2015年3月21日土曜日

ヨーロッパ映画について

今年に入り、1月2月と随分と欧州の映画を観ました。ヨーロッパの映画はキリスト教の影響を、濃淡に関わらず受けていると思っていましたので、何故そのような終わり方になるのか、どうしてそのような展開になるのかをずっと考えたりしていました。

自分なりにある結論に至ったのですが、ヨーロッパ人にとって、どのように人生を捉えているか、という問題がどうしても頭から離れませんでした。

キリスト教の人生には、輪廻転生の考え方はありませんから、人間は生まれたら死まで一直線で、天に召されればそのまま二度と帰って来ない、という考え方が根底にあります。大雑把に言えば、ですけどね。叱られそうだけど。

仏教の考え方は基本的に輪廻が基準ですから、死ねば生まれ変わる、と思っている。死んでしまうと別のものになってしまうからこそ、今しかない浮き世は儚いと閑雅て要るんじゃないか。僕はそう思ったんですね。侘びとか寂びとかの観念もそこに帰属しているんじゃないか、と日本映画とヨーロッパ映画を交互にみながら考えていたんです。

たとえばフランスの映画を観ていて、これはもう、何でも良いんですけど、ゴダールだろうが、ジャックタチでも良いけど、映画の筋とはぜんぜん関係ないきれいな風景とか、アートになる様な景色とか、そういうのがパッて挿入されるんですよ。高校生とか大学生の時にこれがさっぱり分からなかった。なんで筋と関係のない画を入れる必要が有るんだろ、って。向田邦子のドラマとか、橋田壽賀子のドラマだったら、考えられないことです。だって、それは筋とは無関係ですから。

でも、ヨーロッパの映画って、必ず入る。何故だろう、って。考えたんです。

死生観みたいなものが「人生一度きり。」”You only live once!”だからこそ、人生そのものの虚しさみたいな観念がグルッと一回転して、カルナバルだ!ってラテン人達は考えたんじゃないか、と僕は思ったんです。美ーエロティシズムー死、ていう観念は一直線で繋がってるんだ、って大学生の頃ジョルジュバタイユの本に書いてあるのを読んだんですけど、ぜんぜん意味が分からなかった。それを三島由紀夫さんが、俺はそういうのを掘り下げて作品を作ってるんだ、って言って、ラディゲの死とか、サド公爵夫人とかをご自身で解説なさってあるのを読んで、ぜんぜん意味が分からなかった。え、なに言ってるの、って。

ところが、齢四十一にして、ここに来て、ああ、ってなった事があるんです。なるほどね、と。

僕らが英語の時間に時制を教える時に、時間軸を左から右に矢印で引いて教えます。あれを何百回とやっていて、その時には考えもしなかったんですけど、ヨーロッパ映画を観てて、ああ!って膝を打ったんです。ユリイカ!ってこう言う時に言うんだ、ってそのとき思いました笑。

ハイデガーの時間と存在って、これまた小難しい哲学書が有って、これも大学生の時分、背伸びして一生懸命読みましたけど、ぜんぜんその時は意味が分からなかった。でも、全ての過去のdotsconnectする時が有るんだな、って実感を伴って分かった気がしたんです。

人生は直線上に左から右に時間が流れ、その後、死が訪れて、天に召される。この流れが前提にあるとすると、生きる事に執着しないと、天国に逝ってしまっては後の祭りだ、っていう考えがまずあって、その上で、だからこそ、生きてるうちに生に執着するんだ、っていう無意識の概念が身体化されてるんじゃないか、だから映画も芸術も生活もあんな風になるんじゃないか、と僕はぼんやり考えたんです。

たとえばヨーロッパを旅行するとどこの国の彫像も、男は筋肉ムキムキでマッチョを極めてますし、女性の裸体の絵や彫刻はわんさかあります。子どもも大人もそれが当たり前だと思って、そういう芸術品が無造作にポンポン置いてある。

これは、生きることに執着すると、逞しさを極めたものこそが、もっとも生きる力があり、生命力で満ちているんだ、という象徴として、そういうものに美を求めた事の帰結なのではないか、と僕は考えたんです。そう考えると自然に、ああ、なるほどね、って。

また、裸体は性に対する執着です。性は命の誕生に繋がる行為ですから、もっとも美しい裸こそが美しい生命を宿すのに相応しい、と彼の国の人々は観念したのではなかろうか、と僕は考えたんです。

死して天人と成る前に、生きる事に執着し続け、人生を謳歌することこそ、もっとも美しい生き方なのだ、と。だからヨーロッパ人は基本的に我がままなんだろうし、生活の中に美を意識し、取り入れるんだな、と考えを新たにしました。

たとえばファッションにしてもそうです。儚い流行のサイクルみたいなものがあって、パリコレみたいなものも、季節ごと、年ごとにトレンドがどんどん取って代わられる。それは単純にオルタナティブが先行者を取り替える、ということではなく、生きる事に執着するが故の、美への飽くなき追求の一端なんじゃないか、と僕は思ったんです。

だから話の筋とは関係ない美しいものが画像に取り込まれていても映画がきちんと成立する。生きることへの執着そのものが人生讃歌なのだ、と考えている人たちに取って、なんら不自然はないのだと思います。根拠もヘチマもない考えで申し訳ないんだけど、こんな風に思ってヨーロッパ映画を観ると、妙に納得してしまうんです笑。

