います。3はファシリテーターのキャラクターが強く、その人1人がワークショップ全体を引っ張っていく感じになってしまうので、1、2の形態の勉強会を英語でやっているにすぎないのです。
4は今年の夏のジョイント勉強会の形態です。参加者が体験をし、それを実体験として持ち帰っていただく形態。
そして、そこからさらに発展した形が5になります。これが8月に京都と博多でシンクロでやった勉強会、そして先日の仙台の勉強会までの流れで5に変化し、西山くんと新たな境地に至っています。
自分たちが実践発表をして、その後の参加者の皆さんの変化をFBや次回の勉強会で見てきました。それぞれの方がご自身のご実践へ昇華し、それぞれの場所で新たな授業形態や新しい指導の形が問われたのはとても興奮を覚えました。
一方で、それぞれの先生方の独自性や自由さ、その場にある子供達の空気は、実践発表を繰り返しても、無視されてしまうのではないか、ある実践を聞いてそれをそのまま真似するようなことを促すことを繰り返しても、現場に変化はもたらされないのではないか、という淡い気持ちを抱いたのです。
授業は、その先生が自分が目の前にする子供達に向けて愛情を込めてデザインするものであり、また、子供達と共に作り、子供達が授業を作り上げていくのだと思っています。それこそが本質なのではないか、と僕は思います。
実践発表や教授法を学ぶ勉強会では、それぞれの先生方が受け持つ現場へコミットすることはできません。あくまでもそれは伝達の場であり、そこに参加した人がそれぞれ工夫をする日常がもたらさなければ、先生方の授業は永遠に変化しないからです。
そういう観点に立ってみて、初めて、先生方の授業へ、現場へコミットするには、一人のすごい先生なり、いろんな取り組みをしてる先生が何かを教授するだけでは不十分ではないか、と思いました。
先生方お一人お一人が英語を使って、英語でコミュニケーションをする場をクリエイトし、その体験を実際にしてみなければ、ご自身の授業や生徒達へ英語でアプローチをしようとは思わないのではないか、あるいは、アクティブラーニングの勉強会が一斉授業の形態で行われる、なんていうことはそれこそジョークでしかないわけで、まさに参加される方お一人お一人が、勉強会やワークショップの中で実際に体験をし、実感をし、心を揺さぶられるLife Time Experienceを通じて、何かやれないか、何かやってみたい、自分もこうしたい、という気持ちを新たにされるのではないか、そんな風に考えを深めたのです。
授業をどうするか、という勉強会の形態は、授業はどうなるか、といった英語教育議論の延長線上にしかなく、そこには変化の一石となりうる要素は皆無である、ということに僕らは気付いたのです。
授業をどうするかを決めるのは先生方ご自身である、という客観的な事実を度外視して勉強会を設計することを繰り返しても、先生方に変化は起き得ない。なぜなら、万が一同じような授業を構築できない場合、「あれは、あの先生が力があるからできるんだ」とか、「現実は理想に程遠く」と言った言い訳を自分に許してしまうからです。
先生方が、自分も授業でやってみたい!自分も生徒に何かしてみたい!という気持ちにならなければ、授業でやってみよう、新しいことを試してみよう、という思いには至り得ず、土日にせっかく良いことを習ってきたのに、月曜日にはまるで何事もなかったかのように、また日常が戻ってきてしまう、と言った絵が繰り返されるだけなのではないか、と僕らは考えたのです。
そのような観点に立って、今後、暁の会の勉強会は、すべて英語で行う、その際、参加者の方にファシリテーターになっていただき、参加されるみんなが、自分がやりたいこと、自分がシェアしたいことを英語で体験しあえる場をご提供する、そんな活動へとシフトしていこうと、今気持ちを新たにしているところです。
情報伝達型の勉強会では、変化は起こせない。本を読んだり、ネットで調べればわかることを「知る」機会は得られます。でも、それを「する」コミットメントは、残念ながら情報伝達型の勉強会では得られません。
鍵は個人個人の皆さんが持っておられる、その尊い事実を忘れて勉強会をデザインしても、歴史が繰り返されるだけで、新たな変化は起き得ない、僕と西山くんはそのことを暁の会を通して学びました。
これから行う勉強会は、先ほど示した1から5の形態からさらに進化していくと思います。5の形態はもはや勉強会と呼ぶのも相応しくないと考えています。
