2015年3月19日木曜日

英語教師の授業心得について

来年度の授業のことを考えると、色々に気が散って行けませんが、(ただ)唯一(ひとつ)、心構えと云うか、これだけは守ろうと思っていることは、「英語を嫌いにさせないこと。」です。

英語に興味関心を持ち、外国語の学習を通して他文化の価値観や考え方を学び、自国文化との差異に(ふる)え、新たな眼が(ひら)かれるように生徒に教えたい。そのためには、生徒が英語を嫌いになってもらうと困るんです。好きでいて欲しい。

ものを教えることは洋の東西を問わず。人類の黎明以来、脈々と続いてきた生存行為であり、教えることの英知は人類共通の智慧の結晶です。どこの世界でも連綿脈々と、有史以来ずっとやってきたのが教育です。「教える」ことによって後世に生き延びる術を伝える、これが教育の根本単位であり、基本原則です。

その起源をどこに求めても、わかりませんし、これからもわかることはおそらくないでしょう。なぜなら、人類が生き延びる為には下の世代に兎に角生き延びてもらわないと行けない。簡単に死んでもらっては困る。それでは滅亡してしまう。だから死なないように、できるだけ長生きするように、食べ物の採り方や作物の育て方、狩猟の仕方、雨露のしのぎ方から、武具の作り方など、あらゆることを教えた。衣食住足ると、今度は生きる意義は何か、社会を形成するとは何か、などに発達し、今現在アカデミアが様々な学問が自然に形勢されていった。この流れが、人類に教育が興った軌跡なのではないか、と僕は想像に助を借ります。

誰が始めたか、分からないんですけど、先達から託されたメッセージや暗黙のルールだけが口伝てや書によって残された。だから今現在、学校教育が担っている仕事は、なぜそうなっているか分からないけれど、簡単に弄くり回したり、取り替えたりしてはいけないのではないか、と僕は考えています。だって、人類の英知に逆らうことになるから。

山本五十六の「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、 ほめてやらねば人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」という言葉を引くまでもありません。

戦争をやらせたら山本の右に出る者はいない、と云われたほど、第二次大戦時に英雄視されていた山本ですら、若者を教えるときに、口やかましく怒鳴り散らしたり、ふんぞり返ったりしても、優秀な兵士は育たないのだ、という達観から、この言葉を残したのではないでしょうか。

また、山本の別の言葉に以下のようなものがあります。
いまの若い者は」などと、口はばたきことを申すまじ実年者は、今どきの若い者などということを絶対に言うな。なぜなら、われわれ実年者が若かった時に同じことを言われたはずだ。今どきの若者は全くしょうがない、年長者に対して礼儀を知らぬ、道で会っても挨拶もしない、いったい日本はどうなるのだ、などと言われたものだ。その若者が、こうして年を取ったまでだ。だから、実年者は若者が何をしたか、などと言うな。何ができるか、とその可能性を発見してやってくれ。

僕はこの山本の言葉に、教育の真髄があるのではないか、と思っているんです。口やかましく生徒にがなり立てて教えていた20代の頃は、こんな山本の言葉も知りませんし、全く分かっていませんでした。しかし、生徒達が離れていく、自分からも英語からも離れてそっぽを向く状態が続いたことがあり、自分の教師としてのあり方を見つめ直したことがあります。その時にぼんやり、「俺の1番の仕事は、生徒が英語を好きになる、ことなんじゃないかな。」と朧気(おぼろけ)にじんわりと実感した記憶が今でも残っています。無力感で一杯でしたけれどもね、若くて未熟で。

あるいは大村はまさんの言葉でも別の言い方ですけれど、山本五十六が云っていることと同じことが語られている。
しかし,劣等だとか,優等だとかいう世界の向こうの世界へ子どもを連れていくことはしなければならない。教室で座りながら,できない,つらいなどと思わせる,片っぽうは反対に得意になっているとか。これも人間を育てる世界らしからぬ世界で,そういうところに子どもを置いてはだめです。 ……ただ教室のなかで優劣の向こうへ生徒をもっていくことだけは,これはしなくてはいけないことでしょう。教室のなかで,それぞれ学習に打ち込んでいて,それぞれ成長していて,だれができ,どの子ができないなどと思っているすきまがないようにしなければならないと思います。 ……できるとかできないとかということを忘れて,全力をふるって,うちこんでやっていく。一生懸命やっていく,その向こうで,その気持ちのなかで,できる子ども,できない子があっても,そんなことに関係のない世界をつくっていくことができないか。……おもしろい授業を力いっぱいさせて,生徒に自分が劣っていることを忘れて打ち込ませるところまではもっていかなくてはと思っています。みんな一生懸命になっているとき,そんなことが気にならなくなってしまうのですね。」

大村はまさんは、焼け野原の東京で教鞭を執り始めました。新米教師で只でさえ不安なのに、紙も教科書も鉛筆もない。教室もない。学年もばらばらな大勢の子ども達が目の前にいる。大村さんは途方に暮れた。どうすれば良いんだろう、私はどんな授業をすれば良いんだろう、と。このときの大村さんの気持ちは、「二四の瞳」の大石先生と重なります。

大村さんは僅かに残る禿()びた鉛筆と、広告の裏紙のような紙、更には教材として新聞紙を手に、子ども達の所に行った。子ども達には新聞と紙と鉛筆を持たせ、新聞を読んで自分が良いな、と思ったところを感想に書きなさい、と発問された。

焼け野原の教室。すし詰めに所狭しと肩を寄せ合う子ども達は、徐に学習道具を手に、夢中になって読み、夢中になって書き捲った。大村さんは授業が終わるとその紙を集め、職員室に帰って生徒達の書いたものを読みながら、涙が止まらなかった、と書いておられます。

