卒業生で浪人生活に入った子が、今日の夕方訪ねて来ました。何でも、基礎からやり直したいのだそうで、英語の易しめの問題集と小難しい文法用語が連なる分厚い参考書を持って、5文型が分からないから一から教えて欲しいとのご所望。職員会議が終わるまで職員室の前で舞ってくれていたので、彼のノートにメモを書き留めながら丁寧に教えました。
彼曰く、「先生の説明は分かるんです。でも、問題集で、次の文はどの文と同じか。用法が同じ文を記号で選びなさい、っていう問題でいつもつまづくんです。僕、どうすればいいか分からなくて。もっと参考書を細かく読み込んでから問題を解いた方が良いですか。」と質問を、眉間に皺を寄せながら、すっかり悩み果てた様子で僕に訴えるのです。
僕、彼を抱きしめたかった。ごめんね、こんな風に考える様になってしまったのは、僕ら大人のせいなんだよね、と胸が苦しくなりました。
文法事項を細かく教え込みすぎると、子供達は文法事項の細かい用語を知らないと英語がわかった事にならない、と思い込んでる。目的格補語と主格補語の違いは何か、とか、形容詞の叙述用法と限定用法の違いは、とか。枚挙に遑がない。
英語教師である僕がこんなことを言うのは身も蓋もないかも知れないですが、正直申し上げて、微に入り仔細に穿って文法事項を網羅した参考書を読み込んだ所で、英語が使いこなせる様にはならないと思うし、そんな必要はないのではないかと思っています。
文法というのは、その言語の筋道を理解するのに必要最低限で十分だし、実際日本語を使っている僕らだって、副助詞の用法がどうだ、とか、音便の違い、音節の切れ目などを、会話や読み書きの都度、一々思い返したりせず、間髪入れずに脳で判断して立派に使いこなしています。それで十分ではないでしょうか。
大学入試に英語が問われているのは、文法事項の蘊蓄を詳しく勉強して来なさい、という意図ではなく、英語で読み書き、会話、聞き取りが正確に行なえるか、という技能を問うているわけで、細かい文法事項は英語そのものを研究したり、生業にしている人がある程度知っていれば良い事柄だと思っています。
英語を生業にしない大多数の人にとって、微細な文法事項は語学習得の邪魔にしかなりません。たとえば用法にしたって、世の参考書に切り取られて載っている英文のコンテンツから考えて、これは不定詞の副詞的用法だ、としても、英文の使われる状況から判断すれば、形容詞的用法にも副詞的用法にも取れる英文だって存在します。そういう曖昧な含意を言葉は常に含んだ上で放たれているわけで、それを全て書物や学問の中に封じ込めてしまい、その中身を全て攫おうと試みるのは徒労以外のなにものでもないのではないでしょうか。
英語が苦手な子は、得意な子や先生達はその微細な文法事項を、まるで魔法使いの様に自在に操り、英文を理解できていると思い込んでいると思いますが、これは文法教育の弊害以外のなにものでもないと僕は考えています。教える方も教わる方も双方悪気はないんです。でも悲劇は後を絶たない。そういう思い込みに苦しんでいる子供達を楽にしてあげたい、僕は本気でそう思います。
最低限の文法事項と最低限の語彙を学んだら、どんどん英語に触れて、辞書も引かずに片っ端からどんどん読む、どんどん聞く、間違えてもいいからどんどん話す、どんどん書きながら友達同士で少しずつミスを修正して行く、という形を取る方が、英語を習得する一番の近道です。
沢山の英語に触れているうちに、文法理解が曖昧だと、それ以上先に進めないという壁に必ず突き当たるんです。その時に初めて、じゃあ参考書で調べてみましょう、という話でも遅くはないと僕は思う。
中高6年間である程度の文献まで読みこなせる英語力を身につける為に俯瞰的に学習内容をカリキュラムに乗せると、どうしてもこの流れを逆行せざるを得なかった、という理屈は僕も重々理解しているつもりだし、明治以降の翻訳文化を鑑みて、この方式で英語を習得して来た国民としては、オイソレとその学習メソッドを放り出す事も間々ならないことも承知しているつもりです。
でも、そのお陰で、英語ができない子供達や、できないとは言わないまでも、英語が好きではない子供達の、英語に親しみ、英語を学ぶ事により異文化との違いや、新しい価値観を学ぶチャンスを、そのことの所為で削いでいる気がして、眉毛ぴくぴく、唇ワナワナ、憤懣遣る方ないのです。
卑近な例で申し訳ないですが、僕はラテン語をやっている時に、学習メソッドとして、訳読解釈法で学習を進めています。ガリア戦記と新約聖書を毎日やっているんですけど、これは原文をノートに写し、三行開けて、三行目には訳本に載っている和訳を書き出し(聖書は羅英聖書を用いているから英文で訳を書いているますけど)、一語一語の意味を辞書で調べ、丁寧に意味を青ペンで書き込み、その語の活用を書いて、次に進む、という遅遅としたやり方をとっています。
ラテン語の音声教材は世にほとんど流通していないし、聞き取りなんて今の僕の文法理解や語彙力だととてもじゃないけれどできない。そこで僕は取り敢えず多くのラテン語に触れながら、その都度単語と活用を何度も反復して憶えつつ、過去にやったノートの頁を読み返し、また前に進む、という方式をとっているんです。止むを得ず、というか、ね。
そのうち、埒があかなくなって来て、ああ、これはそろそろ文法を丁寧に攫った方がいいな、という態に落ち着いて、今日からラテン語基礎文法という本を勉強し始めたんです。そうすると、今まで闇雲に触れていたラテン語の用法や活用がじんわりと身体にしみ込んで行くんです。なるほど、一昨日出て来たあの単語はこういう用法のこの格のことだったんだ、とか、語順に関する事を学んで動詞や名詞の活用をきちんと憶えないといつまでたっても意味が取れる様にはならないということなどを理解する事ができてくる。
それは畢竟、ある一定のラテン語に触れて来たからこそ納得が行く、という話で、いきなり文法書から勉強していたら、とてもじゃない、名詞や形容詞にまで活用変化がある言語なんて、勉強していられない、と直ぐに放り出していたに違いない、と僕は感じました。やはり、頓馬で非効率なように見えても、沢山のラテン語に触れながら、折に触れて、分からない事を調べ、その都度少しずつ文法事項を習得して行き、ある程度分かる様になって来てから、体系的に文法を学ぶ方が良いのではないか、と僕は考えました。
さて、さっきほどの生徒の話に戻る。僕はそんな確信を得ていたので、彼に分厚い参考書は一端本棚に戻して、簡単な文法問題集を繰り返し解き直す事、あとは実地訓練で、長文がいいなら長文をやりつつ、分からないところが出て来たらそれをノートに写して解釈して、意味も調べなさい、と伝えました。分かる内容は何度も音読したり、筆写した方が余程身に付きます。これは実際にやった人で無いと分からないことです。
海外在住経験や留学経験がある人ならいざ知らず、日本にいながらに英語を身につけようと思えば、その方法が一番遠回りなようでいて、一等効率の良いやり方なのです。先ずはたくさんの英文に触れる事、問題集や参考書の英語に毛嫌いの質があるなら、歌や映画で構わない。あるいは自分の好きなものをネットで調べ、Wikipediaの記事を読む事から初めても良いではないですか。なぜわざわざ自分の興味関心が死んでしまうような学習法を継続してまで我慢を続けなければいけないのでしょうか。悲しい事です。語学は楽しいもののはずなのに。
英語そのものにアレルギーや苦手意識を持っている人が、さらにそのアレルギー体質を助長するようなもので一生懸命に英語を分かろうとしている、こんなマゾヒスティックな学習法で何を身につけようとしているのか、僕にはさっぱり意味が分かりません。勧めようとも思わないし、こんな苦痛を伴う学習法。
勉強は本来、楽しいものです。知らない事が分かる様になる事、世の中は広く、自分の知らない素敵なものに満ちあふれていることを知る事は、人として生まれ生きるものとして、無情の喜悦を感じずにはいられない心持ちのはずです。
勉強が嫌いになる方法を生徒に紹介したくありませんし、苦しいけれど頑張る、と歯を食いしばる生徒の姿を見るくらいなら、先生、もう楽しくて、気がついたらぜんぜん寝てなくて、あー、もうどうしよう、勉強楽しい!ってなっているうれしそうな生徒の顔を見る方が僕は好きなのです。どんな先生でもそう思って教壇に立って居られるはずです。僕はそう思っています。
生徒達に勉強好きになって欲しい。勉強が楽しいということに気がついて欲しい。小学校の理科の時間に、先生が初めて川に連れて行ってくださった事、実験を初めてした事、国語の時間に題材を使って劇をしたり、発表をしたりしたこと、そのときの胸のときめきをもう一度思い出して欲しいんです。あの頃、本気で「楽しい!」「面白い!」という気持ちをどんな子供でも持っていたはずなんです。
小学校を卒業してからも、勉強そのものの楽しさは本来変わらないはずなのに、多くの子供は勉強の楽しさや学ぶ喜びを知らないまま大学生になったり、社会に出て行ったりしてしまう、そんな現状がもどかしくて仕方がないのです。取り敢えず試験に出る所だけを勉強して、最低限の努力で学習を終える、なんて、本当に悲しい事です。授業で聞いた先生方のお話の他にも、その教科の楽しさや面白さは沢山あるはずなのに、その楽しみに行き着く前に心を閉じてしまう子供達が当今の日本には多い気がします。
レバレッジ(てこ)を利かせて、効率よく学習し、最低限の努力で最大の効果を出す、という哲学が跋扈し始めておかしくなった気がします。勉強は最低限の努力などでするものではなく、本来、学習の第一の目的は「知らないことがわかる」ことなのではないか、と僕は思っているです。