学び=座学、自己消化、と捉える考え方を、体験=自己昇華=自己変革=地殻変動、の流れへと変えていく必要がある、それが急務だと僕らは強く気持ちを新たにさせられています。
参加する人が英語を話し、英語を使い、様々な活動を行う、英語を使うことを通して心の変化を個人で起こす、参加者同士で刺激と潤いを得る、そして、日常と向き合う日々に帰る、という流れを暁の会で創れないか、もっと言えば、参加者の皆さんとともに新しい形の場を創れないか、今そんな視座を頂き、静かに冬を見つめているところです。
素晴らしい体験を皆と共に過ごすことができました。
参加者の皆さん、また是非お会いしましょうね😀
次回は、皆さんお一人お一人にリーダーをお任せすることになると思います。
*************************************
英語教育の改革がなかなか進まないと議論が囂しいのですが、僕ら暁の会は1年半活動をしてきて、次のビジョンがうっすらと見えたような実感が得られました。
英語教育改革に関する議論は何も今に始まったことではなく、僕が新任の頃からずっとなされていますし、メディアにも常に取り上げられてきた経緯があります。
その度に、現場が変わらない→入試が変わらないから→大学が悪い→行政は現場がわかってない→現場が受験指導にしがみついている、と、形を無尽蔵に変えつつ、このループから話が抜け出さないまま、新しい指導法や流れが提示され、やる人2割、絶対やらない人2割、寄らば大樹の陰派が4割、無関心が2割、といった風景で大体推移してきているように僕には思えるんです。
暁の会で勉強会を企画し、1年半、様々な勉強会を繰り返してきました。勉強会の変遷は以下のような様相だったと思います。
1自分たちだけで実践発表
2数名の先生方にお願いして実践発表
3英語でワークショップ型
4参加型ワークショップ
5英語で参加者全員が楽しむ型
3、4は同じように見えますが、違います。3はファシリテーターのキャラクターが強く、その人1人がワークショップ全体を引っ張っていく感じになってしまうので、1、2の形態の勉強会を英語でやっているにすぎないのです。
4は今年の夏のジョイント勉強会の形態です。参加者が体験をし、それを実体験として持ち帰っていただく形態。
そして、そこからさらに発展した形が5になります。これが8月に京都と博多でシンクロでやった勉強会、そして先日の仙台の勉強会までの流れで5に変化し、西山くんと新たな境地に至っています。
自分たちが実践発表をして、その後の参加者の皆さんの変化をFBや次回の勉強会で見てきました。それぞれの方がご自身のご実践へ昇華し、それぞれの場所で新たな授業形態や新しい指導の形が問われたのはとても興奮を覚えました。
一方で、それぞれの先生方の独自性や自由さ、その場にある子供達の空気は、実践発表を繰り返しても、無視されてしまうのではないか、ある実践を聞いてそれをそのまま真似するようなことを促すことを繰り返しても、現場に変化はもたらされないのではないか、という淡い気持ちを抱いたのです。
授業は、その先生が自分が目の前にする子供達に向けて愛情を込めてデザインするものであり、また、子供達と共に作り、子供達が授業を作り上げていくのだと思っています。それこそが本質なのではないか、と僕は思います。
実践発表や教授法を学ぶ勉強会では、それぞれの先生方が受け持つ現場へコミットすることはできません。あくまでもそれは伝達の場であり、そこに参加した人がそれぞれ工夫をする日常がもたらさなければ、先生方の授業は永遠に変化しないからです。
そういう観点に立ってみて、初めて、先生方の授業へ、現場へコミットするには、一人のすごい先生なり、いろんな取り組みをしてる先生が何かを教授するだけでは不十分ではないか、と思いました。
先生方お一人お一人が英語を使って、英語でコミュニケーションをする場をクリエイトし、その体験を実際にしてみなければ、ご自身の授業や生徒達へ英語でアプローチをしようとは思わないのではないか、あるいは、アクティブラーニングの勉強会が一斉授業の形態で行われる、なんていうことはそれこそジョークでしかないわけで、まさに参加される方お一人お一人が、勉強会やワークショップの中で実際に体験をし、実感をし、心を揺さぶられるLife Time Experienceを通じて、何かやれないか、何かやってみたい、自分もこうしたい、という気持ちを新たにされるのではないか、そんな風に考えを深めたのです。
