2015年5月9日土曜日

Quo vadis? あなたはどこへ行くのか。

風邪で先週から気分が優れず、喉の痛みが最高潮に達していて、話をする時に喉がぴりぴりと痛む。連休明けの授業は二日間しかなかったが、昨日の終礼の時に生徒に話をしている時には、声が渇いて焼けているような音が出ていた。木製管楽器もこれくらい渇くと、アンサンブルの時に音がくっ付いて良い音色がするのか知らん、と莫迦げたことを考えながら、ぼんやりとしていた。




机の上に投げ出してあった本が目に留まる。図書館から借りて来た、大学生向けの簡単なラテン語紹介の本。ぱらぱらと捲っていた。発音から、格変化に関する項を読み、例文集に目を通す。巻末には、ネットで時事ニュースをラテン語で聞けるサービスがある事を知り、驚嘆する。死語であるはずのラテン語なのに、欧州人達は何故ラテン語を捨て去ろうとせず、むしろ活かし続けようとするのか。理由など説明出来ないのだろう。




言葉は神であり、借り物である。言葉は民族の民話や神話を編み、宗教を束ね、アイデンティティを基礎付けるもの。死語であり、不使用言語だから、という短絡的な理由で、そうやすやすと捨て去ったりできない、それは彼らの歴史そのものであり、DNAの連続性を担保するものであり、彼らが現在話す欧州の各言語の祖であることを、彼らは身体で分かっている。


ラテン語を捨て去る事は、自分の先祖や、墓や、歴史を捨て去る事であり、自分たちの来た所、故郷、Homeを失う事なのだ、ということをしっかりと理解しているのではないか。だから彼らはラテン語を今の世にでも生きながらえさせ、受け継ごうとしているのだろう、と僕は胸を温めた。


例文集の中にはいくつかの例文が載っていて、目に留まったものを自学帳に書き連ねてみる。

Non Omani possumus omnes. 我々は皆、万能ではない。


Repetitio est mater studiorum. 繰り返しは学習の母である。


Festina lente! ゆっくり急げ。


Jacta alea est. 賽は投げられた。


Cultura animi philosophia est. 精神を耕すことが哲学である。


Quo vadis? あなたはどこへ行くのか。


Bonus esse volo. 私は善人でありたい。


Vivere cogitare est. 生きる事は考える事。


例文をつなぐと、今の自分の気持ちが全て言い表されてしまうくらい。掲載されている例文で、格言の様なものを選ぶとこうなった。人って、自分の都合のいい言葉を選び取っているんですねぇ。面白い。


数日間、僕の筆致が乱れていたのを高い感度で感知したたくさんの方々から、励ましや温かいお便りを戴いた。”Scratch my back and I'll scratch yours.”とはよく言ったものでして、こちらが何も言わなくても、気遣ってくださり、励ましてくださり、労ってくださった。


お便りを下さった方々は、何度もお会いした事があるわけではなく、また、今現在、特別な関係や交わりがある方々ではない。けれども、何度もメールをやり取りしていたり、SNSを通じて、ブログの感想を書いてくださったり、雑記に目を通してくださり、温かい愛のある言葉を返してくださる方々で、こういうやり取りを通してみて見ると、教師として、自分と同じ様に目の前の生徒達を愛して止まず、生徒達の為に愛情を無条件に注ごうと決意して、現場を奔走していらっしゃる先生方がこんなにもたくさんいらっしゃるんだと思い、胸が焦がれた。


「教師として、背中の向こう側に生徒の姿が見える人こそ、本物だよ。」と背中をさすって励ましてくれた言葉がとてもうれしかった。自分は生徒達の為に本当に愛情を注げているだろうか、と自問し、背筋が伸びた。


黙って多くを語らない人たちの中に、神の慈愛と憐れみを見る事が増えた。神様は人の中に現れ、私たちに問い続けているのだ、と思い、僕は人と関わり、もっと交わりを持って、多くの人と話をしたいと思った。


暁の会はもしかすると、その為に神様が備えてくださった群れなのかも知れない、と僕は考えている。だから続けなければ行けないと思うし、一人でも多くの人とともに、生徒を愛し、同僚を愛し、そこに関わる家族や友人達を愛し、燃え立って行かなければ行けないと、深く自己に基礎付けている。




心が乱れていたのを神様が諌め、深い慈しみを持って憐れんでくださり、恵みで満たし、祝福してくださった。人の子の顔に輝く神の栄光、と聖書に書いてあった事は、まことであった、と神への帰依の意と畏敬の念を重ねた。


今日は夕方から同志が勉強に来る。5月、6月の勉強会についての準備を行なう貴重な三日間となる。月末と来月の勉強会が、参加される多くの先生方との良き交わりの会となり、充実の内に終えるよう、周到に抜かりなく準備を行なって行きたいと考えている。


たくさんのメールやご連絡を下さった先生方、有り難う御座いました^^
引き続き、燃え立って前に進みます。共に歩みましょう。
子供達の為に頑張る群れで居続けましょう。


ではまた^^


{3:6} Ego plantavi, Apollo rigavit: sed Deus incrementum dedit.
{3:6} I planted, Apollo watered, but God provided the growth.

{3:7} Itaque neque qui plantat est aliquid, neque qui rigat: sed, qui incrementum dat, Deus.
{3:7} And so, neither he who plants, nor he who waters, is anything, but only God, who provides the growth.

{3:8} Qui autem plantat, et qui rigat, unum sunt. Unusquisque autem propriam mercedem accipiet secundum suum laborem.
{3:8} Now he who plants, and he who waters, are one. But each shall receive his proper reward, according to his labors.

{3:9} Dei enim sumus adiutores: Dei agricultura estis, Dei ædificatio estis.
{3:9} For we are God’s assistants. You are God’s cultivation; you are God’s construction.