「効率よく最低限の力で最大限の成果を上げる」のは金儲けの話であって、そんなことを勉強に持ち込んだら、勉強の醍醐味や学ぶ楽しさは全て削がれてしまう。僕はそのことが惜しいですし、子供達が学ぶ機会を自ら削ぐ様に、私たち大人が、あるいは社会風潮が後押しするべきではない、と思っているんです。
今年受け持ったクラスの子供達のアンケートを見ますと、英語が苦手と書いている子も結構いました。恐らく件の彼のような悩みを真面目に実直に抱えてる生徒もいると思いましたので、罪滅ぼしの念も込めてブログを書きました。
どこに打つけて良いやら分からない怒りに任せて書いたら、こんな長文になってしまいました。どうもすみません。
ではまた。
2015年4月10日金曜日
2015年4月9日木曜日
學自諸方指南始
今日、クラスの帰りの会で話した内容を、忘れないうちに、と学級だよりに封じ込めました笑。話した内容ってある程度は心に刺さると思うんですけれど、書面で視覚的に見て留めるという方法を用いると、記憶に訴える確率が随分と高まるんです。押し売りですけど、明日生徒達に読んでもらえたらな、と思って書きました。
明日はアンケートの内容を仔細に分析し、それに対する僕なりの分析と解決策について書きたいと思います。いやぁ、これ、週に一度ペースではなくなるな笑。とほほ。
『壮語(そうご)快談(かいだん)』
第三号 学級だより 発行:田中 十督2015/04/10金
第三号 学級だより 発行:田中 十督2015/04/10金
クラスで皆さんにお伝えしたことを、備忘録的にまとめてみました。今後の学習の指針なり、参考となれば幸いです。
加えて、皆さんのアンケートの結果を受けて、それに応答する形で加筆しておきます。
【毎日勉強をするコツ】
★1「教科切り替え法」で集中力の持続を図る
→やる気が続かないときは、やる教科を変えて、はい次、はい次、と言う風に、細かい集中持続時間を連続して作りながら、「集中力の持続」を鍛えていくと良い。最長で40分くらい続けられる様になってきたら、45分、50分と5分刻みで時間を延長していくと良い。
★2 苦手=接する時間が足りない+よく知らない
→苦手意識がある教科は、その教科に接する時間が少なすぎることと、内容がいまいち把握できていないことが一番の原因。接する時間を増やす、と言っても闇雲に問題集を解いたりしてもますます嫌いになったりはしないだろうか。まずはその教科の資料集、教科書の内容を目で見て、視覚的にその教科への関心を高めていくこと。用語集や問題演習はその教科に慣れ親しんだ後でないと成績が上がらない。また、興味のある項目をGoogleで調べ、画像や動画を中心にその教科への関心を高め、問題演習をしていくこと。ビジュアルでその教科を捉えると、あんなに無味乾燥に思えていた教科が、自分の目の前に色鮮やかに輝き出し、苦手意識よりも、好奇心が湧いてくる。教科に対する愛着や好奇心を取り戻して、学習へと繋げよう。
★3 英語が分からない
→高校一年生が使うような「簡単でやさしい英文法の問題集(総復習的なもの)」を書店で買い、それを2度ほど繰り返すとある程度の文法事項が飲み込めるようになる。
→単語の意味だけを先に覚える。綴りまでは後回し。取りあえずユメタン1の「動詞」と「名詞」だけをUnit1~Uni10まで完璧に覚えてしまう。
→意味が分からなくても良いから、自分の好きな漫画やアニメなどをGoogleで検索し、英語のページが出てきたら、その英文をプリントアウトして、片っ端から読んでいく。辞書は引かない。あらすじを読むのが一番良い。
→リスニングは聴きまくることしかないので、まずは耳が慣れることが先決。自分の好きな洋楽アーティストの曲を歌詞を見ながら何度も聞き、何故その音になっているのか、その歌手と同じ発音になるまで歌詞を見ながら歌って真似して練習する。自分の発音が良くなると、耳が音を弾かなくなるので、自然と英語の聞き取りが苦痛ではなくなる。英語の教材から始めると、無味乾燥で中々学習の持続がうまくいかない。
→英語が得意な人は、ネットやスマホのアプリでTEDと検索すれば、英語スピーチのページが出てくる。そこで字幕をみながら英語を聴く。1回目は字幕だけを追い、意味の把握をする。2回目以降は字幕を見ずに、分からなくても良いから英語そのものだけを聞き、何を言っているのか内容を把握するにとどめる。ここでも、辞書を引いたり一切しない。とにかく、聴いて意味把握、の流れを作ること。
★4 古典、漢文が苦手
→★2でも述べたが、古典漢文も、苦手、苦手と言う割には、かなりの人が作品に直に触れていない。古典や漢文は、とても面白く、奥が深い。というのも、日本語のルーツは古典漢文に全て起源があるからだ。古典漢文に慣れ親しみ、多く触れる機会を持てば、苦手意識は吹き飛ぶ。まずは図書館に行き、口語訳がきちんとついている古典や漢文の本を借りてきて、★3で紹介した英語学習法と同じく、辞書を引かずにどんどん読もう。古典や漢文の持つ文章のリズムに身体の感覚がぴたっと一致するまでは一定の時間が掛かる。これは英語でも同じこと。個人差はあるが、毎日接していて1ヶ月半くらい掛かるだろうか。量は多くなくて良いので、英語、古典、漢文は、必ず毎日接するようにしよう。辞書は引かない。訳を読んでから原文を音読する、の繰り返し。授業では先生方の言われる文法事項や作品の背景をしっかりと押さえていく。図書館で借りてくる古典や漢文の本は、現在授業で使用していない題材が望ましい。というのも、古典に慣れ親しむ作品は、授業のそれとは分けておかないと、身体慣らしの教材と力をつけていく教材は別個に考えないと、学習の両輪とはなり得ないからである。ここで紹介しているのはあくまでも自学の話。注意されたい。
★5 試験前しか勉強に集中できない。
→これはもう何とも言いようがないけれども、3日間必ず机につく練習をすれば、1週間続けられる。1週間続けられれば10日間、10日続けられれば2週間、2週続けば18日、18日続けば21日、アラ、3週間できるじゃん!ということになる。この頃になってくると、逆にサボった日の罪悪感や気持ち悪さを身体が訴えてくる。そこに持って行くまでは挫折しながらも兎に角毎日机に向かい続けるしかない。みんなが机に向かうのは苦痛じゃなく、習慣を作る為なのだから。
★6 運動のススメ(運動部にも、そうでない人にも)
→脳は身体を動かすと同時に活性化することが脳科学の本に書いてあります。眠くなったり、やる気が続かないときは、思い切って外を散歩することはお薦め。往復10分くらいのウォーキングで十分脳はリフレッシュします。勉強は生身の身体がしているので、生身の身体が貧弱だと、気力も根気も続きにくいのは当たり前。
また、運動部の子で眠たい子が大半だと思うけれど、難関大を突破した先輩の傾向として、①授業中に絶対寝ない、②課題、予習、復習は必ずして授業に出る、の2点だけを死守していた。家庭学習の時間確保は引退後でないと難しいとは思うけれど、授業を大切にするだけで結果に結びつく、は部活動生の受験黄金律である。心されたい。
(学習法の指南は次号に続く)
はい、ではまた^^
2015年4月7日火曜日
無理なく毎日勉強を続けるときの心構えについて^^
どこの学校でもいよいよ新学期が始まっていることと思います。どの教育機関に属する人々も、子ども達も先生達も、この時を心待ちにしていたと思います。
素敵な出会い、素敵な春を感じて、クラスに入って行きたいですよね。さて、どこのクラスでも友達と仲良くすること、協力すること、積極的に動くことなど、何でも良いのですが、先生方から薫陶を受けると思います。その中で、勉強について多くの事が話されると思いますので、先生方のお話を良く聞いて、先生方のおっしゃる事にしっかりと耳を傾けて欲しいと思っています。
僕は自分のクラスで明日、こんな話をしようと思い、今日、学級だよりを二枚書きました。皆さんのお役に立てるかどうかは分かりませんが、今日のブログはその採録に加筆を施したものです。これから一年間の皆さんの勉強のお役に立てれば幸いです。
まさか、明日から僕のクラスの生徒になる諸君は、このブログを読んではいないと思いますので、安心して掲載します笑。もし読んじゃった場合は、予習だと思って読んでみてくださいね^^
↓以下、学級だより「壮語快談(学級だよりの名前です)」
★「無理なく継続して勉強する」為に必要なこと
この2つが言うことを聞かない。そうすると、観念は情念や欲求に負けてしまい、負けてしまったことを責めてしまい、自己嫌悪に陥って、ますます自分を責めてやらなくなってしまうのです。
僕は2年4ヶ月筋トレを続けています。またテニスは11ヶ月続いてます。続けてきた経験則で話をさせていただくと、僕は筋トレに行きたくない日は思い切って休んでいますし、テニスも気が乗らない時はレッスンを振り替えてもらっています。また、その時も決して自分を責めたりせず、今日はゆっくりして、また次回に頑張ろう、と自分を甘やかすことを躊躇しませんでした。
毎日無理なく勉強を続けることができるように、一日の配分を「もう少しやりたいんだけどな」という範囲にとどめ、まずは4,5月に「毎日必ず勉強をする」という習慣を身につけることに意識を集中させましょう。
ノート1ページ、単語5個、数学の問題1題でも良いではありませんか。自分を責め、叱るのはやめましょう。
★好きこそ物の上手なれ”What
you like, you’ll
do the best.”