授業をどうするか、という勉強会の形態は、授業はどうなるか、といった英語教育議論の延長線上にしかなく、そこには変化の一石となりうる要素は皆無である、ということに僕らは気付いたのです。
授業をどうするかを決めるのは先生方ご自身である、という客観的な事実を度外視して勉強会を設計することを繰り返しても、先生方に変化は起き得ない。なぜなら、万が一同じような授業を構築できない場合、「あれは、あの先生が力があるからできるんだ」とか、「現実は理想に程遠く」と言った言い訳を自分に許してしまうからです。
先生方が、自分も授業でやってみたい!自分も生徒に何かしてみたい!という気持ちにならなければ、授業でやってみよう、新しいことを試してみよう、という思いには至り得ず、土日にせっかく良いことを習ってきたのに、月曜日にはまるで何事もなかったかのように、また日常が戻ってきてしまう、と言った絵が繰り返されるだけなのではないか、と僕らは考えたのです。
そのような観点に立って、今後、暁の会の勉強会は、すべて英語で行う、その際、参加者の方にファシリテーターになっていただき、参加されるみんなが、自分がやりたいこと、自分がシェアしたいことを英語で体験しあえる場をご提供する、そんな活動へとシフトしていこうと、今気持ちを新たにしているところです。
情報伝達型の勉強会では、変化は起こせない。本を読んだり、ネットで調べればわかることを「知る」機会は得られます。でも、それを「する」コミットメントは、残念ながら情報伝達型の勉強会では得られません。
鍵は個人個人の皆さんが持っておられる、その尊い事実を忘れて勉強会をデザインしても、歴史が繰り返されるだけで、新たな変化は起き得ない、僕と西山くんはそのことを暁の会を通して学びました。
これから行う勉強会は、先ほど示した1から5の形態からさらに進化していくと思います。5の形態はもはや勉強会と呼ぶのも相応しくないと考えています。
学び=座学、自己消化、と捉える考え方を、体験=自己昇華=自己変革=地殻変動、の流れへと変えていく必要がある、それが急務だと僕らは強く気持ちを新たにさせられています。
参加する人が英語を話し、英語を使い、様々な活動を行う、英語を使うことを通して心の変化を個人で起こす、参加者同士で刺激と潤いを得る、そして、日常と向き合う日々に帰る、という流れを暁の会で創れないか、もっと言えば、参加者の皆さんとともに新しい形の場を創れないか、今そんな視座を頂き、静かに冬を見つめているところです。
2016年9月11日日曜日
DJ的センスの涵養:次世代への愛のバトンタッチ
今の時代、DJ的なセンスがないと、良い仕事を創れないんじゃないか、と西山くんと話していました。DJ的センスとは何か。
DJというのは、Disc Jockeyのことですね。古くはラジオでかっこいい曲やらオシャレな曲をかけてオーディエンスを喜ばせる人のことをDJと言いました。ラジオ局のDJですね。
クラブやハウスでは、DJはお客さんに踊ってもらえるような盛り上げ役でした。お客さんのリクエストに応えるのではなく、自ら選んだ曲や、他人の曲のリミックス、新しく音をかぶせたり、ちぎったり、フレーズを他の曲と混ぜ合わせて、場を盛り上げていた、そんなお仕事をなさっていたわけです。
今の世の中、借り物文化なんて上のジェネレーションから揶揄されたりすることもあります。一生懸命に脳に汗をかいて頑張っているクリエイターに対してこれほど失礼な侮蔑の言葉はないわけですけれども、copycat generationなんてことを言い出したら、そんなもの、文化の本質を分かっていないのではないか、と僕は思ったりします。借り物文化、と若い世代を揶揄したのは、spirited awayをリリースしたばかりに、御大宮崎駿さんが海外メディアに対して言い放った言葉で、それは少し違うのではないか、と思って強い違和感を憶えたのを今でも記憶しています。
確か、CNNニュースの記事だったと思いますが。
これは古い世代の人には理解されえない感覚なのだと思います。人のパクリで作品を作って、そんなもの、何がオリジナリティだ、というのでしょうが、それは少し了見が狭いのではないか、と僕は思っています。模倣とは、そんな断罪がなされて、切り捨てられるほど浅い層を持って文化を注いできた継承形態ではない、と僕は理解しているからです。