3:6わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
3:7
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
3:8
植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。
3:9
わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。

2015年5月8日金曜日

アンバランスというバランスについて

何気なく流れてくる情報記事に眼を通していて、記事に躍る日本語に目が留まった。
「この国は何かがおかしい。」と。また、ある記事には次の様にあった。「あなたはこの現状をどう思うか。」と。
また別の記事には「これは良い。」とか、「これはいけない。」とかの表現が続いた。

おかしい、というのは、ゼロの状態から斟酌して、マイナスかプラスかのどちらかに針が振れすぎている、という意味のことを言っているのだろうから、恐らくその言わんとするところは、ある視点の基準から考えていて、そのゼロ値からずれている、ということを意味しているんだろうと思う。

風邪薬で朦朧としながら、ふと考えた。個人主義がこれだけハイパーに進んだ社会にあって、もはや、なにがゼロ値であるのか分からないくらい、自分たちの身体感覚は麻痺させられているのではないか、と。

何が正しくて、何が間違っており、何が中庸なのかの判別ができなく無くなっている、そんな風に思った。ある主張が正しいのだとすれば、他方は間違っており、また他方が正当性を主張すれば、もう一方が、否、と言う。結局の所、私たち人間は、良いか悪いか、というどちらかの針に振れていなければ落ち着けないのか、となんだか暗い気持ちになった。

良いも悪いもない、どちらの要素もあり、更に三角な要素もペケの要素も、花丸の要素もあるのが自然なはずなのに、流れてくる情報の中には、ごく一部を除いて、すべてにシロクロがつけられている。どうしろというんだろう。

自分が考えていることが間違っていることだってあるし、自分が考えていることの正当性を主張する場合には、逆側の考え方をきちんとくみ取りつつ、相互の主張の拮抗するところを斟酌しながら、アウフヘーベン的に折りあいをつけていかなければいけないし、また、上手にやらなければいけないところと、上手にやってはいけないところと、のらりくらりいくところと、スピーディにやらなければいけないことと、拘泥しながらどこかに足を出す一歩を見つけながら前に進んで、はい、おしまい、となるのが人生なのでは無かろうか、そんな風に考えた。

「人生というのは4本足のテーブルに似ていて、こっちの足が長すぎるからと言ってノコでこっちを削り、すると今度はこっちが長すぎると言ってノコで別の足を削り、と、そうやっていくうちに、机ががたーんと倒れてしまう、それが人生というものではないでしょうか。」とは、三島由紀夫さんが生前のインタビューで言っていたことで、なかなか、上手いことを言うよね、と、24歳の時に感心したことがある。

あれから17年くらい経っているけれど、ああ、あのときに三島さんが言っていたことって、そういう意味なのかな、とぼんやり思ったりする。人生って、バランスが悪いものなのであって、バランスが悪いから整えようと必死なんだけれど、どれか一つの視点に偏ってバランスを取ろうとすると、全体のバランスが崩れてしまったりして、塩梅が悪くなったりするものなんだ、と思って理解しておかないといけないんだな、とこの頃つくづく思う。ルービックキューブって、ある面を揃えようとすると、別の面が揃わなかったりするじゃないですか?全部の面をきれいに揃えるのって、中々大変でね。それと同じことなのかな、って。

自分が間違っていて、自分のバランスが悪い可能性について、人間は愚かなので、ファナティックになると忘れてしまう。だから、自分の信念や主張が熱を帯びてきたときこそ、バランス悪いね、と自分を諫めて、別の視点や観点から自分を見てみると良いのかな、と思ったりしています。

ジョンレノンの歌を思い出すね。
“I read the news today, oh boy. 
About a luck man who made the grade and though the news was rather sad, well, I just had to laugh. 
He blew his mind out in a car.  He didn’t notice that the lights had changed. 
A crowd of people stood and stared.  They’d seen his face before. 
Nobody was really sure that he was from the House of Lords.  
I saw a film today, oh boy.  The English Army had just won the war. 
A crowd of people turned away.  But I just had to look, Having read the book.  I'd love to turn you on. “




2015年5月5日火曜日

暁の会について

三月に先生方や卒業生の為に、と共に勉強をする仲間を募りたい、と勉強会を立ち上げた。会の名前は暁の会、これから日本の英語教育は夜明けを迎える、その夜明けを拝む為に馳せ参じて、共に学びを深める会にしよう、という強い想いを込めて附けた名前です。


この会は、趣味や遊びでやっているのではない、本当に授業や英語学習に悩む仲間と共に燃え立ち、励ましあって、勉強を続けて行こうという強い気持ちを持って立ち上げた会です。


この会によって、僕は、功を為し名を遂げようなどとは一切考えていません。また、この会が大きくなろうとも、小さな群れであろうとも、止める気もなければ、一切の外部的圧力にもけして屈しません。


この会を通して、僕が本を書いたり、何れかの会社主催のセミナーの講師にあわよくばなろうと目論むものでもありません。


勉強会によって、共に学ぶ仲間と燃え立ち、日本の子供達の為に、少しでも英語の授業を良いものにしたい、力を附けたい、と願っているのです。それ以上でも、以下でもありません。


世には意地の悪い人や短見で了見が狭く、自分の考えている事が凡て正しいと考えている方もいらっしゃいます。なので、僕がブログを書いている内容をお読みになったり、Facebookに投稿するエントリーについて、お叱りを戴くこともあります。


例えば、トレーニングやスキル中心主義に対して、僕が舌鋒鋭くブログで書いたりすると、ではお前は授業ではトレーニングをしないのか、お前のしていることは矛盾しているではないか、と言われる事があります。


最初に断っておきますが、9年も前に同時通訳の先生から何度も指導を受け、その指導を信じて自分で何度もトレーニングを重ね、日々トレーニングを繰り返し、それを授業に何度も取り入れ、その後、数年経ち、このメソッドだけの授業では、子供達の力を伸ばすのには限界があるのではないか、と自分のトレーニング体験と子供達への実践を重ね合わせて何度も何度も吟味し、得た結論であり、知見なのです。


トレーニングやスキルを子供達に教え、力を伸ばして行く事に対して、僕はなんら反論しませんし、その方法論について、自分も授業の中で実践しています。毎回毎回、俳句を英語で読んだり、絵本の読み聞かせをしたり、歌を歌っているだけで、生徒が英語ができるようになる、と結論付けるのは愚かしい事で、では、何故こんな実践を一学期の一等初めに持って来ているのか、という事を先ず考えてみて欲しいのです。


単語帳を読ませたり、教科書の英文を何度も音読、暗誦させたり、僕もその都度の授業で生徒達に課しています。ただし、この方法だけでは、いつまで経ってもアウトプットができる様にならない、ということを、確認し、その為に授業に何が必要なのかを一生懸命に考え、追求しているのです。その結果が今の授業展開に活かされています。


「トレーニングを生徒にさせ、スキルを注入し、メソッドを教え込めば自然に生徒はできるようになる」という教育的仮説に対して、僕は抗うものではありません。翻って、この説に対して、全面的に与できない、と僕は実体験を伴って強く信じてます。それだけでは片手落ちなのです。


トレーニングでついた力をどのようにアウトプットに活かして行くのか,という点。例えば構文を憶えさせられたり、例文の暗誦をさせられた、という記憶のある大人はたくさんいらっしゃるでしょうし、その結果、英語使えないじゃん、という想いを抱いておられる方が大半だと思います。


そのメソッドは今も連綿脈絡と繰り返される。僕はそれは思考停止ではないか、と思いました。生徒に対して心を鬼にして暗唱を強いることは大切です。でも、自分が言いたい事を、その暗唱させられた例文を使って、他語に言い換えて言う練習はさせられていないのが大半の現場の実情なのではないか、と僕は思います。