僕は誰から頼まれもしないのに、今年3月1日から、古典、漢文、英文、ラテン語をノートに筆写し、辞書を引いて解釈し、という行為を毎朝、毎晩やっています。これらは勉強ではなく、純然たる趣味です。なんでそんなことをやっているか、自分でも分かりません。褒められも評価されもしない。それをやったからといってご褒美にお休みが貰えたり、お給料が上がったりするわけでもない。何にもならない。全くの役立たず。だけど、毎日、やりたくて、やりたくてたまらない。ラテン語の勉強をしている時、芭蕉の文章を筆写しているとき、世阿弥の言葉を読んで音読しながらノートに書き写す時間、論語の節を白文で書き、書き下し文を書き出して、音読するとき、たまらなく胸がときめくのです。誰にも邪魔されたくない。僕らの邪魔をしないで欲しい、という、恋の桃色に似た心持ちで毎日楽しくやっています。
ですから、まずはこの4月、5月で、勉強するという行為そのものが心地よく感じられるリズムを整える必要があります。
闇雲に根性論や気合い論、あるいは合理的な仕組み作りだけで、受験勉強を捉えて指導していた時代が、僕は恥ずかしく思えます。私たちの脳の仕組み、生身の身体感覚をきちんと理解して、学習を制度設計すること、この2点が「無理なく楽しく勉強を継続する唯一の方法」なのです。どうか自分を可愛がって下さい。もっと甘やかして下さい。自分はかわいい人。自分を可愛がって、労り、大切に思って欲しい、と僕は思っています。無理なく続けられる毎日の勉強スタイルを、自分なりに作って欲しいと思っています。「好きなときに、好きなことを、好きなだけする」をテーマにやってください。まずは苦手な事とか、嫌な科目は脇に置いて、自分が好きな科目、好きな単元から夢中になってやってみてください。」
ここまでが学級だよりです。できるだけ毎週学級だよりを出して、生徒達を励まして行きたいと思っていますが、今年はブログも始めたので、週に二度も三度も発行するかも知れません。ごめんなさいね、生徒達笑。
生徒達に力強く心やさしい大きな人になって欲しいと本気で思っているんです。ですから、僕はやりたいですし、やります^^ では、また^^
素敵な出会い、素敵な春を感じて、クラスに入って行きたいですよね。さて、どこのクラスでも友達と仲良くすること、協力すること、積極的に動くことなど、何でも良いのですが、先生方から薫陶を受けると思います。その中で、勉強について多くの事が話されると思いますので、先生方のお話を良く聞いて、先生方のおっしゃる事にしっかりと耳を傾けて欲しいと思っています。
僕は自分のクラスで明日、こんな話をしようと思い、今日、学級だよりを二枚書きました。皆さんのお役に立てるかどうかは分かりませんが、今日のブログはその採録に加筆を施したものです。これから一年間の皆さんの勉強のお役に立てれば幸いです。
まさか、明日から僕のクラスの生徒になる諸君は、このブログを読んではいないと思いますので、安心して掲載します笑。もし読んじゃった場合は、予習だと思って読んでみてくださいね^^
↓以下、学級だより「壮語快談(学級だよりの名前です)」
【受験生を教える】
「去年は理系の担任をしていました。今回で高三の担任は3回目ということになります。クラスのみならず、他クラス、他学年を含め、たくさんの受験生を見てきました。その時に得た経験や知識で1番大事なことは、「無理なく毎日続けること」と「サボってしまったときに自分を責めてはいけないこと」の2つです。★「無理なく継続して勉強する」為に必要なこと
私たちは生身の身体で生きています。ですが、頭を使って効率よく生活していこうとするあまり、色々な計算にそのことを勘定することを忘れてしまいます。これが失敗の元です。
生身の身体は衣食住をしなければなりません。勉強は知的生産行為ですから、その次に来ることになります。ものの成功本とか、勉強法の本には様々なメソッドが紹介されていますが、それらはしばし、生身の身体を持つ人間を無視し、理論先行で書かれているように僕には思えます。
人間は弱い生き物です。頭では分かっていることを観念と言いますが、観念は常に私たちに命令をし、これをすべきだ、あれをしろと言って僕らを小突き回します。ところが人間は観念と同時に「欲求と情念」に動かされもいます。
この2つが言うことを聞かない。そうすると、観念は情念や欲求に負けてしまい、負けてしまったことを責めてしまい、自己嫌悪に陥って、ますます自分を責めてやらなくなってしまうのです。
「やる気が出ない」と人が嘆くことの構造はこういう風になっている、と僕は理解しています。
例えば、卑近な例で見ますと、理想に燃えたってダイエットや肉体改造を高らかに宣言する人を見ますが、それらで成功例を見ることができるのは、ごく僅かです。
その仕組みが分からないために、私たちは屡々、「あの人は意志が強かったから」とか、「運が良かったから」とかいう、論も証拠もない結論づけをし、自分がやる気がないことを自己正当化しようとします。
僕は2年4ヶ月筋トレを続けています。またテニスは11ヶ月続いてます。続けてきた経験則で話をさせていただくと、僕は筋トレに行きたくない日は思い切って休んでいますし、テニスも気が乗らない時はレッスンを振り替えてもらっています。また、その時も決して自分を責めたりせず、今日はゆっくりして、また次回に頑張ろう、と自分を甘やかすことを躊躇しませんでした。
その結果、次回の練習やトレーニングの際、やりたい!という気持ちがふつふつとわき起こって、どんどんトレーニングがやれるようになったのです。
その際注意したのは、「張り切りすぎないで、できる範囲で汗をかく程度にしておこう」という気持ちです。無理をしてしまうと、次回にやる気が出ないことを身体と頭がきちんと理解できていたからです。
まとめます。皆さん、勉強は少しずつで構いません。大きな目標や計画を立てたところで、その通りにならないことは皆さんもよく分かっているはずです。
毎日無理なく勉強を続けることができるように、一日の配分を「もう少しやりたいんだけどな」という範囲にとどめ、まずは4,5月に「毎日必ず勉強をする」という習慣を身につけることに意識を集中させましょう。
ノート1ページ、単語5個、数学の問題1題でも良いではありませんか。自分を責め、叱るのはやめましょう。
ここまで読むと、自分を甘やかしても良いのか、という疑問が湧いてくるかも知れませんね。では、その疑問に次の項で応えましょう。
僕は誰から頼まれもしないのに、今年3月1日から、古典、漢文、英文、ラテン語をノートに筆写し、辞書を引いて解釈し、という行為を毎朝、毎晩やっています。これらは勉強ではなく、純然たる趣味です。なんでそんなことをやっているか、自分でも分かりません。褒められも評価されもしない。それをやったからといってご褒美にお休みが貰えたり、お給料が上がったりするわけでもない。何にもならない。全くの役立たず。だけど、毎日、やりたくて、やりたくてたまらない。ラテン語の勉強をしている時、芭蕉の文章を筆写しているとき、世阿弥の言葉を読んで音読しながらノートに書き写す時間、論語の節を白文で書き、書き下し文を書き出して、音読するとき、たまらなく胸がときめくのです。誰にも邪魔されたくない。僕らの邪魔をしないで欲しい、という、恋の桃色に似た心持ちで毎日楽しくやっています。
何故勉強が続いているかを冷静に考えるとそれは簡単で、「好きだから」です。それ以上でも以下でもない。好きになることに理由はありませんよね?好きだから好き、それ以上のことは分からないけど夢中になる、そういうものって、誰から言われなくても長続きするんです。
僕は中高生を教えていて、何故子どもは勉強しないのか、ということをよく考えますが、上記の実体験と照らし合わせてみて今思うのは、「子ども達は勉強が面白いことを知らないのではないか。ということです。何らかの理由で途中で嫌いになってる。これは大人としても耳の痛い話でして、本当に反省すべき事です。
僕ら大人は、子どもの学力を高めようと熱り立つことはあっても、子どもが勉強を好きになることを脇に置き過ぎているのではないか、と自分が勉強をしていてつくづく反省することがあります。いや、本当に。申し訳ありません。
今みなさんが教わっていることは全ての基礎教養の土台みたいな項目ばかりですから、楽しくないと思うのは事実です。僕もそうでしたもん。
でも、勉強ってすげー楽しい!って思うようになるためには、ある一定の時間、我慢をして、基礎基本を徹底して身体に入れないといけません。
その作業を差し引いていては、残念ながら楽しさがやってこないのです。
ある程度我慢をして勉強を続けていると、個人差はありますが、リズムができてきて、勉強をするという行為そのものが心地よく感じられることがあります。
その状態に突入して、初めて、この教科が好きとか、この単元って面白そうという知的好奇心は起動するわけで、勉強のリズムに心地よさを感じないのに、勉強や教科のことを好きになったりはしません。
ですから、まずはこの4月、5月で、勉強するという行為そのものが心地よく感じられるリズムを整える必要があります。
脳は「快」な気持ちになることを続けたいと願うように構造化されているそうです。これは何も僕が行ったわけではない、脳科学者の池谷裕二さんや、茂木健一郎さんの本を読めば良く分かります。麻薬で捕まった人が何度も再逮捕されるニュース、聴いたことありますよね?あれって、脳が「気持ちいい!」という気持ちを覚えているから、何度でも繰り返してしまうんだそうです。あ、やっちゃダメだよ?絶対ね?