借り物文化、というのは世界中の文化に言えることです。例えば乱暴に聞こえるかもしれませんが、音楽が借り物でなければ、今世の中に溢れる素晴らしい楽曲文化はここまで進化発展を遂げなかったのではないか、と僕は思っています。誰がいったい、石器時代の原始人たちが食べた後の動物の骨を石や壁で叩いて鳴らした音楽に特許権やオリジナリティを言い立てたでしょうか。そんなことはバカげています。誰が始めたかわからないけれど、spontaneousに音楽は人々の繋がりの中で生まれていき、少しずつ新しい世代がそこにエッセンスを加えて行って、広く文化として発展を遂げていったはずです。それが文化の出発点であり、継承の唯一の方法だったと僕は思っています。
何人も先達の影響は免れえませんし、その形態がどんなにオリジナルなものであると賞賛されようとも、有形無形の影響を先達から様々に受けて今の形として臨在している、それが文化なのだと僕は思います。
そういう視点に立って改めて世の仕事を見つめ直してみると、私たちの仕事は、何一つ、どれを取ってもオリジナルなものなどありえませんし、必ずどこかしら、先達からの影響を受けて受け継がれてきた新しいものなのです。
では、古いものと新しいものを分ける境界線は何なのか。
それは新しい世代がもたらす古い世代への批判精神や疑念です。猜疑心です。このままで良いのだろうか、これは同じことのルーピングではないか、ルーティーンを繰り返しているだけではないか、と。これこそが生物のDNAに埋め込まれた進化発展への衝動だと思いますし、変化し、生き延びたいと体の奥底から希求する人類の叫びなのだと僕は思っています。
風呂敷を大きく広げすぎたので整理します。
私たちが日々仕事をするときに、先達の影響、先輩の技術やスキル、思想や哲学に対し、あまりにも素直に影響を受けすぎたために、自分はパクリをしているのではないか、自分は継接ぎをしているだけではないか、と自己欺瞞の感情に苛まれることがあると思います。これは誰でもある。自分は何一つ、オリジナルなことをしていないのではないか、という内発的動機付けを与えら得ることがあると思うんです。
でも、これは「生みの苦しみ」であって、盗人が盗んできたものを目の前に良心の呵責に苛まれているのとは訳が違います。そこを分けて考えてあげる必要があると僕は思うんです。
前の世代から受け継いだ大切な文化は、今を生きる自分が次世代へ受け継いでいく責任を負っています。ですから、受け継いだ文化に対して、受身の姿勢ではいけません。必ず自分で葛藤し、いろいろと試行錯誤と工夫をそこに注入して、新しい文化の形として、次世代に提示していかなければいけない。そういう責任を負っているからこそ、前の世代の文化を受け継ぐ恩沢に浴する権利を享受できる得るのだと僕は思っています。
例えば、いろんなところへ出かけて行って勉強してきたこととか、知り得たことにしていて、それを自分の仕事や日々の生活に活かすときに、そのままやればすごくうまくいったり、はたまた不具合が起こったりしますね。そのときに、どうすべきか、日々、瞬間、瞬間、問われているのだと思います。虎の威を借る狐で終わっていると、次世代が台頭してきたときに、見捨てられます。先達としてのリスペクトの枠から外れる。必ずそうなる。新しい世代にとってそれは不幸です。なぜなら、新しい文化は自分たちがオリジナルで起こしたものだ、と勘違いしてしまい、世代交代のバトンタッチの中で歪な諍いを生じかねないからです。
人から見聞きして良いと思ったこと、特に上の世代や素晴らしい働きをしている人たちから受けた恩恵は、自分で工夫し、アレンジし、試行錯誤して、新しいものに置き換えて、世に贈り返す作業を繰り返さないといけないと僕は思っています。それが、人の「贈与のサイクル」に寄与することだと思うからです。
パクリで終わってはいけないですね。人から聞いたり感動したりしたことは、自分の考えや自分なりの試行錯誤のフィルターを、たとえ苦しくても通して、次の世代に渡す、という気持ちを持つことが、仕事をする上でとても大切だと僕は思っています。
今日は若い人たちや、自分の授業、自分の仕事に対して悩み向き合っている人たちへ向けて、エールの気持ちで書きました。