もう一つ。英語は、質問に対して一文で答えても、英語にはなりませんで、相手に納得してもらう為に、きちんとしたロジックの枠組みで話をしなければ、話が前に進みません。たとえば、What kind of Japanese food do you like the most?とネイティブに質問されたとします。言葉尻だけを取れば、「どんな日本食が、あなたは一番好きなの?」という意味ですが、その答えとして期待されているのは、I like sushi the best. という一文だけではなく、何故寿司が好きなのか、寿司が好きになったキッカケは何か、あなたのオススメの寿司はどんなものか、と言った情報までを相手に伝えて、初めて相手は「なるほどね、あなたが寿司が好きなのはそういうきちんとした理由があるからなんだね。」と理解を示す、それが英語のロジックですし、英語の基本のフォームなのだと僕はKHシステムで国井先生と橋本先生に教わりました。


その意味で、中学から高校一年生段階まで、あるいは高校二年の段階まではトレーニング中心の授業でもある程度仕方がありませんが、トレーニングをしつつ、生徒達に言い換え表現を練習させたり、スモールトークの取り組みを通して、実際に憶えた英文を積極的に使わせる活動が授業に入っていなければ、いつまで経っても憶えた英語が、生徒にとっての活きた英語の持ち駒にはなり得ないのです。


話は「話す」に傾いたように思われますので、これを「聞く」「読む」「書く」に向けてみますと、これらの4技能は実は密接に関わっていて、話すだけをやっていても英語はできる様にはなりませんし、読むだけをやっていてもダメ、これらの要素は複合的かつ複雑に絡み合って、「英語」という外国語の技能をなすわけで、セパレートに教えていても、この4技能が絡み合うようにはならないのではないか、と僕は推論します。


「話す」ことが上手な人は「書く」ことも上手い。これはスピーチ上手な人を例にとってみてもよくわかります。ところが、書く、だけをいくら練習しても、話す、ができるようには中々なりません。話す、とは、英語において、機械的に英文を繰り返す事ではなく、自分が憶えている英文や構文、単語表現をその都度入れ替え、それを先に述べたロジックの上に乗せて述べる必要があります。ですから、「話す」と「書く」は、この点において密接に繋がっています。英作文を鍛える時に、同時に「英語で話す」を鍛えた方が、トレーニングによって英語を鸚鵡返しにさせるよりも、より言語活動の効果は高まると僕は睨んでいます。


同時に、英語を「聞く」行為について。これも先述と同意ですが、英語を聞く時に、先のロジックを意識して聴くのと、一文一文をバラバラに理解するのでは、自と理解に差が生まれます。英語は全て、ロジックの枠を持って語られたり、書かれたりします。そのロジックの枠組みを逸脱して、発せられても、相手には納得してもらえないし、理解してもらえない以上、ロジックの約束事をきちんと守らないと、英語を話す事にはならない。リスニングをやっている時に、このロジックを意識しながら聴くのと、どのように発音されているのかを意識しながら聞く事、さらに言えば、聞き覚えのない語彙の数を減らして行く事、この三点こそがリスニング力向上において最も重要で、その点を外して生徒達に指導をしても、生徒達はいつまで経っても聞ける様にはなりません。


同時に、このロジックを意識した聞き取りのフォームが身に付くと、まとまった文章を読む時に、おのずとそのロジックを意識した読み取りフォームが身に付きます。なぜなら、読まれる英文も書かれる英文も、英語のロジックの約束事の上に成立しているからです。その点を意識して指導を重ねると、生徒達の聞き取り力に違いが出、差が生まれます。その方針を授業で行なって行くべきではないか、と僕は考えているのです。


では、今僕がやっている授業実践の、「絵本の読み聞かせ」「多読」「歌」「ロジック」「自由英作文(人物描写・英文要約)」などはこれらのスキルやメソッドのどこを目指してやっているのか、と言いますと、これはそこに入る前の段階。まずは「英語そのものに慣れよう、英語そのものを学習する取っ掛かりを作ろう」という目論みの元、行なっています。


いろんな方法論があっていいと思いますし、4月から5月に掛けて、どのような目論みをもたれても、最終的に生徒達に力がついていることはとても大事な事です。僕は自分の生徒達を見て、生徒観をきちんと分析し、今現状で、自分が教えている生徒達を英語学習に向かわせる為に何が必要か、ということを鑑み、今の授業を設計しています。


トレーニングやスキルもどんどん教えます。僕の中ではそれらの活動と、上記に記した事はなんら矛盾しうるものではなく、どちらも生徒達にとって必要な事だと理解しています。


考え方は人それぞれですし、いろんな意見が乱立し、それぞれが互いに尊重されうるのが民主主義の良い所です。また、僕が論じているのは、英語の授業の在り方について、授業での指導の在り方について、英語の力を附けて行く事について、英語の学習に向ける心構えについて、そんなことが中心です。


僕の方法論を通じて、僕の名声が上がり、僕の懐に金が入って来て、僕がリッチになり、幸せになる為にこんなことをしているのでは毛頭ありません。僕は清貧な生活がしたい。懐はある程度温かければ良い。金や名声の為に、心の貧しさをなお虚しくする生き方はしたくありませんし、できません。

生徒達にいろんな方法を試しながら、力を附けて行き、決して立ち止まらずに、常に思考を巡らし、修正に修正をかさねて、毎度の授業に出掛けて行きたい。僕はそう思っています。


勉強会をしても、授業改善を毎日行なっても、給料も上がらなければ、休日が増えるわけでもない。でも、そんなことはどうでもよろしい。僕がお金儲けの為に今の活動を行っているとすれば、僕はもっと狡猾に、より聡く振る舞います。絶対にそうする。だって、こんなやり方では儲かる訳がないから笑。


暁の会は、お金を取ったり、何かを強いたりしません。自分たちよりも力のある人とか、ない人とか、関係ない。息遣いが聞こえる距離で、共に語る言葉が擦れる距離感を大事にする会でありたい。70名来てもほとんどの人と会話もできないような会を標榜するつもりはありません。互いに悩みを打ち明け、共に燃え立ち、愛ある指摘をし合って学びを深め合いたい。互いに尊重ができる会であり続けたい。そう思う。


その意味で、暁の会の発展は、参加者の数や、著名人が何人来たか、という事実で推し量るものではない、と僕は考えています。そんなこと、どうでもいいことでしょ?^^
来られる先生方とともに学び合う覚悟でいます。趣味や冗談でやっているつもりは毛頭ありませんし、大人数に拡大することも、当座は求めてはいません。学びたい、と思う人であれば、誰でも受け入れたい。