逆に日本映画は侘び寂びみたいなものがここ彼処にあって、美しかったり、感情の高まりみたいなものの描き方が剥き出しになっては出て来ない。それこそ、谷崎潤一郎さんの言葉を借りるまでもなく、十言う所を七しか言わない、チラリズムのようなスタイルで、人生を描き出す。その、微かにしか現れて来ない美しさとか、儚さみたいなものに、我々日本人はアワレを憶える。それがDNAに組み込まれてるんじゃないか、と錯覚してしまうほど、映画で描かれるわびしさの中に美しさが在する部分と、観ている物が心の琴線の弦を共鳴する箇所がピタッと一致する。そんな気がしているんです。

輪廻転生は人生がぐるぐるっと一回転してまた振り出しに戻る、っていう観念ですから、死んでも帰ってくる、っていう発想でしょ。そうすると、生きているうちに人生を謳歌する手法として、美を全面に打ち立てたり、強さを誇る事、あるいはエロティシズムが露骨に剥き出しになることを佳しとしない嫌いがあるんじゃないか、と僕は考えるんです。

だって、生きてるうちにそんなものにしがみついたって、どうせ死んじゃうし、死んだら死んだで、成仏しても、別物になって、はい、ってまた生まれ変わるんですから。その、儚き一時の中、虚しき世の中に僅かながらに在する美に萌えを抱く気持ちが、私たちの中にはある。

これは「北のカナリヤ」っていう吉永小百合さんの映画を観ていて思った事でした。ああ、これって二十四の瞳と同じ様なモティーフを持ってるんじゃないかな、って。

簡単に筋をお話しますと、吉永小百合さんは島の分校の新任教師で、ご夫婦で赴任して来られて、子ども達に合唱を教え、コミュニケーション能力のない子どもの歌の才を見抜き、その子が立派に歌えるように教え育てます。その時の合唱の仲間はその小さな学校の子ども達全員なんですけれども、吉永さんは島の妻のある男性と不倫をしてしまい、旦那さんは自殺をして、島を追い出されてしまう。悲惨極まりますね。

その後、数十年を経て、ある日、コミュニケーション能力がなかった子どもも立派に就職しているのですが、なにぶん、色々と難しい生き方を強いられてて、ある日、人殺しをしてしまう。捜査の手が吉永さんにも及びます。犯人の青年に綴った手紙から刑事が捜査にくるのです。

青年はとうとう、元の島で逮捕されることになる。しかし、彼が逮捕される前に吉永さんが刑事さんに頼むんです。時間を下さい、って。その後、警察が見守る中、かつての合唱のメンバーが、彼の連行の前に、一緒に成って昔の合唱を唄って物語は終わります。

どこにも救いがないんじゃないか、って暗澹たる気持ちになるくらい暗いんですけど、この最後の、ちょっとだけ幸せな感じがほんのり残る感じこそ、日本人の持つ「もののあはれ」の観念の現れなんじゃないか、と僕は考えたんです。

二十四の瞳も、戦前戦後を経て、成長する子ども達、大人の子ども達に対する想い、平和への願いが込められていますが、事の悲惨さは北のカナリヤと同じです。大人になって再会しても、死んだ人がいたり、生活が立ち行かなかったりで、ぜんぜん救いがない。でも、再会できたメンバーで旧知を温め合う、っていう仄かな、おおよそ救いとは呼べないんじゃないか、ってくらいのちょこっとだけ幸せな一場面が、遠慮がちに添えられるだけです。

アワレ、ですよね。これは色々な漢字に置き換えて考えても、全部意味が成立する。憐れ、哀れ、矜れ、何でも良いけど、死や悲惨さの中に希望を失わない、というか、ほんのり微かに見え隠れする美みたいなものに希望を見いだす文脈が敷かれたものを佳しとするというか。

こんな風に考えられるようになって、僕は高校生の時に友達と観て、ぜんぜん意味が分からなかった映画を見返してみようと思っています。

フェリーニとかゴダールの映画にも、そういう意味もあったのか知らん。よう知らんけど笑。

ではまた^^


良い週末を^^

2015年3月20日金曜日

掃除をすること

親しい友人の来客があり、遅くまで酒を酌み交わしていた。爽やかな宴だった。
今朝方も寝坊するでもなく、朝6時半に起床、昨日の片付けを済まし、家事の雑事を終え、志ん生師匠の蒟蒻問答を聴いた。

昨日は色々な話をしたが、学校教育の中で失ってはいけないものはなんだろう、という話になった。僕は「掃除じゃないですかね。」と即答した。「分かる。だけどどうしてそう思う?」と聴かれたので、こう答えた。

「ほら、掃除って、やってもやっても切りないじゃないですか。さっき掃除したのに、もう汚れてる!なんだ、意味ないじゃん、こんなの、って思うでしょ?それが掃除なんですよね。これって、生きる、ってことを、教えるのに最適な教育活動なんじゃないかな、って思うんです。

僕ら、生きてて、色んなことを達成したり、頑張っても、その頑張りみたいなのって、すぐなくなっちゃうっていうか、過去の栄光化しちゃうじゃないですか?