次世代の幸せを願う時、私たちに与えられた仕事の責任は放棄できないものになります。子供達のためを願うならば、私たち大人が脳に汗をかき、自分で試行錯誤しつつ、日々悩み、苦しむべきなのです。
それこそが次世代へのバトンタッチ行為そのものだからです。
DJというのは、Disc Jockeyのことですね。古くはラジオでかっこいい曲やらオシャレな曲をかけてオーディエンスを喜ばせる人のことをDJと言いました。ラジオ局のDJですね。
クラブやハウスでは、DJはお客さんに踊ってもらえるような盛り上げ役でした。お客さんのリクエストに応えるのではなく、自ら選んだ曲や、他人の曲のリミックス、新しく音をかぶせたり、ちぎったり、フレーズを他の曲と混ぜ合わせて、場を盛り上げていた、そんなお仕事をなさっていたわけです。
今の世の中、借り物文化なんて上のジェネレーションから揶揄されたりすることもあります。一生懸命に脳に汗をかいて頑張っているクリエイターに対してこれほど失礼な侮蔑の言葉はないわけですけれども、copycat generationなんてことを言い出したら、そんなもの、文化の本質を分かっていないのではないか、と僕は思ったりします。借り物文化、と若い世代を揶揄したのは、spirited awayをリリースしたばかりに、御大宮崎駿さんが海外メディアに対して言い放った言葉で、それは少し違うのではないか、と思って強い違和感を憶えたのを今でも記憶しています。
確か、CNNニュースの記事だったと思いますが。
これは古い世代の人には理解されえない感覚なのだと思います。人のパクリで作品を作って、そんなもの、何がオリジナリティだ、というのでしょうが、それは少し了見が狭いのではないか、と僕は思っています。模倣とは、そんな断罪がなされて、切り捨てられるほど浅い層を持って文化を注いできた継承形態ではない、と僕は理解しているからです。
借り物文化、というのは世界中の文化に言えることです。例えば乱暴に聞こえるかもしれませんが、音楽が借り物でなければ、今世の中に溢れる素晴らしい楽曲文化はここまで進化発展を遂げなかったのではないか、と僕は思っています。誰がいったい、石器時代の原始人たちが食べた後の動物の骨を石や壁で叩いて鳴らした音楽に特許権やオリジナリティを言い立てたでしょうか。そんなことはバカげています。誰が始めたかわからないけれど、spontaneousに音楽は人々の繋がりの中で生まれていき、少しずつ新しい世代がそこにエッセンスを加えて行って、広く文化として発展を遂げていったはずです。それが文化の出発点であり、継承の唯一の方法だったと僕は思っています。
何人も先達の影響は免れえませんし、その形態がどんなにオリジナルなものであると賞賛されようとも、有形無形の影響を先達から様々に受けて今の形として臨在している、それが文化なのだと僕は思います。
そういう視点に立って改めて世の仕事を見つめ直してみると、私たちの仕事は、何一つ、どれを取ってもオリジナルなものなどありえませんし、必ずどこかしら、先達からの影響を受けて受け継がれてきた新しいものなのです。
では、古いものと新しいものを分ける境界線は何なのか。
それは新しい世代がもたらす古い世代への批判精神や疑念です。猜疑心です。このままで良いのだろうか、これは同じことのルーピングではないか、ルーティーンを繰り返しているだけではないか、と。これこそが生物のDNAに埋め込まれた進化発展への衝動だと思いますし、変化し、生き延びたいと体の奥底から希求する人類の叫びなのだと僕は思っています。
風呂敷を大きく広げすぎたので整理します。
私たちが日々仕事をするときに、先達の影響、先輩の技術やスキル、思想や哲学に対し、あまりにも素直に影響を受けすぎたために、自分はパクリをしているのではないか、自分は継接ぎをしているだけではないか、と自己欺瞞の感情に苛まれることがあると思います。これは誰でもある。自分は何一つ、オリジナルなことをしていないのではないか、という内発的動機付けを与えら得ることがあると思うんです。
でも、これは「生みの苦しみ」であって、盗人が盗んできたものを目の前に良心の呵責に苛まれているのとは訳が違います。そこを分けて考えてあげる必要があると僕は思うんです。