セミナー講師の先生にご遠慮頂く、と以前に断ったのは、会の中座や中断を忌避したかったからです。折角燃え立って皆で話しているのに、その先生の知見で会が全て覆い尽くされてしまうと、参加される先生方の小さな声を聞き逃してしまう恐れがあったから。それが一番怖かったのです。だからセミナー講師の先生方には参加を見合わせて頂きたい、とお願いするつもりで、ああいう告知を書きました。温かく静かに見守って頂いて、懇親会などで先生方にアドバイスを戴けるのであれば、是非お越しいただきたいと思っています。ご遠慮なく、お越し下さい。


会を立ち上げ、勉強会をするにしても、いろんな憶測や誤解を生んで、そんなくだらない事で擦り減ってしまう事も事実です。ですが、お互い大人ですからね、そこは笑。


いろんな人がいろんな考えを、いろんな形で発信し続ける事こそ、教育の停滞を避ける唯一の方法だと僕は考えて、まずは自分でやれる事を自分なりにやっていますけれども。

最後に。大人ですからね、大人な対応で良いと思います^^
学び合うのに、腐し合う必要ないし、感情的になる事自体がおかしいと僕は思っています。それは愛がないじゃないですか?^^

誰もが誰の目も気にせず意見がフラットに言えて、互いに刺激し合って燃え立って行ける会を、これからも続けて行くつもりです。

ではまた^^

2015年5月3日日曜日

自問と自省と自戒と

自分で勉強会を主催する様になり、スタートを切ってから色んな事を考える。何の為にこんなことをやってるんだろうか、と呆れてしまう事もある。自分のことも間々ならないのに、いろんな人を巻き込んで、何をしてるんだ、と思うのも事実。
自分は本を書いているわけでもないし、セミナーの講師をしたり、世に顔が売れている訳でもない。特段、何の取り柄もないし、英語を教えているけれど、英語もそんなにできない。
子供達の未来の為、と紋切り型にしてしまうと、なんだか分かった様な感じで行けない。何の為に動いているんだろう。毎日毎日、いろんなアイディアに挑戦しながら、「自分がやったことがないこと、自分が経験したことがないこと」を生徒と一緒にやりたい、と思っているだで、その気持ちだけが自分を動かしている気がしてならない。それ以外は特別になにも考えていない。

自分には守るものがない。これをしなければマズいとか、こうしなければいけない、という課題も命題も何一つ与えられていない。情念が赴くまま、一体どうすれば、授業中に子供達の目が輝くか、とそればかり考えている。

過去6年間、生徒達の力を伸ばそう、伸ばそうと考え、受験に役立ちそうないろんなシステムを敷き、子供達にたくさん勉強を強いた。無我夢中で子供達に勉強をさせた。その結果、多くの生徒達の基礎学力は保証されたが、一方で英語嫌いを生んでしまった事実にも目を背けられなくなった。僕は一体、何の為に子供達の前に立ち、授業をしているんだろう、そんな想いばかりにとらわれ、去年の秋口、恐ろしいほどの罪悪感に捕われた。自分のせいで、どれほどの子供達が英語を嫌いになってしまったんだろうと思うと、胸が痛み、悲しい気持ちになった。

自分は何の為に授業をしてるんだろう、生徒の成績を伸ばせばそれで終わりなのか、と。生徒達の成績を伸ばす事は仕事の一つではあっても、それが全てになってしまうのはおかしいのではないか、と何度も自問自答した。

若い頃、中嶋洋一先生の本を食い入る様に読んだ。大事な所に付箋を貼り、蛍光ペンでチェックを入れ、自分の勉強ノートに先生の本を要約し、毎日指導案を作り、授業の反省日誌を書いて20代を過ごした。

英語の授業を通して、子供達の目を輝かせ、学力を保証する事はもちろんのこと、その先に、子供達の将来の為、英語の授業を通して、人生を、社会を、個性の形成を、他者との交わりを、全身を使って教えてあった中嶋先生のメソッドの虜になった。

自分は30代に入り、いつしかそんなことを忘れていた。どうすれば生徒の成績が一点でも上がるか、そんな事ばかりを考えて教壇に立っていた。それはそれで、間違っていなかったと思う。いや、そう思いたい。でも、今の自分はそんな風に考える事がどうしてもできないし、それが正しいんだ、と胸を張って言えない。

6年間教えて来た子供達のことを誇りに思っている。だけど、自分が彼らに施して来た指導が、本当に正しかったのか、今でも悩むし、あれで本当に良かったんだろうか、と何度も何度も自答して、今の授業があるのかも知れない。

英語が苦手な生徒から、先生、先生の授業大好きだったよ、と言われるとき、自分はこの子に何もしてあげられなかったのに、と罪悪感でいっぱいになる。英語が苦手な生徒達から、たくさんの笑顔や優しさをもらった。先生、先生のこと、大好きだよ、と言われるたびに、自分はこの子達に何一つしてあげていないのに、本当に申し訳ない、今までこの子達に何をしてあげられたんだろうと胸が苦しくなる。

恐らく、退職するまでこんなことを何度も何度も、繰り返し、繰り返し考えながら、仕事を終えていくんだろうと僕は思う。それはどんな先生であってもそうだろうし、仕事には完成がない、という立脚点に立ってみれば、仕方がないのかも知れない。

けれども、それはそれで仕方ないんだから、あきらめるしかないんだよ、と割り切っていくことも自分にはできない。それはそうかも知れないけれど、精一杯、その子達に尽くして、誠意を持って一生懸命に誠実に向き合いたい、そう考えてしまう。そう思ってしまう。

今、現場で子供達に読み聞かせをしたり、俳句を英語で暗誦したり、多読の取り組みを始めたり、歌や教科書のレッスンで過去にも増して発音指導をしたり、ネットの英語スピーチをどんどん聞く様に奨励したりしている。毎回授業に行く度に、子供達の目が輝く姿を見るのが楽しみで仕方がない。

この取り組みを繰り返し、繰り返し行なって行きながら、生徒達が自ら燃え立って勉強に向かう気持ちを育てたい。今はその気持ちで毎回の授業を一生懸命全力投球している。
自分から、勉強したい!という気持ちで前のめりになる姿勢を育てたい。テクニックやメソッドを教えるのは簡単なんだけれど、子供のやる気のスイッチを入れるのは難しい。心に灯を点し、ハートに火をつける事は本当に大変なこと。

僕は、関わる全ての生徒が、僕の手を離れ、卒業をした後でも、英語に向き合おうとする気持ちを自分の中に持って卒業してくれる事を切望している。学ぶ気持ち、学ぶ事によって、より深く他者への理解を深める事を望んでいる。それは僕が何故先生をしているか、ということに大きく関係しているのかもしれない。わからないけれど。

英語を教えるだけだったら、僕は先生なんかしない方が良い。英語なんか、できないんだから。そうじゃない。英語の先に何があるか、授業の先に何があるか、教室で教える時間の向こう側に、子供達の何があるか、それを考えなければ僕は教壇に立ち続ける意味を失ってしまう。そう思っている。強く。