話を勉強に戻しますと、勉強のことを脳が「嫌い!」って思っていると、自然とやる気はでなくなります。ですから、勉強そのものが嫌いであったり、不快であるうちは、学習活動がなかなか思うように運びません。
脳に言い聞かせるように、まずは好きな教科から勉強しましょう。何時間やっても構いません。好きな教科の好きな項目から、徹底的に勉強しましょう。そして、脳に、「ほら、勉強って楽しいんだよ。」と語りかけるつもりで勉強して欲しいんです。
脳が勉強することを気持ちが良いことだ、と認識してくれさえすれば、好きではない教科を勉強するときに、気持ちのハードルがぐんと下がります。
闇雲に根性論や気合い論、あるいは合理的な仕組み作りだけで、受験勉強を捉えて指導していた時代が、僕は恥ずかしく思えます。私たちの脳の仕組み、生身の身体感覚をきちんと理解して、学習を制度設計すること、この2点が「無理なく楽しく勉強を継続する唯一の方法」なのです。どうか自分を可愛がって下さい。もっと甘やかして下さい。自分はかわいい人。自分を可愛がって、労り、大切に思って欲しい、と僕は思っています。無理なく続けられる毎日の勉強スタイルを、自分なりに作って欲しいと思っています。「好きなときに、好きなことを、好きなだけする」をテーマにやってください。まずは苦手な事とか、嫌な科目は脇に置いて、自分が好きな科目、好きな単元から夢中になってやってみてください。」
ここまでが学級だよりです。できるだけ毎週学級だよりを出して、生徒達を励まして行きたいと思っていますが、今年はブログも始めたので、週に二度も三度も発行するかも知れません。ごめんなさいね、生徒達笑。
生徒達に力強く心やさしい大きな人になって欲しいと本気で思っているんです。ですから、僕はやりたいですし、やります^^ では、また^^
2015年4月4日土曜日
新しい言葉の誕生を言祝ぐ
生徒に習った言葉で、「壁ドン」という言葉と「ガチ勢」という言葉あります。この言葉の由来を聞いて、僕は感嘆と感動を憶えました。
「壁ドン」というのは、壁、という普通名詞に、ドン、という音の擬態語が合成してできた新生名詞です。「ガチ勢」というのは、「真剣な輩」という意味でして、昔の言葉で表わしますと、「熱心党」、すなわちfanaticな姿勢であるものを追い続ける人の事を指して使う言葉です。
どちらもネットを通じて、誰が使い出したか分からない言葉です。若者を中心とする言語文化の中から新しい日本語が誕生していることは、言祝ぐべき事であって、これを妄りに「日本語の乱れは怪しからん。」などと言って切って捨てる事は短見だと僕は考えています。
大和飛鳥の古来より、若者の「乱れ・崩れ」の類いは古い「大人」によって嘆き悲しまれて居た訳ですし、何も今に始まったことではない、そういう新しい時代や文化が到来したことによる嘆き悲しみは古今ずっと継続的に発せられるボヤッキーなのです。
新しい感性で新しい言葉が生み出され、紡がれることを、僕は素晴らしい事だと思っています。それは人間が生きて活き活きと躍動している証拠に他ならないからです。身体に起こっている細胞分裂の連続の延長線上に、新語の誕生があるとすれば、これは本当に喜ばしい事であって、決して揶揄されたり、誹謗される類いの事ではありません。
たとえば僕の子ども時代を思い返しますと、「本気と書いてマジと読む」とか、「意味深発言:本来は意味深長という四字熟語」とか、「マジで:真面目に、の意味」とか、いう言葉が代表格で、そういう言葉を使うと、先生や親から、みっともないからそういう汚い言葉を使うな、と言われたことを憶えています。
「壁ドン」「顎グイ」の話に戻りますと、これは壁や顎という普通名詞に、擬態語である、ドン、グイ、という音がくっ付いて、抽象名詞を形成しているという高度な言語技術だと僕は思っています。壁ドン、というものや人が存在するのではなく、自分が行為を寄せる男性から壁際で腕を壁にどんといきなり押し当てられ、壁とその男性との間に自分が挟まれて、どうしよう、と胸や頬を仄かに紅く染める萌えシチュエーションを言い表した言葉なのです。
「ヤバい」という言葉を世間一般でよく使いますが、これは「厄場(やば)」という江戸時代の看守を指す名詞を囚人や罪人の間で使っていた事から、危ない状況のことをヤバいと言っていたのが、意味が転換し、危ない状況以外でも、胸が高揚したり、期待が高まったりする状態になり、自分の身の制御が付かなくなること=危ない=ヤバい、という良い意味に転じて使われているのでは、と考えられます。
壁ドンのご先祖様の言葉として僕が思い浮かべたのは、「ぬらりひょん」という妖怪の名前です。顔がぬらりとしている、という意味は、さしたる特長も無いどこにでも居る様なノッペリとした顔をしている様子を表わした言葉で、ひょん、というのは「ひょいと」という神出鬼没にひょっこり現れるものを言い表した言葉だと考えられます。表情にさして特長も無い様な顔のおじさんが突拍子も為しにひょっこり表れる、そんな妖怪がぬらりひょんなのです。僕がこの妖怪の名前を最初に知ったのは、水木しげる先生の「ゲゲゲの鬼太郎」の漫画の中で、子供心に、この名前の響きに心を奪われたのを憶えています。一体どんな妖怪なんだろう、って。見てみると、なんのことはない、強そうでも無い普通のひょろひょろしたおじいちゃんの様な妖怪で、子どもの頃、自民党の金丸信さんがしょっちゅうテレビに出ていましたので、その人のイメージと重ねて見えていました。一見すると何ら強さを持ち合わせていない様な人でも、裏では相当の悪党だ、という事が大人の世界にはあるんだな、と子供心に思い、人は見かけに寄らないよ、と曾祖母が煙管で煙草を喫みながら、僕に気怠そうに話していた事などを思い出します。
言葉が次々と生まれては消えて行くことは、人類にとって、とても好い事だと思っています。僕は若い人が使う言葉を聞くのがとても好きです。新しい言葉をどんどん歓迎したい。使っていて利便性や汎用性の高い言葉は歴史の審判に耐えうる力を持ち得ます。ですから、どんどん新しい造語や新語が出てくれば良い、と僕は思っています。
同時に、古い時代にあった美しい語彙も、積極的に使って行きたい。後世の残すべき言葉を、日常の文章や会話の中で、若い人たちと交換しながら楽しんで言葉に遊んで行きたいのです。
言葉尻を執る、なんていう言葉がありますが、言葉の尻だけではなく、足も腹も頭も執りたい。欲張りなんです、僕。いや、ほんとに笑。
オノマトペを使った日本語の名詞や造語に注目し続けたいと思っています。昔の言葉には身体に関する表現が沢山在りました。虫の居所が悪い、虫の知らせ、腑に落ちる、五臓六腑、八面六臂、鼻にかける、口が滑る、足が出る、挙げれば切りがありません。
言葉に良いも悪いもない。使う人がいれば残るし、いくら批判されようが、誹謗されようが、それが人の生活の中で佳しとされれば、必ず言葉は生き延びて行くんです。
古典を勉強する際に、現在使われている意味とは全く異なる意味で使われている語彙を見つけ、その語がいかようにして現在の意味に落ち着いたのか、という事に思いを馳せる事も、立派な古典学習のモチベーションなのではないでしょうか。
これ以上書くとお説教くさくなる気がしてきました笑。
ではまた^^
「壁ドン」というのは、壁、という普通名詞に、ドン、という音の擬態語が合成してできた新生名詞です。「ガチ勢」というのは、「真剣な輩」という意味でして、昔の言葉で表わしますと、「熱心党」、すなわちfanaticな姿勢であるものを追い続ける人の事を指して使う言葉です。
どちらもネットを通じて、誰が使い出したか分からない言葉です。若者を中心とする言語文化の中から新しい日本語が誕生していることは、言祝ぐべき事であって、これを妄りに「日本語の乱れは怪しからん。」などと言って切って捨てる事は短見だと僕は考えています。
大和飛鳥の古来より、若者の「乱れ・崩れ」の類いは古い「大人」によって嘆き悲しまれて居た訳ですし、何も今に始まったことではない、そういう新しい時代や文化が到来したことによる嘆き悲しみは古今ずっと継続的に発せられるボヤッキーなのです。
新しい感性で新しい言葉が生み出され、紡がれることを、僕は素晴らしい事だと思っています。それは人間が生きて活き活きと躍動している証拠に他ならないからです。身体に起こっている細胞分裂の連続の延長線上に、新語の誕生があるとすれば、これは本当に喜ばしい事であって、決して揶揄されたり、誹謗される類いの事ではありません。
たとえば僕の子ども時代を思い返しますと、「本気と書いてマジと読む」とか、「意味深発言:本来は意味深長という四字熟語」とか、「マジで:真面目に、の意味」とか、いう言葉が代表格で、そういう言葉を使うと、先生や親から、みっともないからそういう汚い言葉を使うな、と言われたことを憶えています。
「壁ドン」「顎グイ」の話に戻りますと、これは壁や顎という普通名詞に、擬態語である、ドン、グイ、という音がくっ付いて、抽象名詞を形成しているという高度な言語技術だと僕は思っています。壁ドン、というものや人が存在するのではなく、自分が行為を寄せる男性から壁際で腕を壁にどんといきなり押し当てられ、壁とその男性との間に自分が挟まれて、どうしよう、と胸や頬を仄かに紅く染める萌えシチュエーションを言い表した言葉なのです。
「ヤバい」という言葉を世間一般でよく使いますが、これは「厄場(やば)」という江戸時代の看守を指す名詞を囚人や罪人の間で使っていた事から、危ない状況のことをヤバいと言っていたのが、意味が転換し、危ない状況以外でも、胸が高揚したり、期待が高まったりする状態になり、自分の身の制御が付かなくなること=危ない=ヤバい、という良い意味に転じて使われているのでは、と考えられます。
壁ドンのご先祖様の言葉として僕が思い浮かべたのは、「ぬらりひょん」という妖怪の名前です。顔がぬらりとしている、という意味は、さしたる特長も無いどこにでも居る様なノッペリとした顔をしている様子を表わした言葉で、ひょん、というのは「ひょいと」という神出鬼没にひょっこり現れるものを言い表した言葉だと考えられます。表情にさして特長も無い様な顔のおじさんが突拍子も為しにひょっこり表れる、そんな妖怪がぬらりひょんなのです。僕がこの妖怪の名前を最初に知ったのは、水木しげる先生の「ゲゲゲの鬼太郎」の漫画の中で、子供心に、この名前の響きに心を奪われたのを憶えています。一体どんな妖怪なんだろう、って。見てみると、なんのことはない、強そうでも無い普通のひょろひょろしたおじいちゃんの様な妖怪で、子どもの頃、自民党の金丸信さんがしょっちゅうテレビに出ていましたので、その人のイメージと重ねて見えていました。一見すると何ら強さを持ち合わせていない様な人でも、裏では相当の悪党だ、という事が大人の世界にはあるんだな、と子供心に思い、人は見かけに寄らないよ、と曾祖母が煙管で煙草を喫みながら、僕に気怠そうに話していた事などを思い出します。