前の世代から受け継いだ大切な文化は、今を生きる自分が次世代へ受け継いでいく責任を負っています。ですから、受け継いだ文化に対して、受身の姿勢ではいけません。必ず自分で葛藤し、いろいろと試行錯誤と工夫をそこに注入して、新しい文化の形として、次世代に提示していかなければいけない。そういう責任を負っているからこそ、前の世代の文化を受け継ぐ恩沢に浴する権利を享受できる得るのだと僕は思っています。
例えば、いろんなところへ出かけて行って勉強してきたこととか、知り得たことにしていて、それを自分の仕事や日々の生活に活かすときに、そのままやればすごくうまくいったり、はたまた不具合が起こったりしますね。そのときに、どうすべきか、日々、瞬間、瞬間、問われているのだと思います。虎の威を借る狐で終わっていると、次世代が台頭してきたときに、見捨てられます。先達としてのリスペクトの枠から外れる。必ずそうなる。新しい世代にとってそれは不幸です。なぜなら、新しい文化は自分たちがオリジナルで起こしたものだ、と勘違いしてしまい、世代交代のバトンタッチの中で歪な諍いを生じかねないからです。
人から見聞きして良いと思ったこと、特に上の世代や素晴らしい働きをしている人たちから受けた恩恵は、自分で工夫し、アレンジし、試行錯誤して、新しいものに置き換えて、世に贈り返す作業を繰り返さないといけないと僕は思っています。それが、人の「贈与のサイクル」に寄与することだと思うからです。
パクリで終わってはいけないですね。人から聞いたり感動したりしたことは、自分の考えや自分なりの試行錯誤のフィルターを、たとえ苦しくても通して、次の世代に渡す、という気持ちを持つことが、仕事をする上でとても大切だと僕は思っています。
今日は若い人たちや、自分の授業、自分の仕事に対して悩み向き合っている人たちへ向けて、エールの気持ちで書きました。
次世代の幸せを願う時、私たちに与えられた仕事の責任は放棄できないものになります。子供達のためを願うならば、私たち大人が脳に汗をかき、自分で試行錯誤しつつ、日々悩み、苦しむべきなのです。
それこそが次世代へのバトンタッチ行為そのものだからです。
9月の勉強会と、12月3日のガチンコ英語トレーニング勉強会のお知らせ
勉強会のお知らせを致します。二つとも博多です。
今月は17日(土)に仙台でロング勉強会(all in Englishで)、そして、こちらの勉強会が第二弾です。仙台は英語力アップの勉強会、月末の博多は、月例の授業教授法勉強会です。
⭐️月末の金曜夜に、授業教授法の勉強会を行います。部活動が終わったあたり19時から21時までの2時間。尚、懇親会はありません。
先の話になりますが、一応告知をば。12月3日(土)に英語のトレーニングに関する勉強会を行います(全て日本語で講義し、英語の教材を使ってトレーニングをしていただく形式)。
英語トレーニングに悩んでらっしゃる方々対象です。僕がトレーナーとなって、皆様に寄り添い、厳しく鍛える形式をとります。手荒な真似をする、という意味ではなく、できるまで何度もやる、という意味で厳しい、という言葉になっています。
⭐️12月3日(土)の午後に、英語トレーニングのガチンコ勉強会を行います。
→英語力をガンガンにアップしてもらう勉強会です。
今月は17日(土)に仙台でロング勉強会(all in Englishで)、そして、こちらの勉強会が第二弾です。仙台は英語力アップの勉強会、月末の博多は、月例の授業教授法勉強会です。
⭐️月末の金曜夜に、授業教授法の勉強会を行います。部活動が終わったあたり19時から21時までの2時間。尚、懇親会はありません。
来る9月30日(金)に、西南学院大学合宿研修所にて、
月例英語授業勉強会を開催したいと思います。金曜日の夕方からになりますが、どうぞ宜しくお願い致します。
月例英語授業勉強会を開催したいと思います。金曜日の夕方からになりますが、どうぞ宜しくお願い致します。
実践発表者は随時ご報告させていただきます。
日時:9月30日(金)19時〜21時
場所:西南学院大学合宿研修所、研修室
内容:英語授業に関する実践発表
スピーキング活動最前線
ORTの実践に関する発表
授業のクロージング活動の実践発表
スピーキング活動最前線
ORTの実践に関する発表
授業のクロージング活動の実践発表
この日は、公立中学校の先生方からのご要望をお聞きして、開催しようと思い立ち、企画立案したものです。公立の先生方、お忙しいとは存じますが、是非、お出かけください。
駐車場もあります。尚、21時終了ですので、懇親会などはありません。
