内田樹先生のブログが更新されていて、久方ぶりに拝読させていただいた。
bloombergに寄稿している米国人大学准教授の記事が面白い。日本についての記事をいくつか書いており、勉強になる。
しばらくこの読み物を基軸にし、米国メディアの記事を閲読していきたい。
http://www.bloombergview.com/contributors/noah-smith
内田センセが書いて居られた記事はこちら。
http://www.bloombergview.com/articles/2015-02-20/japan-s-constitutional-change-is-move-toward-autocracy
中身の日本語が知りたい方は内田センセのブログにあるのでこちら。
http://blog.tatsuru.com/2015/02/25_1234.php
今日は送別会等があるので、長い記事は書けない。今読んでいる物と新たに読みたくなる物がこれでもかと溢流し、翻弄されている笑。整理せねば、ね^^;
では、また。みなさん、良い週末を。
2015年3月6日金曜日
「ありませんことはありませんのであります」という日本語について、読む
谷崎潤一郎の「陰影礼賛」中に収録されていた「現代口語文の欠点について」という章を読む。谷崎さんの分析が的確過ぎて、唸るばかり。古典や現代小説(といっても明治〜昭和期だけど)の一節を引き、時には漢文の一節を例解しながら、現代口語の虚をつく文章。筆致は読み易く、現代の私たちにも十分に理解しうる内容。とても良い。
話は縦横無尽に行交うが、谷崎さんご自身が率直に思っておられたことを、どんどん気の衒いもなく、ある時はコミカルに、またある時は真面目に書いている。
谷崎さんは東京の人なので、文章の底流には江戸っ児のべらんめぇ魂が炸裂しまくっていて、読む物を軽快な気持ちにさせて小気味良い。
立川談志師匠が真面目に日本語表現についての話をなさってあるような趣、と言えば分かり易いでしょうか。
日本語について、平安時代から江戸、明治にかけての文体の変遷、貴族の持つエクリチュールによる尊敬語と謙譲語の使い分け、動詞そのものによって主語を落とし、文末によってその文章が話される人称を使い分ける日本語の妙について、また西洋語(主に英語)との違いについて、実に明確かつ単純に分かり易く解説が施されている。
「のである」という語尾がいつ頃から使われるようになったかに端を発し、この語尾が地方から上京した人々が、遡上を出さぬよう丁寧表現を用いるようになってから使われるようになった、ということが書かれている。これは江戸の言葉ではない、と。江戸っ児である谷崎さんはこの語尾に違和感を憶えていたらしく、少年期に麻布中学校長の江原素六の講演を聴き、幕末の臣でありながら、話される言葉がべらんめぇ調に基調されていたことに安堵を憶えたらしい。うーむ、この辺からどんどん面白くなってくる。
日本語はもっと自由な表現で、もっと便利な言葉だったはずなのだから、漢文調や、コロキアル一辺倒、語尾の統一感などに捕われず、もっと伸びやか且つしなやかに表現されるべきなのではないか、と谷崎さんは舌鋒鋭い。
平安末期の和漢混交体とともに、明治維新以来の文人の口語体による創作を谷崎さんは賞賛している。その上で、文芸復古に置ける旧套脱皮運動の伝統を経て若々しい文体が生まれ育つ事を勘定に入れて猶、立ち止まって今一度温故に知を新たにすべきではないか、と問題提起を行なっているのである。ひとり言のように。
谷崎さんは幸田露伴を師と仰ぎ見て取れる節を書いているが、幸田露伴の文章の1センテンスが長いこと、明治期から大正期に掛けての作家の文体が短く”S+V+O”に紋切り型化していること、前者が西洋化せずに文体筆致が日本語の盤石な基盤から起こされていることを、「日本語に関係代名詞のような便利な表現がない為だ」と指摘する。深い。
中盤は外国語の文学に関して、日本語との主語の使い方の違いについて書かれている。この辺は、日本がlow contextな文化であるのに対し、西洋がhigh contextな文化に依拠して文体が編まれ、その差異がもどかしい事を丁寧に詳らかにし、日本人小説家と西洋人の某の文編の困難さを著している。
語の乱れ、文体の錯乱に、当時の文人は身悶えしたに違いない。性急な西洋化が齎した日本語の変化に対する危機感、とりわけ、美しい日本語文化の喪失に対する危惧を憂う文人が確かに存在していた事をここに垣間みることができる。
この文章の本質を著した一節。長いけれど、核心が胸を突き、谷崎の核心が燦然とする。
