親しい友人の来客があり、遅くまで酒を酌み交わしていた。爽やかな宴だった。
今朝方も寝坊するでもなく、朝6時半に起床、昨日の片付けを済まし、家事の雑事を終え、志ん生師匠の蒟蒻問答を聴いた。
昨日は色々な話をしたが、学校教育の中で失ってはいけないものはなんだろう、という話になった。僕は「掃除じゃないですかね。」と即答した。「分かる。だけどどうしてそう思う?」と聴かれたので、こう答えた。
「ほら、掃除って、やってもやっても切りないじゃないですか。さっき掃除したのに、もう汚れてる!なんだ、意味ないじゃん、こんなの、って思うでしょ?それが掃除なんですよね。これって、生きる、ってことを、教えるのに最適な教育活動なんじゃないかな、って思うんです。
僕ら、生きてて、色んなことを達成したり、頑張っても、その頑張りみたいなのって、すぐなくなっちゃうっていうか、過去の栄光化しちゃうじゃないですか?
あー、空しい、みたいなの(笑)。あれ、掃除と同じだな、って。生徒に、生きるって一見無意味なことなんだけど、でも、それでも生きなきゃいけないんだよね、って無言で身体に教え込むのに1番いいと思うんです。身体で感じなさい、って。
黙って掃除をする。雑巾掛けをする、箒で掃く、窓のサンの埃を取る、ばらばらに並べられた本をきちんと整頓する、埃を隈無く拭き取る、塵を捨てる、洗い物をする。そういう行為を繰り返し繰り返し、毎日やらせるんです。
そして次の日また汚れる。そしてまた掃除をする。それの繰り返し。これが生きるってことなんだよ、って。」
掃除をすることの意義をそんな風に考えている。家に居たりするとまとめて家事を片付けようと思い、ついつい色々な雑事が溜まりがちになるけれど、淡々中庸に生きようと決めてから、目の前にある一つの家事をすぐその時にするようにしている。
洗い物もシンクに置いた瞬間に蛇口を拈り、スポンジに泡を立ててゴシゴシと洗う。洗い終わったら食器棚に置いて乾かす。塵が出たらすぐに捨てる。灰皿を片付ける。汚れている卓を直ぐに拭く。
毎日、部屋の状態をできるだけ同じ状態に保つようにする。淡々と。
そうすると、生活の型ができてくる。生活の型に嵌まると、その生活の型からはみ出た行為や行動をすることが気持ち悪くなり、身体が不調になる。リズムや音律が狂ってくる。
そういうシグナルを身体が瞬時に感知できるように、身体のセンサーを高めておきたい。生身の身体の感度は、思考や発想と直結している。文武両道というのはこの意味に於いて正しい。
この身体感覚を子ども達に何としても伝えなければ、と僕は思っている。生きるって掃除と同じだよ、って。片付けても片付けても散らかる。拭いても拭いても汚れる。でも、煩雑なままでは生活は立ち行かない。だから掃除をし、片付けをする。生きてるっていうのも、これと同じことなんだよね、と身体を動かしながら生徒に伝えたい。
そんな気持ちを込めて、生徒と共に掃除をし、生きることを全身に感じていたい、と静かに黙考するのです。
ではまた^^