そういう考えを深めて行くと、誰かと話がしたくなった。だから勉強会を立ち上げた。一人の先生の前には200名の生徒達がいる。全国に何万と子供がいる。自分が今こんな風に考えたり思ったりしている気持ちを、同じ様に抱いている先生方もいらっしゃるに違いない、そんな先生達と話がしたい、そしてお互いに燃え立って前に進みたい、そんな風に考えた。

スキルやメソッドを垂れ流したり、トレーニングで埋め尽くされる様な授業を、僕はしたくない。子供達の心に何かが残る授業がしたい。僕らにとってはただの週の一コマかもしれないけれど、子供達にとってはそれが人生の一ページだと信じたいし、そう思って教壇に立ち続けたい。だから、その為に、何倍も努力をして、何倍も勉強をし、何倍もアイディアを温め、人の何倍も大胆に、勇気と智慧と力を持って、子供達に全力でぶつかって行きたい。そんな風に、今、泰然自若と自分に向き直っている。

僕はもうブレないし、何にも動じないと思う。恫喝や脅迫めいたことを誰かが僕に言ったとしても、絶対にそんなものには屈しないし、それで方針を変えたり、子供達に対する姿勢を曲げたりは、絶対にしない。むしろそんなことを慈しみ、憐れんで、祈りに憶えると思う。

そんな風に昨日、静かに考え、その結果をここに書いた。

The Acts of the Apostles 新約聖書:使徒言行録9章4節〜7節
{9:4} Et cadens in terram audivit vocem dicentem sibi: Saule, Saule, quid me persequeris?
{9:4} And falling to the ground, he heard a voice saying to him, “Saul, Saul, why are you persecuting me?”

{9:5} Qui dixit: Quis es Domine? Et ille: Ego sum Iesus, quem tu persequeris. Durum est tibi contra stimulum calcitrare.
{9:5} And he said, “Who are you, Lord?” And he: “I am Jesus, whom you are persecuting. It is hard for you to kick against the goad.”

{9:6} Et tremens, ac stupens dixit: Domine, quid me vis facere?
{9:6} And he, trembling and astonished, said, “Lord, what do you want me to do?”

{9:7} Et Dominus ad eum: Surge, et ingredere civitatem, et ibi dicetur tibi quid te oporteat facere. Viri autem illi, qui comitabantur cum eo, stabant stupefacti, audientes quidem vocem, neminem autem videntes.
{9:7} And the Lord said to him, “Rise up and go into the city, and there you will be told what you ought to do.” Now the men who were accompanying him were standing stupefied, hearing indeed a voice, but seeing no one.

9:4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
9:5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
9:7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。

2015年5月1日金曜日

俳句を英語で読み聞かせる授業

生徒達と図書館で授業をしています。できる限りall in Englishの流れを取りながら、図書館で絵本の読み聞かせからスタートし、子ども達に多読をさせ、その後、授業で使う教科書のトレーニングを行っています。


授業の概略や、指導の狙いなどについて整理をしてみました。


《授業の流れ》
1Greetings + 教師からの語りかけ(英語)

2.  絵本の読み聞かせ
①絵本の中身について、あらすじを簡単な英語で言い換え、概略を生徒に説明します。

②生徒が英語でお話の筋を理解できているか、生徒達の表情を見渡しながら確認。

③読み聞かせ(教師が絵本を、キャラクターになりきり、読み進める)

④生徒達同士で役を替え、交互に読み合う。

⑤お話の内容を友だちと日本語でシェア

⑥教師が、メタファーやプロットの背景について英語で説明。

⑦時間があるときは、⑥の後、全体でコーラス読み


3.多読タイム…書架から好きなpaperback1冊取ってきて読む。時間は10分。毎回10分の読書タイムを設け、週で3040分、英語の本を読む時間を設ける。本はどんな本でも良いのですが、選ぶ際に条件付けを与えています。

☆できるだけ早く読み終わる本を、まず選ぶこと
(分厚いものにチャレンジするのは後で良い)

☆辞書を引かず、だいたいこんな感じかな、という気持ちでどんどんページをめくる。

☆読み始めたら、できるだけ最後まで本を変えない。

☆話しの筋を追うことを一等大事にし、細かい未知語や文法にこだわらずに文字を追うこと。

☆後で友だちとシェアできるように、筋をある程度追いながら読むこと。

4.教科書の音読・発音指導・話のコンテクストへの理解

教科書レッスンの和訳読み、音読、教師とのコーラス
(この際にチャンク読み、発音指導、固まり毎音読法、固まり毎意味取り法、などを随時断続的に指導を行っていきます。)

指導をする際の注意点は以下の通りです。

《指導の留意点》
☆未知語があり、類義語を用いて簡単に言い換えて説明すると、何度も頷く。その後、再び未知語を繰り返し、繰り返し、語りかけの中で使いながら話しをすると、生徒達は身を乗り出して話しを聞きます。その行為を繰り返すことにより、生徒にとって、未知語はいつしか既出語に変わっていきます。それを粘り強く何度も何度も繰り返します。


☆分からない単語が出てきたときは、その単語を言った後に、日本語の単語をそのまま言ってあげると、合点がいくようです。また、それだけで終わると未知語が定着しないので、何度も繰り返しその語を使って語りかけます。それにより、生徒達は分からない未知語を少しずつ認識語彙に変えていきます。


☆絵本の読み聞かせは受験問題からくらべると、稚拙に思えますが、寓話や絵本の中には、必ず教訓や垂訓が含まれているのが常で、その言わんとする所は何なのか、生徒に考えさせる、話し合わせる、その後、この絵本のお話の背景には何があるのか、を知る、という活動を通して、物語を読むときの洞察を深めていこう、とするのが狙いです。


☆お話の中に出てくるフレーズで、生徒が「あっ!」と思う表現に出くわしたとき、彼らの表情が変わります。その際、その場ですぐにそのフレーズを音読指導し、生徒と共に短いフレーズを暗唱するようにします。こうすることにより、未知語が身体に染み込むこと、英語を味わいながら読むことの醍醐味を全身で感じてもらうのが狙いです。


今日は、EJキーツさんの、「春の日や 庭に雀の砂あひて~A day of spring: In the garden, sparrows bathing in the sand.~」という、俳句絵本を使って、読み聞かせを行いました。図書館は教室と違い、広いスペースがありますので、生徒達をそこに車座に腰掛けさせ、絵本を読み聞かせしながら、俳句の解説を簡単な英語でし、その後、生徒と共に、日本語の俳句の音読、英語の俳句の音読を繰り返しました。