「前にもちょっと触れておいたように、日本語の表現の美しさは、十のものを七しか言わないところ、言葉が陰影に富んでいるところ、半分だけ物をいって後は想像に任せようとするところにあって、真に日本的なる風雅の精神というものはそこから発しているのである。もっともこういうと、それだから日本語は不完全な国語だ、十のものを七つしかいわないでは舌足らずがしゃべるようで、とうてい欧州語のように、説いて委曲を尽くすことは出来ない、という人があるかも知れない。それは人々の考えようだから、一概には片附けられないけれども、私にいわせると、全体人間の言葉なんてそう思い通りのことを細大洩らさず表現出来るものではないのだ。手近な例が料理法の本だとか、手品の説明書なぞを読んでも、それが日本文であろうと英文であろうと、図解でも這入っていなかったらなかなか分かるように書けてはいないではないか。言葉というものはそれほど不完全な、微細な叙述になって来ると、一切実用にならないものなのだ。試みに鰻をたべたことのない人に鰻の味を分からせるように説明してみろといったって、どこの国の言葉でもそんな場合の役には立つまい。しかるに西洋人というものは、なまじ彼らのヴォキャブラリーが豊富なために、そういう説明の出来得べくもないことを、なんとか彼とかあらん限りの言葉を費やしていい尽くそうとして、そのくせ核心を摑むことは出来ずに、愚かしい努力をしているように私には見える。独逸語は哲学の理論を述べるのに最も適しているのだそうだが、それにしても作者自らがこれで十分と思うほどには決していい尽くせはしないであろう。現にショウペンハウエルが「意識と現識の世界」の序文で、「自分の本は一字一句が全体に関連しているから、正しくは二度読んでくれないと理解されない」といっているように、言葉を費やせば費やすほど、全面を同時に具象的にいい著す事が至難になる。そういう点を考えると、少なくとも文学においては、日本語のように言葉のいい表わし得る限界を守って、それ以上は暗示するだけに止めた方が、賢いやり方なのではないであろうか。」
谷崎潤一郎の本を読んでみて、自分は日本史のことを全然知らないな、ということが分かった。通史だけでは理解が間々ならない。日本近代史、特に明治期の歴史について、学びを深めなければ、と啓示を得た。
同時に、この本を読んだ事を機に、文豪の「文章読本」を攫っておくことも、外国語を教える教師として畢竟なることなのではないか、と僕は考えた。
日本語の美しさを知らない人が、英語だけを教えても、生徒には伝わらないと思う。日本語の持つ美しさ、日本語が表現出来得る可能性をきちんと理解しようと努める事は、英語教師であれば、誰もが持つべき命題なのではないか。日本語が拙い人の翻訳は拙い。これは翻訳を読めば分かる。何が書いてるのか、さっぱり分からないものがたくさんあるからだ。
誤訳、と断じるレベルなのではなく、正訳でも、意味がまったく分からないものがある。何を言おうとしているのか、さっぱり分からない、といった事態は外来文章の翻訳版を読む際の最大の難点なのではないか、とさえ感じる。
視点を広げれば、米国産の映画やホームドラマの翻訳は、コロキアルな文体に則して、ものすごく分かりやすく訳し分けられている。視聴者の耳障り、目障りに慮った翻訳は脳にやさしい。
さて、自分が教える事を考えたときにどうか。
まだまだ日本語がわかっていないですね^^;
ではまた。
話は縦横無尽に行交うが、谷崎さんご自身が率直に思っておられたことを、どんどん気の衒いもなく、ある時はコミカルに、またある時は真面目に書いている。
谷崎さんは東京の人なので、文章の底流には江戸っ児のべらんめぇ魂が炸裂しまくっていて、読む物を軽快な気持ちにさせて小気味良い。
立川談志師匠が真面目に日本語表現についての話をなさってあるような趣、と言えば分かり易いでしょうか。
日本語について、平安時代から江戸、明治にかけての文体の変遷、貴族の持つエクリチュールによる尊敬語と謙譲語の使い分け、動詞そのものによって主語を落とし、文末によってその文章が話される人称を使い分ける日本語の妙について、また西洋語(主に英語)との違いについて、実に明確かつ単純に分かり易く解説が施されている。
「のである」という語尾がいつ頃から使われるようになったかに端を発し、この語尾が地方から上京した人々が、遡上を出さぬよう丁寧表現を用いるようになってから使われるようになった、ということが書かれている。これは江戸の言葉ではない、と。江戸っ児である谷崎さんはこの語尾に違和感を憶えていたらしく、少年期に麻布中学校長の江原素六の講演を聴き、幕末の臣でありながら、話される言葉がべらんめぇ調に基調されていたことに安堵を憶えたらしい。うーむ、この辺からどんどん面白くなってくる。
日本語はもっと自由な表現で、もっと便利な言葉だったはずなのだから、漢文調や、コロキアル一辺倒、語尾の統一感などに捕われず、もっと伸びやか且つしなやかに表現されるべきなのではないか、と谷崎さんは舌鋒鋭い。