言葉が次々と生まれては消えて行くことは、人類にとって、とても好い事だと思っています。僕は若い人が使う言葉を聞くのがとても好きです。新しい言葉をどんどん歓迎したい。使っていて利便性や汎用性の高い言葉は歴史の審判に耐えうる力を持ち得ます。ですから、どんどん新しい造語や新語が出てくれば良い、と僕は思っています。
同時に、古い時代にあった美しい語彙も、積極的に使って行きたい。後世の残すべき言葉を、日常の文章や会話の中で、若い人たちと交換しながら楽しんで言葉に遊んで行きたいのです。
言葉尻を執る、なんていう言葉がありますが、言葉の尻だけではなく、足も腹も頭も執りたい。欲張りなんです、僕。いや、ほんとに笑。
オノマトペを使った日本語の名詞や造語に注目し続けたいと思っています。昔の言葉には身体に関する表現が沢山在りました。虫の居所が悪い、虫の知らせ、腑に落ちる、五臓六腑、八面六臂、鼻にかける、口が滑る、足が出る、挙げれば切りがありません。
言葉に良いも悪いもない。使う人がいれば残るし、いくら批判されようが、誹謗されようが、それが人の生活の中で佳しとされれば、必ず言葉は生き延びて行くんです。
古典を勉強する際に、現在使われている意味とは全く異なる意味で使われている語彙を見つけ、その語がいかようにして現在の意味に落ち着いたのか、という事に思いを馳せる事も、立派な古典学習のモチベーションなのではないでしょうか。
これ以上書くとお説教くさくなる気がしてきました笑。
ではまた^^
2015年4月3日金曜日
外国語を学ぶ、ということ。
「二外考」
ラテン語の勉強をしています。とても楽しんで第二外国語の勉強ができている事は喜ぶべき事です。恵まれていますね。感謝しています。
ラテン語は古典イタリア語と呼ぶべきなのでしょうけれど、これでは説明不足なんです。ラテン語は、イタリア語の古語であるばかりでなく、フランス語、スペイン語、ポルトガル語などのラテン系言語の租でもありますし、ブリテン島にローマ人が支配した時代もありましたので、英語への流入も数多く見られます。
たとえば、一例を挙げますと、英語の単語で、prohibit, accept, omnibus, principal, round, villa, port, important, consequence, rose, dominate, minister, liberty, misery,inter~の付く語, possess, possible, image, video, divide, institution, language, different, humanity, long, merchant, approximately, continue, cause, virtu, com~の付く語, finish, obtain, initiate, flow, flu, persecute, extreme, originate, orient, ocean, mountain, noble, persuade, civil, citizen, urban, polis, politics, total, などは全てラテン語の時代からある言葉が、使われる場所や国などにより、語形変化したり、音が変わったりして、今でも使われている、と言った具合です。
ラテン語の汎用性が如何に高かったか、ということは、今でもその語が使うに足るからこそ、各国の言語に残っている訳で、畢竟、ローマ帝国の文明の文化の高さがこれだけでも窺い知る事ができます。
テルマエロマエという映画で、阿部寛が、日本にタイムスリップして、日本人の生活ぶりをローマ人の上から目線で観察するシーンが幾度も出てきますが、阿部寛は高慢ちきこの上ない様子で、日本のお風呂やトイレに驚嘆し、ローマ人のプライドの高さから日本の現代の文明に感動する、というのは、強ちあの漫画、誇張され過ぎてるわけでもないんだろうな、と僕はぼんやりと考えました。
ローマ人達の暮らしぶりは、江戸の人々がその時代を謳歌し楽しんだがごとく、豊かで活況だったことでしょう。言語のみならず、食べ物、議論されていること、娯楽など、一般庶民が人生を謳歌するのに十二分なものは全てそろっていたと僕は想像しています。
ガリア戦記を読んでいますと、これは戦争のクロニクルみたいなもので、どこそこの国が強かった、とか、なになに人は他の国の種族と比べてここがすごい、みたいなことが、ローマ人の目線で書かれている。ローマは当時最強ですから、これは全て勝者目線。淡々と書かれたその文は、ブッキラボウな印象を初めに与えつつも、自分たちの歴史をきちんと書き残す、という自負心や尊厳がなければ、できないことです。つまり、強くて豊かだったのね、ローマって。
ラテン語は今は使われてはいません。死語です。実際に今ラテン語を使っている所はバチカンの神父さん達ですとか、大学で研究に用いたりですとか、そういう類いで、話されている言葉としては、もうその役目を終えています。ですから、これを勉強したって、何にもなりません。何にもならない、というのは、福沢諭吉先生の仰るところの「実学ではない」という意味の「何にもならない」です。これをやったからと言ったって、ラテン語でコミュニケーションができたり、ハンバーガーが買えたり、昨日テニスをしました、とかいうやり取りができる訳ではない。あるいは、ラテン語ができるとプレゼンができたり、ディスカッションができたりするのでもない。何の役にも立たない。
けれども、僕はラテン語をもう一度勉強したくてたまらなくなったんです。頼まれもしないのに。何故なのか、今毎日勉強していても、僕にもよくわかりません。でも、やってる。やっているときは、もう多幸感この上ない至福の時間で、誰にも邪魔されたくない、二人きりにして欲しい、と願いながら、うれしくてうれしくてたまらないのです。
始めたばかりのころは何やらさっぱり分からない。とにかく例文や文章をノートに筆写し、その和訳を書いて、一つ一つの語の解釈を書き、活用が出てくれば、その都度青ペンで書き込んで行く、というそういう作業の繰り返しです。また、新出語彙が出てくれば、その都度ノートに書き写し、練習をして、発音をする、というその連続です。高校生が英語で和訳をやらされたりするのと何等変わりはない。全く同じやり方で勉強をしています。
読書百遍意自ト通ズ、という言葉ではありませんが、初めは意味が全く分からなくても、毎日、毎日、ラテン語をしていると、ああ、もしかしてこれってこういう意味なんじゃないの、あ!ほら、やっぱり!という分かる瞬間がでてくる。そうすると楽しくなって来て、そういえば二日前に出て来てた、あの意味が分からなかった語って、この語の活用の変形なのか知らん、ああ、やっぱり!という風に過去に分からなかった事が繋がって行くんですね。そうすると楽しくなって来て、益々先に進みたくなる。
そういう形で今、毎日ガリア戦記と新約聖書をラテン語で読み、その解釈を読んでノートに書き写し、語句の意味や活用をノートに写し、音読をし、ラテン語に楽しんでいます。
ラテン語を勉強していると、今僕らが使っている言葉、それは則ち現代国語(日本語)ですし、現代英語とかなのですが、それとは違った発想や、考え方、慣習みたいなものに出会います。それは今のものとは異なっているんですが、その異なっていることと出会った時に、自分たちの今の世界との違いが際立ち、自分の今話している言葉や使っている慣習とは、こういうものだったんだね、という理解が深まるんです。外国語を勉強する意味って、なにもプレゼンができたり、交渉能力に長けたりするためなんじゃなく、自分の住んでいる世界や文化について、気付きを得るためなんじゃないか、と僕は思っています。
確かに英語でプレゼンできたり、交渉できたりすることは大事です。それも大事。でも、それが外国語を学ぶ第一義で、一等大切にせねばならぬことだ、と云うのは、僕は違うと思っているんです。
英語ができる人は世にゴマンといます。TOEICのスコアが満点だったり、英検一級をほぼ満点で取得したりしている人も沢山いると思う。でも、その人が英語ができることと、英語を学んだ事によってその人の人格や人生にどのような影響があったかは別の話だと思っています。それは、英語ができても教養がなければ、話すコンテンツを高める事ができないからです。知識や知恵は、それを使う際に裏打ちとなる教養の幅や高さがあって、初めて豊かに活かされるものです。ですから、外国語ができたり、大学のテストでいい成績で良い格好で単位取得できたとしても、それは体力測定のデータくらいの意味しかないんじゃないのかな、と僕は考えます。それだけでは不十分なんです。
頭の良いことや、成績が良い事を自分の誇りの第一義にしてしまうと、その人には学びが起動しなくなる。なぜなら、学ぶ、ということは「私には分からない事がある。だから私はそれが知りたい。先生、教えてください。」という自己発起だからです。成績が良いことや、頭が良い事は、暫し人の心を曇らせる事があります。自分が見えなくなる。だから、良い成績を修めたり、頭が良かったりすると、「俺は何でも知ってるぜ、お前らバカだな。」という構えになり、学びが起動しなくなるんです。だって、分かってる、って思ってるんですから、知る必要がない、という自覚ができてしまって、学べなくなってしまうんです。
人は「私には分からない事があるから知りたい」と子どもの様な気持ちを持ち続ければ、誰にでも豊かに学びは起動します。何度でも。これは僕が実体験を伴って身体で理解していることです。
これから大学に入学する皆さんには、是非学びを起動し続けて欲しいと思っています。勉強は金や地位や名誉の為にするのではありません。楽しくて仕方が無い、自分には分からない事があるからもっと知りたい!という子どもの様な気持ちを失わず、勇気を持って色々な事を勉強して欲しいと思っています。
学術文庫を沢山読んでください。文学作品や古典を嗜んでください。第二外国語をしっかりと勉強し、日本語との違いは何なのかを感じて欲しい。その言語が持つ特有の美しさに酔いしれて欲しいのです。
教養があれば、チャチなプレゼン能力育成や、ディベート力みたいなものも自ずと身に付きます。小手先のテクニックを徒に紹介する様な薄っぺらい本を読むくらいなら、弁証法やソクラテスの弁明を読んだ方が余程良い。自分とは何かを説明しなければいけないなら、空っぽの自分の中に、沢山の教養を詰め込む事がまず先です。教え子達にはこの事をどうか分かって欲しい。個性というのは、偉大なる模倣の連続の先にあるものです。自分の素の姿なぞ、空っぽで何にもない。その空っぽの箱の中に、私たちの先達が心血を注いだ英知を一つでも多く入れてください。
