何かの議論をしていて虚しくなる時に、その理由を考えるんだけど、なかなかわからない時もあって、なんだか、納得がいかない、という時がある。生きていると何度も。
でも、そんな時は、若い頃にあったエピソードを思い出しながら、それと重ね合わせるようにして、今教えている子供たちとのやりとりを思い出して、少しにやけて、早くそういうモヤモヤを忘却の彼方に追い遣るようにしている。
ものの見方や物差しが個人個人で違うし、擦れを解消しようと思っても、日々の生活の基盤が違えば、当然各々のパラダイムがどうしても一致しないのは致し方がないことなので、怒ったり悲しんだり、歯噛みしたりしても、結局は何一つ変えることはできないんだ、とあとでわかるだけで、何も良いことはない。
だから、そんな時は、無垢で無辜なものを思い浮かべて、一人でにやけてヘラヘラして、どうでも良いじゃんね、そんなの、と思うようにしている。
僕らはお互いに「分かり合えるはずだ」と信じてしがみ付いているから、どうしても相手と意見が合わなかったり、自分が納得がいかない時は感情を揺さぶられてしまう。どこかで、相手と分かり合いたいという自分の願望が勝ってしまって、なんでなんだよ!どうしてなんだ!と心が揺れてしまう。
でも、血が繋がっている家族ですら、何を考えているのかわからないのに、ましてや毎日接している他人と、何かを分かり合えることなんて、難しいどころか、あるわけがない、というのが自然な理路のはずだということを、僕らはいつも忘れてしまう。
だから、心象の揺らぎは、自分勝手な感情の悲劇性に依拠することが多い、、、と僕は思う。
人との繋がりにあって、人はなぜ優しくなれたり、相手を赦したりできるのかを考えた時に、どこかで「分かり合えるはずなんて、あるはずがないんだ。」と思っている諦観が、人を温かく優しくしてるのではないか、と僕は思うことがある。
分かり合えるはずなんてないからこそ、相手を知ろうとする。自分が相手のことをどこまでいっても知り尽くすことができないからこそ、相手に対する理解や許容が足りていない気づきと自覚が、初めて深く内在化される。
そう思うと、自分が感情を揺さぶられているのは、相手に対して甘えているからではないか、と恥ずかしい気持ちになってしまう。
23歳の頃、新任教師で、正義感と情熱だけが支えで、未熟だった自分が、今覚えば若気の至と片付けてしまう出来事に感情を奪われ、心と頭が爆発しそうになるのを抑えながら職員室にいた時、2人の女子生徒が、先生、タンポポあげる、と言って、手の汗と熱でクタクタになりかけそうなタンポポをくれたことを思い出す。彼女たちの笑顔と差し出されたタンポポを見ると、自分は何のせいで我を忘れてしまっていたのか、分からなくなってしまった。
感情を揺さぶられることは避けられない。人は一人では生きられないから、気が緩んでいたり、ふとした隙間に、つい、分かり合えるはずのない他人に甘えてしまい、気分を簡単に壊してしまう。
今日子供達が、授業の中で、グループワークをしている姿に思いを馳せた。普段は仲が良いわけでもなく、かと言って素っ気なくしているつもりでもないメンバー同士が、1つの目的に向かって活発に議論をし、真剣に英文を読み、ああではない、こうでもない、と話をしている姿に、感情の揺らぎの強さと脆さを憶え、恥ずかしくなった。
人は一人では生きられない。子供の無辜で無垢な姿が、人の世の真理を体現している瞬間に自分を立ち会わせしめた。
だからこそ人は、愛について考えることに意味を見出すのだろう。