良い俳句があれば、それをその場で何度も音読し、その場で暗唱します。今日憶えた句はこんな句です。

“A flash of lightening, the sound of dew, dropping down the bamboos.”という句です。

子ども達は俳句を味わいながら、英語で描写される句の風景を思い描きます。英語で簡単に句の解説を入れます。子ども達、食い入るように英語を聴きます。5-7-5の魔力ってすごいね、英語で読むと素っ気ない感じになっちゃうんだけど、日本語は、句の中に、音と意味の両方を封じ込めて、短くまとめてるよね、と英語で話しました。


言葉そのものが持つ響きや、英語そのものが表現しうることのできる範囲を生徒達と味わい、このセッションを終え、多読のセッションへと移りました。


図書館で生徒達に英語の本を読ませながら、当たりを見渡すと、図書館は本当に宝物殿で、宝物が溢れていました。海外で出版されている日本芸術の写真集、美しい建築物の写真集(英語解説)、歴史的建造物の写真集などがあり、今後の授業のトピックや話題に事欠かないな、と僕は思いました。


また、長文読解に入った際、分からないトピックが出てきたときには、その場ですぐに生徒と一緒にそのトピックについて調べることもできます。図書館で授業を行うことにより、授業の可能性は縦横無尽に広がっていくことを、書架に納められている膨大な書物を見ながら全身で感じました。


 次回は教室に戻りクラスで授業ですが、他の2クラスは図書館で授業をします。図書館で授業を行いながら、読み聞かせ、素読暗唱、語彙学習、読んだ内容を友だちとシェアしたり整理したりする活動を継続しながら、少しずつ少しずつ、生徒達に英語を読む下地を作っていきたいと思っています。
 
長文を読むテクニックやロジックばかりを教えていても、小説の筋を追ったり、話の流れをつかむメタ認知力は上がりません。絵本を使うことには、以下の2つの明確な狙いがあります。

①お話の筋を追うプロット追跡力を身につけさせること。

②お話の裏にある、筆者のメタファーや伝えたいことは何なのかを探るメタ認知力を上げること。

過去に読解の授業を担当していて痛感したことは、たとえばトピックとして扱われていることが社会的な問題であったり、何らかの論理が展開されていても、「問題を解いている」という枠組みから一旦出てしまわないと、どうしてもその枠組みに囚われ、思考や発想が封じ込められ、死んでしまう、ということでした。

 絵本を用いる事により、簡単なお話の裏に秘められている狙いは何なのかを認識する力をつけるこことにより、生徒達の洞察力を高め、言葉を通した認識力アップ、プロットの把握力の向上を目論んでいる、というわけです。

今日の授業では、日本語の俳句を扱いましたが、折も折、ドナルドキーンさんの自叙伝的なストーリーがレッスンになっていましたので、とても良い内容だったと思っています。

今後の授業展開がとても楽しみになってきました^^

これが、彼らが直面していく入試問題演習に入った時、どのように昇華していくのか、楽しみで仕方がありません。

小手先のテクニックやメソッドばかりに囚われた指導をしていると、生徒の洞察力やメタ認知を育てる指導は生まれませんからね。入試演習を通して、生徒達に生きる力をつけさせるような授業を、これからもどんどんクリエイトしていきたいと思っているところです。

ではまた^^




2015年4月28日火曜日

今日から図書館で授業^^

多読の活動を生徒にさせたいと思い、Grade Readerというシリーズの本を注文したい、と思っていたのですが、なかなか上手い事を思い浮かばず、二の足を踏んでいました。

生徒達に英語の本をどんどん読ませて、自然と読解力が身に付いて行く流れの実践を作りたかったのです。

毎回の授業で、四、五十冊の本を教室に持って行くのは煩雑です。また、生徒達を多読セッションの時だけ図書館に移動させるのもどうかと思いました。

そこで、図書館の司書の先生に相談に行きました。折も折、校長先生が図書館で読書をして居られ、校長にも立ち会ってもらい、図書館で英語の授業をしても良いかと尋ねました。

司書の先生も校長先生も、異口同音にして「図書館で授業、是非やってください。図書館をもって利用して欲しい。」と背中を押して頂き、満を持して、ようし、では一丁やってみるか、というので、今日の6時間目は図書館で授業をしようと試み、生徒に教室移動の連絡をしていました。

図書館で授業をするとなると、本校の図書館、吹き抜けになっていまして、もしここで大きな音を出したり、音楽を掛けたりすると、全フロアに音が響く事と相成り、他の授業にご迷惑をおかけする事になります。
そこで、図書館で授業をするにあたり、音楽を掛けたりすることは止め、できるだけ英語の音も小さな音で流す事を決め、授業に臨む事にしました。

ここ一、二週間、生徒達に対して、「受験英語」という枠で授業を受けてもらうのではなく、「英語そのもの」にたくさん触れて行く中で、「英語って楽しんだね!」とか「英語で何かをする、って面白いね。もっと知りたい。」という気持ちにどうしてもなってもらいたくて、敢えて授業はできるかぎり英語で行なう様にし、生徒達がきちんと話にfollow upできるように、時折、語彙は日本語でそのまま言ったりしています。

そういう活動を続けて行く中で、受験の問題に触れた時、普段やっている活動から、受験問題を突破して行く時のヒントやアイディアを数多く得てくれるのでは、と睨んでの試みです。

英語が苦手、と書いている生徒達が多かったので、まずは自信を取り戻して欲しかったのです。英語って楽しい、英語を勉強するの、好き!ってまずなってもらい、その後、それを続けて行くと、壁に当たる。楽しいだけではこれ以上前に進まない、と思ってもらう。その上で、じゃあ、単語や文法、真剣に復習しないとね、って自分で気付いてくれる事、その上で、じゃあ勉強しなきゃだ、と必要性を自分自身で気付いてくれる事が、僕の狙いです。

時間は相当掛かりますが、僕はこれを4月、5月掛けてやりたい。カリキュラムの中にある教科書や問題集も当然用いますが、その前の準備運動や基礎学習トレーニングを経ないと、子供達の気持ちが英語に向いて行かないのでは、と僕は考えたんです。

ある男子生徒が昼休みに言ってくれたすごくうれしい事があるのですが、「4月の最初は先生の英語がぜんぜん理解できなくて、この人、なに言ってんだ、って思ってたんですけど、最近は先生の英語に慣れて、だんだん分かる様になって来ました。」とぼそっと伝えて呉れ、ああ、こういう取り組みを始めて良かったな、とうれしく思いました。

生徒達に課題を出す時には、外国人の人が日本で体験した事をブログに綴っているものをGoogleで探して来て、それを加工し、辞書を引かせないでどんどん読ませたり、Wikipediaで日本のアニメやイチローさんのような外国で活躍している人の解説などを読ませ、その人物描写を英語でさせるようなことをしています。