先の話になりますが、一応告知をば。12月3日(土)に英語のトレーニングに関する勉強会を行います(全て日本語で講義し、英語の教材を使ってトレーニングをしていただく形式)。
英語トレーニングに悩んでらっしゃる方々対象です。僕がトレーナーとなって、皆様に寄り添い、厳しく鍛える形式をとります。手荒な真似をする、という意味ではなく、できるまで何度もやる、という意味で厳しい、という言葉になっています。
⭐️12月3日(土)の午後に、英語トレーニングのガチンコ勉強会を行います。
→英語力をガンガンにアップしてもらう勉強会です。
英語の日常トレーニングのみに力点を置いた勉強会を開催したいと思います。講義は全て日本語で行います。尚、CDや付属の資料の材料費は実費が掛かりますので、あらかじめご了承ください(500円程度)。受講料は無料です。
日時:12月3日(土)13時〜18時
場所:西南学院大学合宿研修所、研修室
内容:英語のトレーニングhow-to/know-how
・音と意味の仕込み
・自主トレの方法
・シャドーイングの仕方(段階別)
・インパーソネイション法
・日本語の口語表現トレーニング
・レイヤーと接続表現について
・話す・書くの自在化と高度化を可能にする構文TR
・構文の演習
・聞き取りのフォーム作りとロジック
・語彙の増やし方
・コアの概念
・音と意味の仕込み
・自主トレの方法
・シャドーイングの仕方(段階別)
・インパーソネイション法
・日本語の口語表現トレーニング
・レイヤーと接続表現について
・話す・書くの自在化と高度化を可能にする構文TR
・構文の演習
・聞き取りのフォーム作りとロジック
・語彙の増やし方
・コアの概念
皆様のご来場、お待ちいたしております。
2016年9月7日水曜日
英語の話し方について
【スカイプ講座:"you know,"を止めてみる。】
今日は参加者の方がお一人だったので、マンツーにて、My TED talkをやっていただきました。
10分で自分の人生でシェアしたい経験をスピーチメイキングしてもらい、それを話してもらう活動です。(9月17日の仙台でもやります。)
基本的には英語で話してもらっている間は、僕は聞くことに徹し、相手の方に終わった後で質問をする、相手から質問があった時はそれに自分の話を交えて英語で答える、というやり取りを70分行いました。
マンツーマンで英語で話をするのはとても楽しいですね。また、メモを取らない、と決めて聞くと、相手の話の構造や、固有名詞もきちんと覚えているもので、聞く姿勢の大切さを改めて学ばされました。
Just one thingということで。
you knowという表現を話の間に挟みすぎないほうがいい、ということを申し上げました。日本語で話をしている時に、「〜ね」と連発すると、相手にとって話を聞きにくいことが多いです。これは僕も授業でできるだけ言わないように気をつけています。「え〜」と「〜ですね」って、先生だとつい言ってしまう。英語でこれに相当するのが、you knowなんじゃないか、と思います。
ジミヘンドリクスのガールフレンドだった人が、ジミが亡くなった後のインタビューで生前のジミを語る、っていう動画があって、それを見ていた時に、8秒に1回くらいyou knowを言っていて、すごく英語が聞きづらいな、と23歳の時に思いました。
you knowって、日常会話で何気なく使う分には、癖で済むと思うんですけれど、オーディエンスがいる場合には、話がスーッと耳に入ってきた方がpersuasiveでassertiveだと思うんですね。そういう言葉が途中でノイズになってしまうので。
もし考えが止まってしまったり、英語が止まってしまったら、無理に話そうとせずに、3秒くらいポーズを置いてから、整理してまた話し始める、というスタイルでいいと思います。これはラリーキングライブや、デヴィッドレターマンショーを見ていれば、彼ら2人のintervieweeがよくやっていることなので、とても勉強になると思います。
今日は参加者の方がお一人だったので、マンツーにて、My TED talkをやっていただきました。
10分で自分の人生でシェアしたい経験をスピーチメイキングしてもらい、それを話してもらう活動です。(9月17日の仙台でもやります。)
基本的には英語で話してもらっている間は、僕は聞くことに徹し、相手の方に終わった後で質問をする、相手から質問があった時はそれに自分の話を交えて英語で答える、というやり取りを70分行いました。