あー、空しい、みたいなの(笑)。あれ、掃除と同じだな、って。生徒に、生きるって一見無意味なことなんだけど、でも、それでも生きなきゃいけないんだよね、って無言で身体に教え込むのに1番いいと思うんです。身体で感じなさい、って。

黙って掃除をする。雑巾掛けをする、箒で掃く、窓のサンの埃を取る、ばらばらに並べられた本をきちんと整頓する、埃を隈無く拭き取る、塵を捨てる、洗い物をする。そういう行為を繰り返し繰り返し、毎日やらせるんです。

そして次の日また汚れる。そしてまた掃除をする。それの繰り返し。これが生きるってことなんだよ、って。」

掃除をすることの意義をそんな風に考えている。家に居たりするとまとめて家事を片付けようと思い、ついつい色々な雑事が溜まりがちになるけれど、淡々中庸に生きようと決めてから、目の前にある一つの家事をすぐその時にするようにしている。

洗い物もシンクに置いた瞬間に蛇口を拈り、スポンジに泡を立ててゴシゴシと洗う。洗い終わったら食器棚に置いて乾かす。塵が出たらすぐに捨てる。灰皿を片付ける。汚れている卓を直ぐに拭く。

毎日、部屋の状態をできるだけ同じ状態に保つようにする。淡々と。
そうすると、生活の型ができてくる。生活の型に嵌まると、その生活の型からはみ出た行為や行動をすることが気持ち悪くなり、身体が不調になる。リズムや音律が狂ってくる。

そういうシグナルを身体が瞬時に感知できるように、身体のセンサーを高めておきたい。生身の身体の感度は、思考や発想と直結している。文武両道というのはこの意味に於いて正しい。

この身体感覚を子ども達に何としても伝えなければ、と僕は思っている。生きるって掃除と同じだよ、って。片付けても片付けても散らかる。拭いても拭いても汚れる。でも、煩雑なままでは生活は立ち行かない。だから掃除をし、片付けをする。生きてるっていうのも、これと同じことなんだよね、と身体を動かしながら生徒に伝えたい。

そんな気持ちを込めて、生徒と共に掃除をし、生きることを全身に感じていたい、と静かに黙考するのです。

ではまた^^


2015年3月19日木曜日

英語教師の授業心得について

来年度の授業のことを考えると、色々に気が散って行けませんが、(ただ)唯一(ひとつ)、心構えと云うか、これだけは守ろうと思っていることは、「英語を嫌いにさせないこと。」です。

英語に興味関心を持ち、外国語の学習を通して他文化の価値観や考え方を学び、自国文化との差異に(ふる)え、新たな眼が(ひら)かれるように生徒に教えたい。そのためには、生徒が英語を嫌いになってもらうと困るんです。好きでいて欲しい。

ものを教えることは洋の東西を問わず。人類の黎明以来、脈々と続いてきた生存行為であり、教えることの英知は人類共通の智慧の結晶です。どこの世界でも連綿脈々と、有史以来ずっとやってきたのが教育です。「教える」ことによって後世に生き延びる術を伝える、これが教育の根本単位であり、基本原則です。

その起源をどこに求めても、わかりませんし、これからもわかることはおそらくないでしょう。なぜなら、人類が生き延びる為には下の世代に兎に角生き延びてもらわないと行けない。簡単に死んでもらっては困る。それでは滅亡してしまう。だから死なないように、できるだけ長生きするように、食べ物の採り方や作物の育て方、狩猟の仕方、雨露のしのぎ方から、武具の作り方など、あらゆることを教えた。衣食住足ると、今度は生きる意義は何か、社会を形成するとは何か、などに発達し、今現在アカデミアが様々な学問が自然に形勢されていった。この流れが、人類に教育が興った軌跡なのではないか、と僕は想像に助を借ります。

誰が始めたか、分からないんですけど、先達から託されたメッセージや暗黙のルールだけが口伝てや書によって残された。だから今現在、学校教育が担っている仕事は、なぜそうなっているか分からないけれど、簡単に弄くり回したり、取り替えたりしてはいけないのではないか、と僕は考えています。だって、人類の英知に逆らうことになるから。

山本五十六の「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、 ほめてやらねば人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」という言葉を引くまでもありません。

戦争をやらせたら山本の右に出る者はいない、と云われたほど、第二次大戦時に英雄視されていた山本ですら、若者を教えるときに、口やかましく怒鳴り散らしたり、ふんぞり返ったりしても、優秀な兵士は育たないのだ、という達観から、この言葉を残したのではないでしょうか。

また、山本の別の言葉に以下のようなものがあります。
いまの若い者は」などと、口はばたきことを申すまじ実年者は、今どきの若い者などということを絶対に言うな。なぜなら、われわれ実年者が若かった時に同じことを言われたはずだ。今どきの若者は全くしょうがない、年長者に対して礼儀を知らぬ、道で会っても挨拶もしない、いったい日本はどうなるのだ、などと言われたものだ。その若者が、こうして年を取ったまでだ。だから、実年者は若者が何をしたか、などと言うな。何ができるか、とその可能性を発見してやってくれ。