ああ、ラテン語が楽しい、っていう話をしようと思ったら、また脱線しましたね笑。ごめん、ごめん笑。
大学入学の時期ですね。楽しんで学びを深めてくださいね^^
ではまた^^
ラテン語の勉強をしています。とても楽しんで第二外国語の勉強ができている事は喜ぶべき事です。恵まれていますね。感謝しています。
ラテン語は古典イタリア語と呼ぶべきなのでしょうけれど、これでは説明不足なんです。ラテン語は、イタリア語の古語であるばかりでなく、フランス語、スペイン語、ポルトガル語などのラテン系言語の租でもありますし、ブリテン島にローマ人が支配した時代もありましたので、英語への流入も数多く見られます。
たとえば、一例を挙げますと、英語の単語で、prohibit, accept, omnibus, principal, round, villa, port, important, consequence, rose, dominate, minister, liberty, misery,inter~の付く語, possess, possible, image, video, divide, institution, language, different, humanity, long, merchant, approximately, continue, cause, virtu, com~の付く語, finish, obtain, initiate, flow, flu, persecute, extreme, originate, orient, ocean, mountain, noble, persuade, civil, citizen, urban, polis, politics, total, などは全てラテン語の時代からある言葉が、使われる場所や国などにより、語形変化したり、音が変わったりして、今でも使われている、と言った具合です。
ラテン語の汎用性が如何に高かったか、ということは、今でもその語が使うに足るからこそ、各国の言語に残っている訳で、畢竟、ローマ帝国の文明の文化の高さがこれだけでも窺い知る事ができます。
テルマエロマエという映画で、阿部寛が、日本にタイムスリップして、日本人の生活ぶりをローマ人の上から目線で観察するシーンが幾度も出てきますが、阿部寛は高慢ちきこの上ない様子で、日本のお風呂やトイレに驚嘆し、ローマ人のプライドの高さから日本の現代の文明に感動する、というのは、強ちあの漫画、誇張され過ぎてるわけでもないんだろうな、と僕はぼんやりと考えました。
ローマ人達の暮らしぶりは、江戸の人々がその時代を謳歌し楽しんだがごとく、豊かで活況だったことでしょう。言語のみならず、食べ物、議論されていること、娯楽など、一般庶民が人生を謳歌するのに十二分なものは全てそろっていたと僕は想像しています。
ガリア戦記を読んでいますと、これは戦争のクロニクルみたいなもので、どこそこの国が強かった、とか、なになに人は他の国の種族と比べてここがすごい、みたいなことが、ローマ人の目線で書かれている。ローマは当時最強ですから、これは全て勝者目線。淡々と書かれたその文は、ブッキラボウな印象を初めに与えつつも、自分たちの歴史をきちんと書き残す、という自負心や尊厳がなければ、できないことです。つまり、強くて豊かだったのね、ローマって。
ラテン語は今は使われてはいません。死語です。実際に今ラテン語を使っている所はバチカンの神父さん達ですとか、大学で研究に用いたりですとか、そういう類いで、話されている言葉としては、もうその役目を終えています。ですから、これを勉強したって、何にもなりません。何にもならない、というのは、福沢諭吉先生の仰るところの「実学ではない」という意味の「何にもならない」です。これをやったからと言ったって、ラテン語でコミュニケーションができたり、ハンバーガーが買えたり、昨日テニスをしました、とかいうやり取りができる訳ではない。あるいは、ラテン語ができるとプレゼンができたり、ディスカッションができたりするのでもない。何の役にも立たない。
けれども、僕はラテン語をもう一度勉強したくてたまらなくなったんです。頼まれもしないのに。何故なのか、今毎日勉強していても、僕にもよくわかりません。でも、やってる。やっているときは、もう多幸感この上ない至福の時間で、誰にも邪魔されたくない、二人きりにして欲しい、と願いながら、うれしくてうれしくてたまらないのです。
始めたばかりのころは何やらさっぱり分からない。とにかく例文や文章をノートに筆写し、その和訳を書いて、一つ一つの語の解釈を書き、活用が出てくれば、その都度青ペンで書き込んで行く、というそういう作業の繰り返しです。また、新出語彙が出てくれば、その都度ノートに書き写し、練習をして、発音をする、というその連続です。高校生が英語で和訳をやらされたりするのと何等変わりはない。全く同じやり方で勉強をしています。
読書百遍意自ト通ズ、という言葉ではありませんが、初めは意味が全く分からなくても、毎日、毎日、ラテン語をしていると、ああ、もしかしてこれってこういう意味なんじゃないの、あ!ほら、やっぱり!という分かる瞬間がでてくる。そうすると楽しくなって来て、そういえば二日前に出て来てた、あの意味が分からなかった語って、この語の活用の変形なのか知らん、ああ、やっぱり!という風に過去に分からなかった事が繋がって行くんですね。そうすると楽しくなって来て、益々先に進みたくなる。
そういう形で今、毎日ガリア戦記と新約聖書をラテン語で読み、その解釈を読んでノートに書き写し、語句の意味や活用をノートに写し、音読をし、ラテン語に楽しんでいます。
ラテン語を勉強していると、今僕らが使っている言葉、それは則ち現代国語(日本語)ですし、現代英語とかなのですが、それとは違った発想や、考え方、慣習みたいなものに出会います。それは今のものとは異なっているんですが、その異なっていることと出会った時に、自分たちの今の世界との違いが際立ち、自分の今話している言葉や使っている慣習とは、こういうものだったんだね、という理解が深まるんです。外国語を勉強する意味って、なにもプレゼンができたり、交渉能力に長けたりするためなんじゃなく、自分の住んでいる世界や文化について、気付きを得るためなんじゃないか、と僕は思っています。
確かに英語でプレゼンできたり、交渉できたりすることは大事です。それも大事。でも、それが外国語を学ぶ第一義で、一等大切にせねばならぬことだ、と云うのは、僕は違うと思っているんです。
英語ができる人は世にゴマンといます。TOEICのスコアが満点だったり、英検一級をほぼ満点で取得したりしている人も沢山いると思う。でも、その人が英語ができることと、英語を学んだ事によってその人の人格や人生にどのような影響があったかは別の話だと思っています。それは、英語ができても教養がなければ、話すコンテンツを高める事ができないからです。知識や知恵は、それを使う際に裏打ちとなる教養の幅や高さがあって、初めて豊かに活かされるものです。ですから、外国語ができたり、大学のテストでいい成績で良い格好で単位取得できたとしても、それは体力測定のデータくらいの意味しかないんじゃないのかな、と僕は考えます。それだけでは不十分なんです。
頭の良いことや、成績が良い事を自分の誇りの第一義にしてしまうと、その人には学びが起動しなくなる。なぜなら、学ぶ、ということは「私には分からない事がある。だから私はそれが知りたい。先生、教えてください。」という自己発起だからです。成績が良いことや、頭が良い事は、暫し人の心を曇らせる事があります。自分が見えなくなる。だから、良い成績を修めたり、頭が良かったりすると、「俺は何でも知ってるぜ、お前らバカだな。」という構えになり、学びが起動しなくなるんです。だって、分かってる、って思ってるんですから、知る必要がない、という自覚ができてしまって、学べなくなってしまうんです。
人は「私には分からない事があるから知りたい」と子どもの様な気持ちを持ち続ければ、誰にでも豊かに学びは起動します。何度でも。これは僕が実体験を伴って身体で理解していることです。
これから大学に入学する皆さんには、是非学びを起動し続けて欲しいと思っています。勉強は金や地位や名誉の為にするのではありません。楽しくて仕方が無い、自分には分からない事があるからもっと知りたい!という子どもの様な気持ちを失わず、勇気を持って色々な事を勉強して欲しいと思っています。
学術文庫を沢山読んでください。文学作品や古典を嗜んでください。第二外国語をしっかりと勉強し、日本語との違いは何なのかを感じて欲しい。その言語が持つ特有の美しさに酔いしれて欲しいのです。
教養があれば、チャチなプレゼン能力育成や、ディベート力みたいなものも自ずと身に付きます。小手先のテクニックを徒に紹介する様な薄っぺらい本を読むくらいなら、弁証法やソクラテスの弁明を読んだ方が余程良い。自分とは何かを説明しなければいけないなら、空っぽの自分の中に、沢山の教養を詰め込む事がまず先です。教え子達にはこの事をどうか分かって欲しい。個性というのは、偉大なる模倣の連続の先にあるものです。自分の素の姿なぞ、空っぽで何にもない。その空っぽの箱の中に、私たちの先達が心血を注いだ英知を一つでも多く入れてください。
ああ、ラテン語が楽しい、っていう話をしようと思ったら、また脱線しましたね笑。ごめん、ごめん笑。
大学入学の時期ですね。楽しんで学びを深めてくださいね^^
ではまた^^
2015年4月2日木曜日
文が長くてすみません。
初めに、すみません。
長い文章です。うんざりするかも知れません。
長くてすみません。
さて、先日教え子から心温まるお葉書を頂戴しました。本当に嬉しく思いました。手書きで、米粒大の日本語が葉書にびっしりと書き込まれて居り、手紙を呉れた人の深い愛情が伝わってくる、真心の籠った手紙でした。こんなお手紙、もう随分と戴いていませんでしたので、とても嬉しかったです。
手紙の中で、教え子がこのブログを読んで呉れている事を知りました。このブログは実際に誰が読んでいるのか、10年間もやっているのに僕には分かりません笑。ここ数日登場している西山君は、僕のブログを読んでくれている事を、こちらが照れるくらい繰り返し、繰り返し伝えてくれます。そして、それが社交辞令ではないと感じる様な、たとえばあの記事はこうだったとか、あの時にこんなことを書いて居られましたよね、とか、実際に読んでいる人じゃないと絶対に分からない様な、かつ、書いた本人すら忘れ去ってしまっている内容のことシカジカを、事細かに伝えてくれたりするんです。
こういうの、すごくうれしいですよね^^