マンツーマンで英語で話をするのはとても楽しいですね。また、メモを取らない、と決めて聞くと、相手の話の構造や、固有名詞もきちんと覚えているもので、聞く姿勢の大切さを改めて学ばされました。
Just one thingということで。
you knowという表現を話の間に挟みすぎないほうがいい、ということを申し上げました。日本語で話をしている時に、「〜ね」と連発すると、相手にとって話を聞きにくいことが多いです。これは僕も授業でできるだけ言わないように気をつけています。「え〜」と「〜ですね」って、先生だとつい言ってしまう。英語でこれに相当するのが、you knowなんじゃないか、と思います。
ジミヘンドリクスのガールフレンドだった人が、ジミが亡くなった後のインタビューで生前のジミを語る、っていう動画があって、それを見ていた時に、8秒に1回くらいyou knowを言っていて、すごく英語が聞きづらいな、と23歳の時に思いました。
you knowって、日常会話で何気なく使う分には、癖で済むと思うんですけれど、オーディエンスがいる場合には、話がスーッと耳に入ってきた方がpersuasiveでassertiveだと思うんですね。そういう言葉が途中でノイズになってしまうので。
もし考えが止まってしまったり、英語が止まってしまったら、無理に話そうとせずに、3秒くらいポーズを置いてから、整理してまた話し始める、というスタイルでいいと思います。これはラリーキングライブや、デヴィッドレターマンショーを見ていれば、彼ら2人のintervieweeがよくやっていることなので、とても勉強になると思います。
日本人が英語のスピーチや、スピーキングの勉強手本として紹介しているものを見ると、TEDやCNNニュースなどが取り上げられることが多いのですが、僕はまず、日常会話の中で使われている話し方、また聞き方をじっくりと見る、感じる、っていうことがとても大事なのではないか、と思っています。
生の教材で、英語圏のドラマやアニメ、トーク番組などは実はそういう話し方の勉強をするのにうってつけだったりするのです。
TEDでのスピーカーやCNNのアンカーはその道のプロ、お話をするときには十分なお膳立てや、魅力的なパーソナリティがあった上でお話をしてあるので、僕らが目にするものは高度に完成された話し方だったりします。
それもお手本として不味くはないし、むしろ素晴らしいのですが、いきなりそれを目指せと言われても、ハードルが高すぎるのです。
まずは優しいもの、より生活に身近な英語から触れて行って、少しずつ英語の話し方や聞き方を見ていくことが大事だな、と今日のスカイプ講座で学びました。
9月17日(土)に暁の会@仙台ロング勉強会を行いますが、この辺のことも踏まえて、参加者の皆さんに、すっと易しい英語で始めて、柔らかい表現もたくさん使っていただくよう、アクティビティを工夫しています。参加される皆さん、ご期待ください。
こちらからお申し込みいただけます。 https://akatsukienglish4.doorkeeper.jp/events/51241
とても良い夜でした。
TEDでのスピーカーやCNNのアンカーはその道のプロ、お話をするときには十分なお膳立てや、魅力的なパーソナリティがあった上でお話をしてあるので、僕らが目にするものは高度に完成された話し方だったりします。
それもお手本として不味くはないし、むしろ素晴らしいのですが、いきなりそれを目指せと言われても、ハードルが高すぎるのです。
まずは優しいもの、より生活に身近な英語から触れて行って、少しずつ英語の話し方や聞き方を見ていくことが大事だな、と今日のスカイプ講座で学びました。
9月17日(土)に暁の会@仙台ロング勉強会を行いますが、この辺のことも踏まえて、参加者の皆さんに、すっと易しい英語で始めて、柔らかい表現もたくさん使っていただくよう、アクティビティを工夫しています。参加される皆さん、ご期待ください。
こちらからお申し込みいただけます。 https://akatsukienglish4.doorkeeper.jp/events/51241
とても良い夜でした。
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