僕はこの山本の言葉に、教育の真髄があるのではないか、と思っているんです。口やかましく生徒にがなり立てて教えていた20代の頃は、こんな山本の言葉も知りませんし、全く分かっていませんでした。しかし、生徒達が離れていく、自分からも英語からも離れてそっぽを向く状態が続いたことがあり、自分の教師としてのあり方を見つめ直したことがあります。その時にぼんやり、「俺の1番の仕事は、生徒が英語を好きになる、ことなんじゃないかな。」と朧気(おぼろけ)にじんわりと実感した記憶が今でも残っています。無力感で一杯でしたけれどもね、若くて未熟で。

あるいは大村はまさんの言葉でも別の言い方ですけれど、山本五十六が云っていることと同じことが語られている。
しかし,劣等だとか,優等だとかいう世界の向こうの世界へ子どもを連れていくことはしなければならない。教室で座りながら,できない,つらいなどと思わせる,片っぽうは反対に得意になっているとか。これも人間を育てる世界らしからぬ世界で,そういうところに子どもを置いてはだめです。 ……ただ教室のなかで優劣の向こうへ生徒をもっていくことだけは,これはしなくてはいけないことでしょう。教室のなかで,それぞれ学習に打ち込んでいて,それぞれ成長していて,だれができ,どの子ができないなどと思っているすきまがないようにしなければならないと思います。 ……できるとかできないとかということを忘れて,全力をふるって,うちこんでやっていく。一生懸命やっていく,その向こうで,その気持ちのなかで,できる子ども,できない子があっても,そんなことに関係のない世界をつくっていくことができないか。……おもしろい授業を力いっぱいさせて,生徒に自分が劣っていることを忘れて打ち込ませるところまではもっていかなくてはと思っています。みんな一生懸命になっているとき,そんなことが気にならなくなってしまうのですね。」

大村はまさんは、焼け野原の東京で教鞭を執り始めました。新米教師で只でさえ不安なのに、紙も教科書も鉛筆もない。教室もない。学年もばらばらな大勢の子ども達が目の前にいる。大村さんは途方に暮れた。どうすれば良いんだろう、私はどんな授業をすれば良いんだろう、と。このときの大村さんの気持ちは、「二四の瞳」の大石先生と重なります。

大村さんは僅かに残る禿()びた鉛筆と、広告の裏紙のような紙、更には教材として新聞紙を手に、子ども達の所に行った。子ども達には新聞と紙と鉛筆を持たせ、新聞を読んで自分が良いな、と思ったところを感想に書きなさい、と発問された。

焼け野原の教室。すし詰めに所狭しと肩を寄せ合う子ども達は、徐に学習道具を手に、夢中になって読み、夢中になって書き捲った。大村さんは授業が終わるとその紙を集め、職員室に帰って生徒達の書いたものを読みながら、涙が止まらなかった、と書いておられます。

子ども達の中には、家を焼け出された者、家族を失って孤児になったもの、今日喰うにも困窮している者など、様々だった、と云います。そんな悲惨な状況にあって尚、瑞々しく描き出された子ども達の感性に大村さんは心を揺さぶられたのです。

これだ、これなんだ、と。これこそがまさに教師の仕事なんだ、と。大村さんの著書にはそれが書かれてあり、胸を鷲掴みにされます。具体的な指導法や技術についてはほとんど書かれていない。なのに、大村はまさんの本を教師として何度も何度も読み返したくなり、折に触れて手に取ってしまう。

理由は分からないんです。でも気付くと必ずそうしている。それは自分も、教える、という仕事の本質はここにこそ有るのではないか、と無意識に勘づいているからであり、またその感覚が身体化されているからではないか、と思うんです。DNAに組み込まれている、と言えば良いのか。

シュタイナーやバートランドラッセルが云ってることも、あるいは斎藤喜博が言ってることも、根本的な教育の本質を突く、という意味では同質同根同意であり、ワーディングこそ違うけれども、言われているコンテンツの枠をけして出ることはない。同じなんです。学ぶとは何か、教えるとはなにか、その本質は、手を変え品を変えても、けして変わることはないのだよ、と僕らに何度も何度も語りかけてる。

先人達が突き詰めて考えて実践し、行き着いた教育の本質が皆同等同質である場合、世がいくら教育改革を呼号したところで、本質に敵うわけがないのです。ちゃちな頭で賢しらに聡く編まれた改革案などより、実践家である偉大な先達達の残した教育哲学に寄り添うことの方が、僕は教師の本懐なのではないか、そう思っているんです。

来年度はどの学年になるのか、分かりませんが、何を持っても先ず、「生徒が英語を嫌いにならないこと」「生徒が英語に夢中になること」を一等大事にし、授業をしていきたい、と僕は考えています。


ではまた^^

2015年3月18日水曜日

8月に英語の勉強合宿をやります。

ふと思い立ったのだけれど、早い話だが、8月くらいに1泊2日くらいで、英語の勉強会合宿みたいなのを泊まり込みでやりたいな、と思い始めた。


朝から集まって、一日授業研究に打ち込み、飯を一緒に食った後は、夜は英語の文学の朗読会、それが終わったら、酒を飲みながら唐詩の朗読会。


朝起きたら、英語の音読。飯食って、英語のディスカッション、ライティングセッション、で、昼飯食って、温泉チャポーンと浸かって、じゃーねー、な会。


そういうのをやりたいな、と思っています。


英語と日本語の勉強を、楽しみながらやれる会を開催したい。日本語の朗読や、英米文学の朗読をやっても良いと思うのです。


たとえば、HemingwayMovable Feastの一節を、皆さんで酒を飲みながら、音に出して読んで行く。誰も発音を正したり、解釈したり一切しない。ひたすら1時間くらい読んで行くと、その集団の呼吸がピタッと合って来て、朗読がリズムを持ち出す。ジャズのインプロヴィゼーションみたいな感覚です。そういうのを自然に作れる時間を持ちたい。