平安末期の和漢混交体とともに、明治維新以来の文人の口語体による創作を谷崎さんは賞賛している。その上で、文芸復古に置ける旧套脱皮運動の伝統を経て若々しい文体が生まれ育つ事を勘定に入れて猶、立ち止まって今一度温故に知を新たにすべきではないか、と問題提起を行なっているのである。ひとり言のように。
谷崎さんは幸田露伴を師と仰ぎ見て取れる節を書いているが、幸田露伴の文章の1センテンスが長いこと、明治期から大正期に掛けての作家の文体が短く”S+V+O”に紋切り型化していること、前者が西洋化せずに文体筆致が日本語の盤石な基盤から起こされていることを、「日本語に関係代名詞のような便利な表現がない為だ」と指摘する。深い。
中盤は外国語の文学に関して、日本語との主語の使い方の違いについて書かれている。この辺は、日本がlow contextな文化であるのに対し、西洋がhigh contextな文化に依拠して文体が編まれ、その差異がもどかしい事を丁寧に詳らかにし、日本人小説家と西洋人の某の文編の困難さを著している。
語の乱れ、文体の錯乱に、当時の文人は身悶えしたに違いない。性急な西洋化が齎した日本語の変化に対する危機感、とりわけ、美しい日本語文化の喪失に対する危惧を憂う文人が確かに存在していた事をここに垣間みることができる。
この文章の本質を著した一節。長いけれど、核心が胸を突き、谷崎の核心が燦然とする。
「前にもちょっと触れておいたように、日本語の表現の美しさは、十のものを七しか言わないところ、言葉が陰影に富んでいるところ、半分だけ物をいって後は想像に任せようとするところにあって、真に日本的なる風雅の精神というものはそこから発しているのである。もっともこういうと、それだから日本語は不完全な国語だ、十のものを七つしかいわないでは舌足らずがしゃべるようで、とうてい欧州語のように、説いて委曲を尽くすことは出来ない、という人があるかも知れない。それは人々の考えようだから、一概には片附けられないけれども、私にいわせると、全体人間の言葉なんてそう思い通りのことを細大洩らさず表現出来るものではないのだ。手近な例が料理法の本だとか、手品の説明書なぞを読んでも、それが日本文であろうと英文であろうと、図解でも這入っていなかったらなかなか分かるように書けてはいないではないか。言葉というものはそれほど不完全な、微細な叙述になって来ると、一切実用にならないものなのだ。試みに鰻をたべたことのない人に鰻の味を分からせるように説明してみろといったって、どこの国の言葉でもそんな場合の役には立つまい。しかるに西洋人というものは、なまじ彼らのヴォキャブラリーが豊富なために、そういう説明の出来得べくもないことを、なんとか彼とかあらん限りの言葉を費やしていい尽くそうとして、そのくせ核心を摑むことは出来ずに、愚かしい努力をしているように私には見える。独逸語は哲学の理論を述べるのに最も適しているのだそうだが、それにしても作者自らがこれで十分と思うほどには決していい尽くせはしないであろう。現にショウペンハウエルが「意識と現識の世界」の序文で、「自分の本は一字一句が全体に関連しているから、正しくは二度読んでくれないと理解されない」といっているように、言葉を費やせば費やすほど、全面を同時に具象的にいい著す事が至難になる。そういう点を考えると、少なくとも文学においては、日本語のように言葉のいい表わし得る限界を守って、それ以上は暗示するだけに止めた方が、賢いやり方なのではないであろうか。」
谷崎潤一郎の本を読んでみて、自分は日本史のことを全然知らないな、ということが分かった。通史だけでは理解が間々ならない。日本近代史、特に明治期の歴史について、学びを深めなければ、と啓示を得た。
同時に、この本を読んだ事を機に、文豪の「文章読本」を攫っておくことも、外国語を教える教師として畢竟なることなのではないか、と僕は考えた。
日本語の美しさを知らない人が、英語だけを教えても、生徒には伝わらないと思う。日本語の持つ美しさ、日本語が表現出来得る可能性をきちんと理解しようと努める事は、英語教師であれば、誰もが持つべき命題なのではないか。日本語が拙い人の翻訳は拙い。これは翻訳を読めば分かる。何が書いてるのか、さっぱり分からないものがたくさんあるからだ。
誤訳、と断じるレベルなのではなく、正訳でも、意味がまったく分からないものがある。何を言おうとしているのか、さっぱり分からない、といった事態は外来文章の翻訳版を読む際の最大の難点なのではないか、とさえ感じる。
視点を広げれば、米国産の映画やホームドラマの翻訳は、コロキアルな文体に則して、ものすごく分かりやすく訳し分けられている。視聴者の耳障り、目障りに慮った翻訳は脳にやさしい。
さて、自分が教える事を考えたときにどうか。
まだまだ日本語がわかっていないですね^^;
ではまた。
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