昨日戴いた手紙にも、上の西山君の例のように、他者の目から見た自分の過去が綴られていました。それはまぎれもなく、自分が生きていたあの時間に、その人も時同じくしてその場に在り、また同じ空気や気持ちを多少成りとも共有していた事実が明らかになることに他なりません。
他者が共有してくれていた過去の自分の時間を、他者という鏡を通して現在の私が見るとき、自分が生きてきた軌跡を確認する事ができます。自分は今生きているけれども、今果たして自分の存在はなんなのだろう、自分は何の為に生きているんだろう、これから自分はどこに行くんだろう、ということを、人は普段意識はしませんが、有意識無意識に関わらず、ゲームは進行して行きます。ゲームオーバーが来るまで、人はそのルールが分からないまま一生を終えて行きます。死んでもこのゲームのルールも何が正しいのかも、そもそもなんでこのゲームに参加しているのかすら、分からないまま生涯を終える。誰にも分からない。
神様に祈っても、答えを出してくれる訳で為し、なんとはなしに、ああ、こんな感じなのかな、という微かな光と希望を持って生きてる、それが生きているってことなのかな、と僕は思っています。
他者から差し出された自分の過去が、この朧げに不安をやり過ごす毎瞬間の連続に、仄かに一筋の希望を与えます。ああ、生きてて良かったね、ってこういう時に思う安堵の気持ちなのではないかと僕は思うんです。
ガリア戦記の中には、金や地位が在る程度有り、血統が高いとされている男が、謀略を企てる話が出てきます。ラテン語でそれを読んでいると、自負心と高貴のプライドに満ちていますが、儚くその野望が潰える。
また、ソロモン王が書いた「コヘレトの言葉(旧約聖書)」にも、「伝道の書(旧約聖書)」にもそんな話がゴマンと出てきます。切りがない。
謀略を企てる人の一生も、自分の人生も同じです。ルールも同じ。置かれている境遇や時間が違うだけで、全く一緒。理由が分からないまま生まれて来て、既にゲームに参加している人から見よう見まねでルールを学び、新しく参加するプレーヤーにルールを教え、ルールやゲームのコンテンツの意味がわからないまま、ゲームオーバーになる、それが人生なのではないでしょうか。
ゲームのルールは朧げにしか分からない。だけども次から次にゲームに参加してくるプレーヤーは後から後から湧いてくる。人の一生はこんな歴史の連続性の中に位置づけられている、と僕は考えています。
その中で、自分が教わった事を次のプレーヤーに教える事、そしてゲームオーバーになるまでそれを繰り返す事、それが「教育」なのでしょうし、「教え育てること」なのではないか、と僕は思っています。
教えることの意味や学ぶ事の意味は、正直良く分かりません。理由はわからないけれども、そうしなければならないし、せざるを得ない。そういう風に身体に基礎付けられている。これに抗おうと思っても容易ならざらんことです。そんなことはできない。だって人間はそうやって歴史を継ぎ足して今に至っているんですから。
ゲームをする時に、できるだけ極楽環境でプレーをしたい。その為には他のプレーヤーが邪魔者であってはいけませんし、他のプレーヤーが仲間でなければ行けません。そうしないと、快適にプレーを続ける事ができないですもの。
その為に、大人は子どもに教え育てる。それが教育の本質、親の躾、大人から子どもへの贈り物なのではないか、と僕は考えています。
人間は社会を形成しなければ生きて行けません。これは社会的に実験が行なわれ、歴史が証明している所です。ロシアのミハイルバクーニンによって唱えられた無政府主義も、ついぞ社会においてその態を為す事は在りませんでした。
無秩序、無政府、無態勢では人間は生きる事ができないのです。俺は群れるの嫌いだからさ、って言ってる人だって、絶対に独りでは生きて行く事ができない。無人島で生活する人は、色々なことを考えたりすると思うんですけれど、独りで群れずに生きて行くんだから、何も考えずに楽しく生きて行けば良いと思うんです。でも、そんなことは絶対に起こらない。無人島にいる独り身だって、過去を振り返ったり、今後どうなるんだろう、という考えが頭を過るはずだから。それは果たして誰に対して向けられているのでしょう。自己?まさかね。望郷の念やサウダージは、独りでは生きて行けない、ことへの人間の無意識の原点回帰なのでしょうし、それがデフォルトでなければ、人は人ではあり得ません。
独り、母を思い、家族を思い返し、父を想い、兄弟を憶い、友人を懐かしむ。その独りの気持ちは既に独りのものではなく、他者との時間の共有そのものなのです。
話が長くなりました。畢竟、子どもを立派な成熟した市民として一定数社会に送り出し続けないと、人間は滅んでしまう、その為に誰の責任とか、誰の所為とかではなく、これはもう、関わる大人全員で必死になって子どもを育てないと行けない。僕はそう思っています。関わる大人全員が、子どもを立派な成熟した市民にする責任があり、義務があるんです。
よく、義務教育なんだからしっかり勉強しなさい、というような事を仰る人、いらっしゃいますけど、これって子どもに伝える言葉として間違っているんです。義務教育というのは、イギリスの産業革命の時に、児童労働が大変な問題になって、このままではイギリスがダメになる、と資本家達は考え、親は子どもを働かせてその金で酒を呑んだり、遊びほうけたりせず、きちんと親として子どもを教育して立派な青年にする義務を負いなさい、という理由で始まったことなんです。だから、教育を受ける権利を持つのは子どもの方で、教育を受けさせる義務を負うのは大人の方なんです。ぜんぜん事の筋目が違う。
大人は子どもに勉強してもらう為に、背中で教えないといけないね、と僕は西山君や高木君(鎌倉学園中高の英語の先生。高木君については愛情を込めていつかブログに書きます。彼も僕の親友です。)と話すのですが、それはもう、人類への一大コミットメントだと僕らは信じて疑いません。
ですから、何故勉強するんですか、とか、どうして本を読むの、とかいう問いすらもバカバカしいというか、そんなの、当たり前じゃないか、と僕らは思っているんです。
大人が馬鹿だと子どもも馬鹿になります。大人が勉強する姿を見せ続けないのに、子どもがどうして学びましょう。大人が遊びに感けて本なぞ読まなければ、どうして子どもが書物に学びを起動しましょうか。
勉強しなさい、と言うのは易いことです。でも、勉強することが大切なんだ、と黙って背中で伝え続ける事でしか、子ども達に学ぶ事の大切さ、そして学びの先に、自分も大人になったらきちんと子どもを育てなければ行けないんだ、という、人類のDNAに組み込まれた回路を正常に作動させることは、不可能だと思っています。
長くなってすみません。学ぶ、教える、は対概念です。どちらが欠けてもいけない。
ではまた^^
長い文章です。うんざりするかも知れません。
長くてすみません。
さて、先日教え子から心温まるお葉書を頂戴しました。本当に嬉しく思いました。手書きで、米粒大の日本語が葉書にびっしりと書き込まれて居り、手紙を呉れた人の深い愛情が伝わってくる、真心の籠った手紙でした。こんなお手紙、もう随分と戴いていませんでしたので、とても嬉しかったです。
手紙の中で、教え子がこのブログを読んで呉れている事を知りました。このブログは実際に誰が読んでいるのか、10年間もやっているのに僕には分かりません笑。ここ数日登場している西山君は、僕のブログを読んでくれている事を、こちらが照れるくらい繰り返し、繰り返し伝えてくれます。そして、それが社交辞令ではないと感じる様な、たとえばあの記事はこうだったとか、あの時にこんなことを書いて居られましたよね、とか、実際に読んでいる人じゃないと絶対に分からない様な、かつ、書いた本人すら忘れ去ってしまっている内容のことシカジカを、事細かに伝えてくれたりするんです。
こういうの、すごくうれしいですよね^^
昨日戴いた手紙にも、上の西山君の例のように、他者の目から見た自分の過去が綴られていました。それはまぎれもなく、自分が生きていたあの時間に、その人も時同じくしてその場に在り、また同じ空気や気持ちを多少成りとも共有していた事実が明らかになることに他なりません。
他者が共有してくれていた過去の自分の時間を、他者という鏡を通して現在の私が見るとき、自分が生きてきた軌跡を確認する事ができます。自分は今生きているけれども、今果たして自分の存在はなんなのだろう、自分は何の為に生きているんだろう、これから自分はどこに行くんだろう、ということを、人は普段意識はしませんが、有意識無意識に関わらず、ゲームは進行して行きます。ゲームオーバーが来るまで、人はそのルールが分からないまま一生を終えて行きます。死んでもこのゲームのルールも何が正しいのかも、そもそもなんでこのゲームに参加しているのかすら、分からないまま生涯を終える。誰にも分からない。
神様に祈っても、答えを出してくれる訳で為し、なんとはなしに、ああ、こんな感じなのかな、という微かな光と希望を持って生きてる、それが生きているってことなのかな、と僕は思っています。
他者から差し出された自分の過去が、この朧げに不安をやり過ごす毎瞬間の連続に、仄かに一筋の希望を与えます。ああ、生きてて良かったね、ってこういう時に思う安堵の気持ちなのではないかと僕は思うんです。
ガリア戦記の中には、金や地位が在る程度有り、血統が高いとされている男が、謀略を企てる話が出てきます。ラテン語でそれを読んでいると、自負心と高貴のプライドに満ちていますが、儚くその野望が潰える。
また、ソロモン王が書いた「コヘレトの言葉(旧約聖書)」にも、「伝道の書(旧約聖書)」にもそんな話がゴマンと出てきます。切りがない。
謀略を企てる人の一生も、自分の人生も同じです。ルールも同じ。置かれている境遇や時間が違うだけで、全く一緒。理由が分からないまま生まれて来て、既にゲームに参加している人から見よう見まねでルールを学び、新しく参加するプレーヤーにルールを教え、ルールやゲームのコンテンツの意味がわからないまま、ゲームオーバーになる、それが人生なのではないでしょうか。
ゲームのルールは朧げにしか分からない。だけども次から次にゲームに参加してくるプレーヤーは後から後から湧いてくる。人の一生はこんな歴史の連続性の中に位置づけられている、と僕は考えています。
その中で、自分が教わった事を次のプレーヤーに教える事、そしてゲームオーバーになるまでそれを繰り返す事、それが「教育」なのでしょうし、「教え育てること」なのではないか、と僕は思っています。
教えることの意味や学ぶ事の意味は、正直良く分かりません。理由はわからないけれども、そうしなければならないし、せざるを得ない。そういう風に身体に基礎付けられている。これに抗おうと思っても容易ならざらんことです。そんなことはできない。だって人間はそうやって歴史を継ぎ足して今に至っているんですから。