もう一つ。唐詩を酒を飲みながら朗読する会もやってみたかったことの一つです。李白の詩を酒を飲みながらどんどん朗読する。これも、解釈とかは一切しません。


言葉を音に出して読む、という行為を通じて、身体が言葉に呼応する感覚を味わいたいのです。


僕は授業で生徒に音読をさせたり、シャドーイングをさせたり、暗誦をさせたりするんですけれど、自分個人でも英語を音に出して読むことが大好きで、こんなに楽しいから、あんたもやんなさいよ、って感覚で生徒にさせてるところがあるんです。これは本当に。


自分の勉強で音読やってる、って感覚が最早無く、純然たる趣味。英文をウェブで見つけたり、良いスピーチをYoutubeとかで聞いたりすると、居ても立っても居られなくなる。え、なに、これ?こんなのあんの?え、待って、待って、え、やべー!すげぇ!これ、マジでやべぇ!ってなって、Googleでかちゃかちゃ検索して、スクリプト(スピーチの原稿)を探して、それを自分の趣味で音読するんです。


言葉は黙読よりも声に出して音読すると体全体が言葉に呼応します。声の振動に肌が感応して、発せられる言葉を全身で浴びる。その時に身体の感度が黙読をしている時のそれとは全く違う信号を出していることに気づくのです。


欧州の教会の背丈が高く設計されているのは、教会全体に聖歌隊の声や神父さんの声が倍音になって共鳴し、人々の頭ではなく、身体に訴えかけるように、という目的があったからだと僕は理解しています。そこまでソロバン勘定して教会を建ててる。絶対そうです。


識字率が低く、字が読める人がほとんどいない中で、キリスト教を布教しようと思ったら、言葉だけに訴えても無力です。だから、賛美歌の音を聖歌隊が四声で発し、梁高く掲げられた天井を大きく畝って人々の魂に届かせようとした。そういうことが無意識に分かっていたんじゃないか、と思います。


教会というのは神社仏閣と同じで、西洋人にとっての霊域です。霊域はひんやりとして、薄暗く、そこに入ってふざけたり出来ない、罰が当たる、という超然的な雰囲気を持ってないと宗教的な説得力は増しません。神様から心を鷲掴みにされる、って、言葉による説得ではなくて、それこそ、教会や神社やお寺に入った瞬間に決まる。僕はそう理解しています。


倍音の効果について、初めて知ったのは内田樹さんの宗教と身体の本を読んでからですが、僕は幸い大学生の頃、聖歌隊の部活に入っていましたので、これは実感を伴って納得せざるを得ませんでした。又、幼い頃から教会に通っていましたが、教会には必ず聖歌隊があります。目的は神を賛美することですが、上記の点から鑑みますと、宗教的な意味合いを多分に帯びて行なわれた神事なのだ、ということが、この歳になって漸く理解できたようなことです。


長生きって、するもんですね。


さて、8月に勉強会合宿をする話。言葉を身体で音楽のように感じる時間を、同志と持ちたい、と僕は考えている。解釈や注釈の話になると、頭でっかちになる嫌いがあるのでいけない。それは日常的にもやっていることなので。


身体で言葉を感じる、という体験を通して、今一度翻って音読の効果や、素読暗誦の意義について、実感感覚を持っていたい、と僕は考えているんです。私たちはつい、頭で分かってしまうことに感けて、身体が感じることを軽んじて生きてしまうことがあります。身体の感度って、本当にすごいんです。


病気になるとか、ならないとか、そういう話ではなくて、身体で感じることと、考えていること、思っていることが一致してくると、恐ろしいほど、感性や洞察力の感度が高まります。これは僕が筋トレやスポーツをし出して、毎日切々と感じることです。


身体を鍛えたり、スポーツをするのは、アンチエイジングやダイエットの文脈でしか語られない。僕はそれがとても不満です。


確かにそれも一理も二理もありましょう。僕も同意します。でも、そんな理由は付加価値として副次的にくっついてくるおまけでしかない。グリコのおまけばっかりに感けて、肝心のキャラメルを蔑ろにした子ども時代と同じです。お前らさ、おまけばっか見てるけどさ、本当はグリコはキャラメルを食べないと買った意味が無いんだぜ、って友達に口角泡を飛ばして檄文を投げるつもりで書いていますが。


身体感覚、身体の感度が上がると、それまで頭だけで考えていたことと全く発想の仕方が変わるんです。だって、身体は脳の信号によって動いてるから。脳と常にリンクしてるんですから、そうなるに決まってる。必ずそうなる。