先週の課題は、美味しいラーメンの紹介ブログと、進撃の巨人の解説ページ、などでした。

決して英語が得意とは言えない生徒が、今日の休み時間に、「先生、俺さ、進撃の巨人、読んだ事ないけどさ、この課題やってて、漫画読んでみよう、って思ったんだよね。」と言ってくれて、少なからずこの取り組みが生徒達の心に気付きを与えて呉れているんだ、と思い、頑張って続けようと改めて思いました。

さて、今日の6時間目の授業の話に戻ります。そういう訳で、生徒達は教科書の世界をやりつつ、世界で使われている生の英語に触れる機会がある程度あり、取り組みに参加していますが、如何せん、語彙力がなかったり、文法が朧げだったりして、心もとない。感想を読むと、ほとんど意味が分からなかった、と書いてあるものも少なくなく、また授業中の多読タイムでは、生徒の読むスピードがとても遅い事に気付きました。

これは、とてもじゃないけれど、このままのレベルで活動を続けていると、生徒達は段々自信ややる気を失ってしまうな、と考えました。

そこで、一旦教材のレベルを下げる事にし、何が良いだろうと思って考えた時に、出た答えが、絵本、だったんです。

子供達は幼稚園や保育園、あるいは小学校の低学年の時に、かなりの読み聞かせをしてもらってるはずなんです。そこで、日本でもポピュラーな絵本を英語で読み聞かせ、その内容について友達と話し、絵本の英語を辞書を使って徹底的に調べ、その和訳を、絵本作家になったつもりで、小さな子供が読んで、ワクワクするような日本語で和訳させる取り組みはどうだろう、と思い立ちました。

生徒達の普段の表情を見ていますので、この取り組み、一定の効果が必ずあることを確信していました。

うちの学年では、木村達哉先生のユメタン1、2を採用し、生徒達と単語テストやトレーニングを行なっています。この本、本当に優れた単語帳で、単語選出のコーパスの力が物凄く、登場するどの単語も、決して外す事はできない必須語彙ばかり。

ところが、生徒、覚えることは覚えるんですが、うろ覚えだったり、トレーニングをさせても、ぜんぜん響いてないんです笑。

そこで、彼らに英語を話すとき、ユメタンに出てくる単語をできる限りたくさん使いながら、語彙に触れさせる事にしたのが先ず一点、それから、生の英語教材の中にも単語帳の単語がふんだんに出て来る事を感じて欲しいと思い、多読教材を選んでいます。結構これが、大変な作業だったりするんですけどね笑。

で、今日は「三匹のやぎのがらがらどん」という絵本を選び、その読み聞かせを行ないました。

英語のストーリーを探して来て、プリントをこしらえました。ただし、読み聞かせをするのと、彼らに頭で内容を想像して欲しいのもあり、絵は載せません。著作権の関係もありますしね。何れは英語バージョンを買って来て読み聞かせする予定ですが。

まずは、どんなお話なのかを簡単な英語で解説しました。絵本とはいえ、本の中はfantasy とillusionの世界、子供達が普段触れない様なオノマトペの様な単語や、例えばヤギの角とか、日常生活で使う道具の英語など、知らない語彙がわんさか出てきます。
ですから、できる限りユメタンや教科書に出てくる単語で置き換え、僕がまず英語で簡単に説明します。

次に、僕がやぎの兄弟と怪物トロルになりきり、生徒の前でパフォーマンス、生徒達、6時間目で眠たい子もいるだろうに、一生懸命食い入る様に聞いてくれました。

その後のセッションです。物語全てを話し合うと時間がとても足りないので、トロルと兄ヤギの決闘シーン、兄ヤギはどうやってトロルを倒したのだろうか、という発問を英語でし、日本語でディスカッションしなさい、と英語で指示を出し、話し合いをさせました。その後、いくつかのグループに日本語で発表させ、最後に僕がpunchlineの解説を行ないました。

児童文学の中には、一見すると単なるfantasyのように思えるおとぎ話でも、欧州の歴史上、決して忘れては行けない様な悲惨な出来事も含まれています。

たとえば、グリム童話に出てくるヘンゼルとグレーテル。親が子供を森に捨ててくる話なのですが、これは当時の欧州が不況で失業率も高く、低賃金労働に従事する労働者の家族の中で起こった悲劇を、ファンタジーというフィルターを通して世に残した作品なのだ、と僕は理解しています。同じ様なモティーフを持った作品には、マッチ売りの少女などもありますよね。

そういう話を子供達に英語で話しました。また、日本の卑近な例も出しました。柳田国男さんが編纂した日本の民間伝承の記録があり、その中には不可解な事件について、昔の日本人がそれを妖怪や幽霊に準えて語る話が多く残っている事も告げました。

神隠し、というのは、霊的なものの仕業の様に扱われて伝えられているけれども、その実、貧乏子だくさんの貧しい家庭の口減らしで、貧しいが故に子供を養う事がままならず、他人や家族にばれない様に、子供を殺害し、それがあたかも霊的なものの仕業の様に伝えられ、その悲惨さを人間の仕業として残さぬ様にし、残されたものの心の禍根を闇に消し去る意味があったのではないか、と僕は子供達に語りかけました。

みな、真剣に聞いてくれました。その後、欧州の児童労働が横行し、これは行けないと思ったブルジョワ資本家や政治家が、憲法で「子供に教育を受けさせる義務がある」と唱ったんだよ、とこれまたユメタンに出てくる単語をたくさん使って、話をしました。子供達は眉をひそめ、時折頷きながら、食い入る様に聞いてくれました。

話が暗い方向に行ったので、笑顔に戻し、じゃあ、多読をしてみようね、と良い、書架のpaperbuckコーナーに連れて行き、好きな本を持って来させて読ませました。子供達、静かに食い入る様に英語の本を読んでくれました。

あっという間の50分でしたが、本当に充実したひと時でした。僕にとって、キャリア初の試みでしたが、こんなに充実したひと時が与えられていいのか、と思うほど、心は満たされ、子供達の笑顔を持って授業を終えました。

これから暫く、図書館で授業をするが、どうだ、と子供達に問いますと、先生、やりたい!楽しかった!と笑顔で応えてくれました。歌はやれないけれど、良いか、と聞くと、良いよ、と笑顔で応えてくれました笑。

まだまだ荒削りで、思いつきをどんどん形にして行ってる段階ですが、今日の授業の手応えはすごかった。

今日の授業反省には、今後の課題として以下の事をしたためました。
☆生徒達に,英語のセンテンスのquick responseの練習をさせ、Q&Aに慣れさせ、どんどん英語で言える様なトレーニングを帯活動で行なうこと。