ゲームをする時に、できるだけ極楽環境でプレーをしたい。その為には他のプレーヤーが邪魔者であってはいけませんし、他のプレーヤーが仲間でなければ行けません。そうしないと、快適にプレーを続ける事ができないですもの。
その為に、大人は子どもに教え育てる。それが教育の本質、親の躾、大人から子どもへの贈り物なのではないか、と僕は考えています。
人間は社会を形成しなければ生きて行けません。これは社会的に実験が行なわれ、歴史が証明している所です。ロシアのミハイルバクーニンによって唱えられた無政府主義も、ついぞ社会においてその態を為す事は在りませんでした。
無秩序、無政府、無態勢では人間は生きる事ができないのです。俺は群れるの嫌いだからさ、って言ってる人だって、絶対に独りでは生きて行く事ができない。無人島で生活する人は、色々なことを考えたりすると思うんですけれど、独りで群れずに生きて行くんだから、何も考えずに楽しく生きて行けば良いと思うんです。でも、そんなことは絶対に起こらない。無人島にいる独り身だって、過去を振り返ったり、今後どうなるんだろう、という考えが頭を過るはずだから。それは果たして誰に対して向けられているのでしょう。自己?まさかね。望郷の念やサウダージは、独りでは生きて行けない、ことへの人間の無意識の原点回帰なのでしょうし、それがデフォルトでなければ、人は人ではあり得ません。
独り、母を思い、家族を思い返し、父を想い、兄弟を憶い、友人を懐かしむ。その独りの気持ちは既に独りのものではなく、他者との時間の共有そのものなのです。
話が長くなりました。畢竟、子どもを立派な成熟した市民として一定数社会に送り出し続けないと、人間は滅んでしまう、その為に誰の責任とか、誰の所為とかではなく、これはもう、関わる大人全員で必死になって子どもを育てないと行けない。僕はそう思っています。関わる大人全員が、子どもを立派な成熟した市民にする責任があり、義務があるんです。
よく、義務教育なんだからしっかり勉強しなさい、というような事を仰る人、いらっしゃいますけど、これって子どもに伝える言葉として間違っているんです。義務教育というのは、イギリスの産業革命の時に、児童労働が大変な問題になって、このままではイギリスがダメになる、と資本家達は考え、親は子どもを働かせてその金で酒を呑んだり、遊びほうけたりせず、きちんと親として子どもを教育して立派な青年にする義務を負いなさい、という理由で始まったことなんです。だから、教育を受ける権利を持つのは子どもの方で、教育を受けさせる義務を負うのは大人の方なんです。ぜんぜん事の筋目が違う。
大人は子どもに勉強してもらう為に、背中で教えないといけないね、と僕は西山君や高木君(鎌倉学園中高の英語の先生。高木君については愛情を込めていつかブログに書きます。彼も僕の親友です。)と話すのですが、それはもう、人類への一大コミットメントだと僕らは信じて疑いません。
ですから、何故勉強するんですか、とか、どうして本を読むの、とかいう問いすらもバカバカしいというか、そんなの、当たり前じゃないか、と僕らは思っているんです。
大人が馬鹿だと子どもも馬鹿になります。大人が勉強する姿を見せ続けないのに、子どもがどうして学びましょう。大人が遊びに感けて本なぞ読まなければ、どうして子どもが書物に学びを起動しましょうか。
勉強しなさい、と言うのは易いことです。でも、勉強することが大切なんだ、と黙って背中で伝え続ける事でしか、子ども達に学ぶ事の大切さ、そして学びの先に、自分も大人になったらきちんと子どもを育てなければ行けないんだ、という、人類のDNAに組み込まれた回路を正常に作動させることは、不可能だと思っています。
長くなってすみません。学ぶ、教える、は対概念です。どちらが欠けてもいけない。
ではまた^^
2015年3月30日月曜日
セリヌンティウスよ、ありがとう。
親友が夕方、京都に帰って行きました。この三日間の勉強会の充実度は、過去の経験を数えても、指折りの高揚感とコンテンツの高さを持っていました。彼と親友で居られる事は本当に幸せなことだ、と神様に感謝しています。
思えば彼との付き合いももう八年になりましょうか。ブログでメールをやり取りした事がキッカケでした。社会人になってから出来た友達、同業者であり、戦友でもある。遠く距離を隔て、お互いにそれぞれ、京都と博多で教鞭をとっていますが、暫く会わなくても、自然とその間柄には、チョイとも不自然や不都合の隙間風が吹かぬ。良い間柄です。
さて、土曜日の夜から、僕らはまず話に花が咲きました。福沢諭吉さんのこと、お互いに読んでいる本の事、古典の話、音楽の話、生徒との関わり、英語の話、英語の発音の話、ロジックの話、いかに同時通訳トレーニングが大事か、ということ、授業をする際の心構えの話、生徒に学びが起動する時は如何なる時かという話、肉はどういう風に焼けば肉汁が出て美味いかという話、美味いワインの話、You
are what you eat
の話、ローマ人の話、ラテン語を勉強する時の面白さについての話、自然に遊ぶという事について、生身の身体を鍛え身体感覚を研ぎすます事、センスの感度を常に高く保っている事、生徒を褒める話、先生として何が大事なんだろうという話、父親の話、兄弟の話、夫婦の話、Amazonで買い物をし過ぎてしまい困ったものだという話、数え挙げれば遑がない、という訳で、もう、仲が良いもんだから、これを馬鹿笑いしながら遣っている訳です。
日曜日、朝早く起きて、折角二人で集まっているのだから、と福沢諭吉先生の生家を訪おう、という話になり、車でいろんな話をしながら中津まで行きました。途中で教え子から電話が掛かって来たり、と、テンヤワンヤでしたが、それもまた喜ばしからずや、デシて、まあ、思いつきでどんどん進んで行った。
福沢諭吉先生の生家の記念館は二階建ての戸建住宅ほどの広さしかありませんでしたが、西山君も僕も、先生の資料や写真に食い入るように見入り、そこで1時間半も時間を過ごしました。
折角だからと中津城にも寄りましたが、そこは10分とも居ませんで、耶馬渓谷の大自然をドライブしながら、天瀬温泉の公衆露天風呂に入って互いの筋肉を自慢し合い、途中久留米で丸星ラーメンを食べて福岡に戻ってきました。
夜は、授業で生徒に英語好きになって貰いたいが、その為に何をしているか、という話になり、二人で洋楽をたくさん聴いて、一緒に歌いました。授業で掛けると生徒が盛り上がる曲、あるいは盛り上がらないけれどもアンコールリクエストが多い渋めの曲は何か、などの話をして、世の英語授業ではまず以て絶対に掛からない様なマイナーな曲で、けれども生徒がとても興味深く聴く曲を紹介したりしました。西山君は熱心にメモを取っていて、生徒達への愛情を深く感じました。
その後、家の近所には、大変美味しい個人経営の焼き肉屋さんがあり、そこの大将が出すハラミは僕が一等好んでいる肉なのですが、どうしても西山君に食べさせたくて、そこに出掛けて行きました。
肉は焼きすぎずにさっと焼き、その後、焼いた時間と同じくらい皿の上で寝かせると、肉から焼けた後の肉汁が滲み出して、肉が美味くなるんだ、塩は最初から振ってはいけませんで、これは食べる前に振ると好い、とかなんとかいう話をして、二人で美味いハラミを食べ、ビールを飲みました。
家に戻ると、そろそろ英語の話もしとかないと、英語から祟られましょう、という訳でもないけれども、まあ、何とは無しに、クリントン大統領が民主党の党大会でオバマ再選の応援演説をしたものがyoutubeにあって、それのスクリプトをみながら、二人で机について、それをみて、トレーニングをしました。
https://www.youtube.com/watch?v=i5knEXDsrL4
その際に、発音の仕方とか、どういう風に生徒に指導をすれば良いのか、というような話をしたり、英語の発話は力を抜いて話しているんだけれども、どうも日本人が発音する時には肩に力が入っている場合が多いから、リラックスして発音したことが良いことなどを話しました。発音がきちんとできることが英語として大事なのだ、という話で盛り上がった。英語教師が、英語の発音なぞ拙くて、生徒に示しが就かぬ、生徒に猜疑心を擡げさせぬには、英語の発音がきちんと出来る事は畢竟、英語教師の心得だ、と二人で納得しました。英語の音は子音で弾いて母音で抜く、という波形の話もその時にいたしました。
カクカクシカジかの話をし、私たちに英語の本質を授けて下さったKHシステムの国井先生と橋本先生の偉大さを二人で改めて感じ入って居りました。
その後、自宅でワインを飲みながら、居間の梁にぶら下がったり腕立て伏せをするというような筋トレをしながら、その晩はじゃあ寝ましょうか、というんで、酔いに負けずにきちんと就寝し、今朝は朝から腹が減った、腹が減ったと言いながら、志賀島の潮見公園まで行って福岡を一望し、その後、僕が20年来通っている「味の正福」に彼を伴い、胡麻鯖定食と美味い卵焼きに舌鼓を打ちました。
その後、二人でジュンク堂に行き、本を買って、家で本を読み、その後、軽く談笑して、博多駅まで彼を送り、送別しました。
4月の29日に、博多で勉強会をしよう、という約束をしています。これに期待を込め、色々な学びを深めたい、という想いを込めて、勉強を深めて再会しようと約束しました。互いに新学期が始まり、慌ただしくなると思いますが、再会の時まで、しっかりと友情や交わりを深め、学びを深くし、共に愛情を持って交友を深めて行きたい、と気持ちを新たにしました。
既に、4/29の予定、5月に我が家に三名の志しある先生を招き勉強会、さらに八月には熱海にて勉強合宿を一泊二日で計画しています。合宿では、授業をお互いにして、褒め合い、その中で工夫や改善を話し合う、古典や漢文を輪読する(解釈や文法議論ではなく、音で古典漢文を楽しむ会:酒を呑みながら)、英語の文学作品を輪読する(これも、古典漢文輪読と同じ要領で車座に腰掛け、集まった人で英語を声に出して読んで行くのです)、英語でディスカッションする、などを計画しています。
賛同される方は是非参加して頂き、共に学びを深めたいと考えています。僕の方までメールを下さい。
賛同される方は是非参加して頂き、共に学びを深めたいと考えています。僕の方までメールを下さい。
dassenglish73@gmail.com
そういえば、先日、内田樹先生に、古典漢文の輪読をするんです、とメールをしたら、是非全国に輪を拡げてください、と励ましのお便りを戴きました。有り難い事です。
みなさんと学ぶ楽しさを味わいながら、良き学びの輪を作って行けたら、と願っています。
ではまた^^
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