頭で考えることは脳でこねくり回すんです。ですけど、年を重ねると、脳の信号に対して身体の反応が鈍くなる。筋肉や神経の衰えなのでしょうけれど。でも、筋肉がある一定の強度を保つ限り、神経の反応回数が減少しない限り、脳の反応と身体の感度、頭で考えたことは一定の速度でリンクし続ける。若さを保つ為に身体を鍛える、と考えるのでは、ことの筋目が逆です。身体を鍛えた結果、脳の反応に対応し得る肉体を保っているがゆえに、身体と脳の感度が一致し、それによって行動も変わる。それだけの話です。


たとえば僕はデッドリフトという腰と股の裏を鍛えるトレーニングメニューを必ず入れていますが、このメニューをやり始めてから、デスクで採点やプリント作りをする際の長時間の座り仕事の腰痛に悩まされることが無くなりました。身体を鍛えてない時に、階段の上り下りがきつかったり、デスクでの腰痛に悩まされていたことはなんだったんだろう、とふと不思議に思うこともありましたが、腰痛にならない状態が当たり前になると、脳は若い頃と同じ様な発想や思考で保たれることがデフォルトになります。なるほどね、結果としてそうなるから、アンチエイジングなのであって、アンチエイジングを目指して身体を鍛えるっていう目標を立てるのは少し違いはしまいかね、これ、と実感してるんです。


話は長くなりましたが、8月に勉強会合宿を是非やりたいと思っています。細かいことが決まりましたら、アナウンスしますので、お出かけくださいね。



ではまた^^

2015年3月17日火曜日

英語授業勉強会「暁の会」始動します。

3月末に勉強会をすることをアナウンスしましたが、勉強会の準備を着々と進めております。4月に第二回目を開催する予定にしました。学びの多い会にしたいと思っています。


会の名称を「暁の会」にしました。これは三島由紀夫さんの「暁の寺」、そして孟浩の「春眠暁を覚えず」から取っています。


自分の中に眠っていた何かが、理由無く奔り出した感があります。暁の時が来た、と犇犇と感じています。


志を同じくする同志と、学びを深め、日本の英語教育に資する活動を行いたい、と思い、会の開催を思い立ちました。


多くの賛同を得られることを目的としていません。真剣に、本気で打ち込める会にしたい。真摯に学ぼうとする仲間が欲しい。そういう想いを込めて、暁の会、始動します。


既に準備は進めています。3/30の勉強会で、今後の方向性や、授業研究の骨子、シラバスなどのコンテンツなどについて、語り合い、4/29の会につなげたいと思っています。


どうぞよろしくお願い致します。


暁の会代表 田中 十督


【英語の先生方へ重要なお知らせ】第2回暁の会開催のお知らせ
来る4/29(水)祝日に、英語授業の勉強会を開催します。
内容は以下の通りです。


■日時:4/29(水)祝日、午後13時〜18時半

■場所:福岡市の某所(参加者のみに通知)

■内容:授業研究

■形態:参加者全員、all in Englishの授業形態を取る。指導案を予め作成し、印刷したものを参加者全員に配る。40分の授業を一人ずつ行ない、良かった点、工夫するともっと良くなる点などをシェアし合う、の繰り返し。

■教材:参加者にのみ添付ファイルにて送信

■準備:きちんとした授業指導案を作り、配布するプリント類も作成して、各自で印刷して持参する。

■懇親会:夜に懇親会の予定あり。

■参加資格:以下の場合は、参加をお断りさせて頂きます。

  1. セミナーなどで講師などをしておられる方
  1. 会で授業が実際に行なえない方
  1. All in English で授業を行えない方
  1. 継続的に会への参加が難しい方

■備考:
・参加費などは一切不要です。
・全員が学び合う会です。継続的に続けて、互いに力を高め合うことを標榜しています。
・所属は、中高、公私立を問いません。年齢、性別一切問いません。
・会の呼称を、新たな出発点と位置づけ、「暁の会(あかつきのかい)」とします。
・僕(田中十督)は管理者というだけで、僕が講釈をしたり、何かを教える、という類いの会ではありません。予めご了承ください。

■参加表明:以下のメールにご記入の上、お申し込みください。

dassenglish73@gmail.com


申し込みは
1 氏名
2 所属校名
3 携帯番号
4 メールアドレス
5 会で学びたいこと・シェアしたいこと

の5点を必ず明記の上、お申し込みください。



2015年3月16日月曜日

手は伝える。

今はネットで調べるまでもなく、パソコンやスマホの言語入力機能の中に、日本語がぎっしりと組み込まれていて、予測変換も優秀になってきているので、字が実際に書けなくても、漢字を瞬時に出力する環境が整っている。

だから、「漢字が書ける」能力が衰えていく議論は影を潜め、利便性による言語能力の低下に拍車が掛かることには、世の中の関心が向かない。

書けない漢字、例えば魑魅魍魎とか、顰蹙を買う、とか。そういうのまで書ける必要はないし、話し言葉としては、これらの単語だって普段から耳にするものだから良いんだけれど、魑魅魍魎という文字を見たときに、妖怪物の怪のたぐいがわんさかと出てくる様子が、漢字で表されているので、書けなくても、その語感は伝わってくる。