☆英語で言う際のヒントや、アドバイスをさりげなく英語で行ない、生徒達に英語で話す時に必要な事に気付かせること。

☆図書館で多読活動をせっかくやるのだから、授業後の休み時間に、図書館に置いてある日本語の本にもどんどん目を向けてもらうよう、英語で啓蒙しつづけること。

☆図書館で授業を行う事により、日本語の古典、漢文、論説文、新しいものの紹介本、美術書、百科事典などを英語で紹介でき、どんどん生徒が読んで行くような流れも作れる可能性が秘められていること。

☆他の先生方も図書館を利用した授業が行えるよう、研究授業を図書館で行なうこと。

☆黒板がないため、板書ができない。そこで、板書する内容を極力プリントに納め、その他の情報に関しては水性マーカーとスケッチブックを持って行き、その場で書いて生徒に提示すると良いこと。

☆セッションが楽しい遊びに終わらないよう、それに向けた準備や課題に積極的に取組むように促すこと。その際、課題は、生徒がやってみたくなるような題材をきちんと吟味すること。

☆英語で何かを訴えても、生徒にはきちんと伝わる事が分かったので、長文読解をさせる際、あらかじめ分かっているKey Topicについてのセッションを読解の前に持ち、その後、問題を解かせる、という流れの方が、生徒達の食いつきが違う、ということ。

☆答えを教えてあげる時と、気付かせるとき、友達と発見し合う時が授業中にspontaneousに起こることが最も効果的である、ということ。

いや、ほんとに生徒達に毎日元気をもらっています。素晴らしい時間を過ごす事ができました。単発で終わらない様にきちんと継続した活動にし、記録を残して行きたいと思います。

これを読んでくださっている全国の先生方にも、明日から始められる様にひな形のようなものを提示出来れば、と思っています。

ブログで紹介しますので、おお!と思って頂ければ、是非トライされてみてください^^

僕もやる前までは、正直、ビビってました笑。

ではまた^^

2015年4月23日木曜日

教室で紡ぐ詩

生徒と毎回授業で英語の会話を楽しみながら、活動や授業に入っています。新しい学期に入り、新しい学年に入ってから、心機一転、新しい自分で臨もう、と、今までやってきた授業法を全て打ち捨て、毎日指導案を書き、授業の反省日誌をつけて日々を過ごしています。


そうすると、反省日誌のお陰で、自分のボロが色々と見えてくる。ここが拙い、ここができてない、ここはダメだ、ここはもっとこうした方が良いんじゃないか、とか。


ではそれを改善する為に、と考えたとき、こういうプリントを作った方が良いんじゃないか、とか、こういうやり方がいいんじゃないか、と思案して行くうちに、やり方に工夫をこらす様になり、仕事がどんどん増えて行きます笑。


本当、僕、どうしたんだろう笑。人が変わった様に仕事に打ち込んでいます笑。自分じゃないみたい笑。物凄く仕事をしています笑。誰から頼まれたわけでもないのに笑。


バカです、はい笑。


そんな毎日を過ごしています。今は昼休みに高校生にテニスの練習についてもらい、打ち合いをしながら40分くらいテニスの練習、放課後は中学生と一時間半くらいテニスの練習、レッスンのある火曜木曜はこれにプラスして80分ずつ、週に二回の筋トレも欠かさずやっています。


ラテン語の勉強は相変わらず笑。仕事が増えた分、古典漢文は少しサボり気味です笑。土日にしっかりやりましょう笑。


今日はそんな充実しまくった毎日の一こまをご紹介します。早朝授業のとあるクラスでのできごと。


毎回、英語で話を始めて、生徒達と会話を楽しむのですが、急いで教室に駆け込んで来た男子生徒の髪が乱れていました。


十督:What happened with your hair?
男子:Oh, Teacher, bicycle, wind, hair.
十督:Sentence, please.
男子:Oh, wind damaged my hair.
ここで、クラスで笑いが起こる。


そこで、僕はこの男の子が言った文章を板書しました。


Wind damaged my hair.
他の生徒はからかう気持ちからなのか、ニヤニヤしています。
次の瞬間、僕の茶目っ気が出てしまい、その文章に続けて、こんな文を付け足しました。


Wind damaged my hair.
My hair, up in the air.
Oh, God, give back my hair.
My eyes fly through the air.


「○○くんの文章にこんなのを付け足したら、ポエムになったね!これ、せっかくだから、音読してみようよ!」と持ちかけ、生徒達に立ってもらい、朝からこの即興詩をみんなで音読しました。


その場で思いついたわりに、ちゃんと脚韻を踏んでいたので、hair air のところにオレンジのチョークで線を引き、


「これね、韻を踏んでるでしょ?韻を踏んでる英語ってね、読んでて気持ちがいいんだよね。歌とかにもいっぱい出て来るの。流行ってる曲って、日本語でも英語でも韻を踏んでいるものが多いんだよね。もう一回読もうか?ね?○○くんのお陰で、楽しいね^^」とにっこり微笑んで、もう一度クラスでコーラスリーディング。


さっきまでニヤニヤしていた生徒の顔が、いつのまにかニコニコした顔に変わっていました。生徒達は言葉遊びの面白さに感じ入り、言葉って面白い!と感じて、ニヤニヤが、いつしかニコニコの笑顔に変わったんだと思います。


ここまで、わずか八分くらいの出来事でしたが、とても良い心持ちがしました。言葉で遊ぶって楽しいね、言葉ってきれいだね、言葉が表現出来る可能性って無限なんだよね、ってそんな気持ちを生徒達と共有出来て、幸せな気持ちになれました。


教室に入り、生徒達と過ごすひと時を毎日与えられています。僕ら教師にとってみれば、その時間は週に何時間もある中の一こまかも知れないけれど、子供達にとってみれば、その一コマは人生の中の青春の一ページなんだな、と思うと、今日の出来事は僕にとって、仕事であって仕事でない、僕の人生にもとても意味のあるひと時になったな、と心が春で満たされました。


子供達にとって、授業が人生の想い出に残るひと時であって欲しい、と願いながら今日の出来事を振り返り、明日からの授業も生徒と一緒に、素敵な人生の一ページにしたい、と夢と希望で心が溢れました。


子供達と一緒にいるのが、本当に好きです。
この仕事を神様に与えられ、感謝しています。

Semper gaudete. Sine intermissione orate. In omnibus gratias agite: hæc est enim voluntas Dei in Christo Iesu in omnibus vobis.

Rejoice always. Pray without ceasing. Give thanks in everything. For this is the will of God in Christ Jesus for all of you.

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」
新約聖書 テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節>





もっとも大いなるもの

単語の綴りを一生懸命練習するけれど、何度も、何度も間違える子がいる。 でも、授業中、何度もうなづきながら説明を聞き、話に耳を傾け、大きな声で歌を歌う。フォニックスの発音を、口を縦横いっぱいに開けて発音する。 oshienと単語テストに書いてきた。oc...