漢字には象形の意味がある。絵を見て理解する、絵を描いて伝える、という作業の延長線上に漢字という文字が起こったのではないか、と白川静先生の本を読んでいて思う。

為政者の歴史を編む為に文字は整備され、始皇帝の時代にはある程度の完成を見たのが現在私たちが使っている漢字の出発点であって、その汎用性が優れていることは、数千年の歴史の風化を免れていることからも明らかなのである。

さて、自分の話。

ここ数週間、親友とメールのやりとりをしながら、お互いに勉強したことや、読んだ本なんかについて、自由に楽しく話をしている。初めは趣味で読み始めた本も、読んでいるうちに、あまりの日本語の美しさに感動して、やろうよ、と声を掛け合ったわけでもないのに、頼まれもしないノートを買ってきて、読みながら一々感動した日本語をただ筆写するという作業をしている。

その作業をしていて、今では使われなくなった表現や漢字を書いていると、その漢字が使われている時の語感が、身体に血肉化していく気持ちがほんのりと感じられて、身体が温まる。

「肌理細やか」という単語は「きめこまやか」と読むが、僕は谷崎潤一郎さんの本にこの漢字を初めて見て、身悶えした。すごい!肌が整然と細胞を並べている様子を漢字で書くと、肌理と書くんだ!すごい!そんな風に身体を捉え、それを文字にまで昇華してるんだ!すごい!先人達は巨人だ!すごい!あまりの興奮に、そのことを態々親友にメールしてしまった。
漢字は書けなくても今の世の中で立派に生きていける。それで十分だと思う。一方で、翻って考えて見ると、漢字そのものが元々持っていた語感が身体化され、その語感を伴ってその言葉を使う自分と、そうでない自分とをくらべたとき、僕は前者でありたいな、と思った。

先人達が天才性をもって編み出した漢字や言葉を自分も使えるようになりたい、そう真剣に考えている。けしてそれは、それらの言葉を使えない人を小馬鹿にしたり、敢えてそれらの人が分からないような言い回しを振り回して悦に入るような、スノビッシュなことではない。そういう低次元のことではない。

言葉を大切にする、というのは身体にきちんと入れることだと思っている。実際に使う、使わないは別として、それらの言葉がきちんと使いこなせる、運用言語として身体に血肉化している自分、そんな自分はきっと、言葉の裏側にあるもの、その言葉が使われたコンテクスト、あらゆるエクリチュールを纏って放たれる言葉の端々に対して、より深く敏感でいることができるのではないか、と考えたからだ。

言葉は神である。神によってならない言葉は何一つない。これは僕の勝手な言い分ではない。ヨハネによる福音書にきちんと書いてある。言葉は人からの借り物である。口頭伝承や書き綴られ続けることによって、後世である私たちに手によって伝えられた結晶なのである。

僕はその言葉を自分の手で書きたい、と思った。パソコンで偉そうなことを打って、こんな漢字を使えるんだぜ、というような小学生の弟を持つ中学生の兄のような構えではなく、あなたと共に美しい言葉にため息をつきたい、そんな風に思って生きていくことはできないか、と僕は考えているのだ。

美しい日本語に出会ったら、筆写をして唸る。その語感を身体に染み込ませる。僕はそんな風にして日本語を使って生きていきたい。


ではまた^^

2015年3月15日日曜日

来年やりたい英語の授業

来年、どんな授業をしようか、と考えています。入試も変わろうとしている、自分が変わるんだ、という気持ちにシフトしてみたけれど、現状の指導法を縁とすれば、何も変わらないまま、のんべんだらりと一年が過ぎ去ってしまう様な気がして怖いんです。


ここ10年くらい思っていることなんですけれど、世に言う「英語の4技能を伸ばす」っていうのは、わけて考えるものではないのではないんじゃないでしょうか。


読み書きの基礎(単語と文法)はある程度きちっとしていないといけないけれど、運用語彙とか認知語彙とかっていうのは、使っていって自然に身に付くものだから、使う状況をできるだけ多く設定しないと、運用できるようにはならないんですよね。


たとえば英作文を指導していて思うんだけれど、生徒たちは当然書けないです。自分に置き換えて考えると、僕は英語を書く時は英語を喋る時の回路で書いている気がするんです。書いてる最中で、書き言葉だから、この単語よりも、こっちの単語を使った方がより状況には近いし、文章も軽くならなくていい、と思って単語を入れ替える作業を頭で秒速でやっている、というだけの話。


話す=書ける、っていうのは繋がっている。なので、speakingを鍛えると、自然に書けるようになるはずだ、と僕は仮説を立てているんです。


生徒に大量の「和文英訳」や「自由英作文」をやらせるけど、できるようになりません。中学生以下の英文を書いてくるなんてザラ。こちらは躍起になって指導奮闘するけれども、それでもこちらが思い描く様な理想には一向に近づく気配もないんです。果ては「生徒に力が無い」という押付けがましい虚無感みたいなもので落着させるのが日常なんだけど、こちらの指導法を変えてみる、というメソッドが残されていることを、忘れてしまうんですよね。


先生になって20年近く経つから、自分としてはここいらで指導法を変えてみても良いのかな、と思ったりもしているんです。入試改革も呼号されてるし。いい機会かな、と思って。


英語の授業の中で、生徒が英語を喋る時間をもっと増やして行くと良いのではないか、と。また教師が生徒に英語で話し続ける時間を増やせば良いのではないか、って。キザな意味じゃなくてね。


英語を喋れる人って、習得するのにそれなりの努力してるから、話している時に、自分は他人よりも英語が使える、っていう鼻持ちならない気持ちで上から目線しちゃうことがあって、気をつけなきゃ行けないんだけど、そうならないように英語を使わないのではなくて、生徒たちに普段から英語を使うことが自然なんだ、と思ってもらうことに、実はヒントが有るんじゃないか、と僕は思ってるんです。


今考えているのは、授業の開始時にペアでスモールトークをすること、その後歌を歌って楽しむこと、さらにトピックについて英語で書いてみて、それを友達と交換して添削しあうこと、さらに新しい発見を友達と話すこと、グループ討論をすること、っていうのを繰り返し、繰り返しやってみたいんですね。それを繰り返すと、ごく自然に英語を英語のまま使えたり、理解したりできるのでは、と思っているんです。


当然、試験もありますから、それに対する対策みたいなのもしないと行けないんだろうけれど、遠回りに見えるアプローチから、入試すらも超えうる英語力が身に付くことの方が大事なんじゃないか、と思っているんです。


もう一つ。


リスニングを鍛える、って話なんですけど、リスニングもね、同じ様な方法でやれないかな、と思ってるんです。ある程度の長さのものを、映像とともに聞く、っていう動作を繰り返し、繰り返しやる。一応スクリプトは与えるんだけど、意味なんかザッと分かればいい、ってことにしておいて、辞書引かない、調べない、ただ聞く、っていう作業を増やすと良いんじゃないか、と思ってるんです。


生徒のレベルも有るから、初めは簡単な短い映像からスタートして、何を言ってるのかを友達と英語でsmall talkして、その内容をノートに書き留めながら、再度聞く、また話す、また聞く、っていう動作を繰り返せないかな、と僕は考えています。


週の中で行くと、あるクラスの授業の週の1回目がトピックについて話したり書いたりする(読解・ライティング)、2回目はトピックに関連する映像をひたすら見て英語を聞きながら友達と話す、3回目はトピックについて各自で調べて来てそれを発表する、4回目にトピックの内容が書かれている入試問題なりを解いて、それに関する自分の意見なりをアウトプットする、っていう方法で授業をやれないか、と思っているんです。


初めは中々力が上がって行かなくてやきもきもするんだろうけれど、そういう自然な形で授業アプローチをとっていくことで、生徒たちの揺るぎない力がつくのではないか、と僕は考えているんです。


だから、英作文の対策、とか、リスニングの対策、とか、項目別に特化した指導ではなく、包括的に4技能を鍛えて行く、っていうか、レベルを上げて行くような授業ができるのではないか、と思っているんです。


時間は掛かるかもしれないんですけど、そういう方法を来年取りたい。どこの学年だろうがどこの所属だろうが、同じ様なことはできると思っていますので、教科書を使って、どんなことができるのかを月末くらいから考えることができたらいいな、と思っています。


今さっき述べた様なことを柱に考えますと、たとえば中学生になら、中学生に向けた4技能授業ができるはずですし、高校生になら高校生に向けた4技能授業ができるはずです。


そこから、現状打破の糸口が見つかりはしまいか、と僕は睨んでいます。


たとえば自答するんですけど、生徒に書かせた物の添削はどうするのか、って話があって、これも色々考えたんですけど、今考えているのは、まずは生徒たち同士に添削をさせあって、生徒たちの文法チェック能力を上げる、っていうのはどうだろうか、と思っているんです。予めガイダンスの必要はあります。「読んで意味が分からない時は、?、って書いてあげて。文法的に意味が分かんない、って所に線を引いてあげて、友達に返してください。」って伝えて、ひたすら生徒間で添削させる。そうすると、自分の文法チェック能力も上がりますし、書く時の注意点も学び合えますよね。


まとまったものを教師が添削するのは、そういう過程を経てからでも良いのではないか、と僕は思います。添削の手間も負担も、こういうことをした後だと、グッと減りますしね。


まとまったものが書けるようになってくると、今度は読解する時の構えや姿勢が変わってくる。実際に自分も書いてるから、筆者の言わんとするところを汲む装置とか回路ができて来て、ああ、なるほど、って、落としどころとか、ピナクルがどれか、ってことがより明確になるんじゃないか、と僕は考えているんです。だって、自分が読んでる時がそうだから。


今までは自分がやったトレーニングを生徒にさせて、同じ様な技術を習得させたい、と思っていました。確かにトレーニングも大事ね。これ、本当に。単語も文法も構文もとても大事。それが土台なので、できないと話にならないから。


でも、来年度は、運用、という話を第一に据えて、授業をしていきます。準備大変そうだけど、まぁいいや笑。面白そうだから是非やってみたい笑。


面白そうなこと、大好き笑。過激にやりたいですね。


ではまた^^




もっとも大いなるもの

単語の綴りを一生懸命練習するけれど、何度も、何度も間違える子がいる。 でも、授業中、何度もうなづきながら説明を聞き、話に耳を傾け、大きな声で歌を歌う。フォニックスの発音を、口を縦横いっぱいに開けて発音する。 oshienと単語テストに書いてきた。oc...