子ども達の中には、家を焼け出された者、家族を失って孤児になったもの、今日喰うにも困窮している者など、様々だった、と云います。そんな悲惨な状況にあって尚、瑞々しく描き出された子ども達の感性に大村さんは心を揺さぶられたのです。

これだ、これなんだ、と。これこそがまさに教師の仕事なんだ、と。大村さんの著書にはそれが書かれてあり、胸を鷲掴みにされます。具体的な指導法や技術についてはほとんど書かれていない。なのに、大村はまさんの本を教師として何度も何度も読み返したくなり、折に触れて手に取ってしまう。

理由は分からないんです。でも気付くと必ずそうしている。それは自分も、教える、という仕事の本質はここにこそ有るのではないか、と無意識に勘づいているからであり、またその感覚が身体化されているからではないか、と思うんです。DNAに組み込まれている、と言えば良いのか。

シュタイナーやバートランドラッセルが云ってることも、あるいは斎藤喜博が言ってることも、根本的な教育の本質を突く、という意味では同質同根同意であり、ワーディングこそ違うけれども、言われているコンテンツの枠をけして出ることはない。同じなんです。学ぶとは何か、教えるとはなにか、その本質は、手を変え品を変えても、けして変わることはないのだよ、と僕らに何度も何度も語りかけてる。

先人達が突き詰めて考えて実践し、行き着いた教育の本質が皆同等同質である場合、世がいくら教育改革を呼号したところで、本質に敵うわけがないのです。ちゃちな頭で賢しらに聡く編まれた改革案などより、実践家である偉大な先達達の残した教育哲学に寄り添うことの方が、僕は教師の本懐なのではないか、そう思っているんです。

来年度はどの学年になるのか、分かりませんが、何を持っても先ず、「生徒が英語を嫌いにならないこと」「生徒が英語に夢中になること」を一等大事にし、授業をしていきたい、と僕は考えています。


ではまた^^

2015年3月18日水曜日

8月に英語の勉強合宿をやります。

ふと思い立ったのだけれど、早い話だが、8月くらいに1泊2日くらいで、英語の勉強会合宿みたいなのを泊まり込みでやりたいな、と思い始めた。


朝から集まって、一日授業研究に打ち込み、飯を一緒に食った後は、夜は英語の文学の朗読会、それが終わったら、酒を飲みながら唐詩の朗読会。


朝起きたら、英語の音読。飯食って、英語のディスカッション、ライティングセッション、で、昼飯食って、温泉チャポーンと浸かって、じゃーねー、な会。


そういうのをやりたいな、と思っています。


英語と日本語の勉強を、楽しみながらやれる会を開催したい。日本語の朗読や、英米文学の朗読をやっても良いと思うのです。


たとえば、HemingwayMovable Feastの一節を、皆さんで酒を飲みながら、音に出して読んで行く。誰も発音を正したり、解釈したり一切しない。ひたすら1時間くらい読んで行くと、その集団の呼吸がピタッと合って来て、朗読がリズムを持ち出す。ジャズのインプロヴィゼーションみたいな感覚です。そういうのを自然に作れる時間を持ちたい。


もう一つ。唐詩を酒を飲みながら朗読する会もやってみたかったことの一つです。李白の詩を酒を飲みながらどんどん朗読する。これも、解釈とかは一切しません。


言葉を音に出して読む、という行為を通じて、身体が言葉に呼応する感覚を味わいたいのです。


僕は授業で生徒に音読をさせたり、シャドーイングをさせたり、暗誦をさせたりするんですけれど、自分個人でも英語を音に出して読むことが大好きで、こんなに楽しいから、あんたもやんなさいよ、って感覚で生徒にさせてるところがあるんです。これは本当に。


自分の勉強で音読やってる、って感覚が最早無く、純然たる趣味。英文をウェブで見つけたり、良いスピーチをYoutubeとかで聞いたりすると、居ても立っても居られなくなる。え、なに、これ?こんなのあんの?え、待って、待って、え、やべー!すげぇ!これ、マジでやべぇ!ってなって、Googleでかちゃかちゃ検索して、スクリプト(スピーチの原稿)を探して、それを自分の趣味で音読するんです。


言葉は黙読よりも声に出して音読すると体全体が言葉に呼応します。声の振動に肌が感応して、発せられる言葉を全身で浴びる。その時に身体の感度が黙読をしている時のそれとは全く違う信号を出していることに気づくのです。


欧州の教会の背丈が高く設計されているのは、教会全体に聖歌隊の声や神父さんの声が倍音になって共鳴し、人々の頭ではなく、身体に訴えかけるように、という目的があったからだと僕は理解しています。そこまでソロバン勘定して教会を建ててる。絶対そうです。


識字率が低く、字が読める人がほとんどいない中で、キリスト教を布教しようと思ったら、言葉だけに訴えても無力です。だから、賛美歌の音を聖歌隊が四声で発し、梁高く掲げられた天井を大きく畝って人々の魂に届かせようとした。そういうことが無意識に分かっていたんじゃないか、と思います。


教会というのは神社仏閣と同じで、西洋人にとっての霊域です。霊域はひんやりとして、薄暗く、そこに入ってふざけたり出来ない、罰が当たる、という超然的な雰囲気を持ってないと宗教的な説得力は増しません。神様から心を鷲掴みにされる、って、言葉による説得ではなくて、それこそ、教会や神社やお寺に入った瞬間に決まる。僕はそう理解しています。


倍音の効果について、初めて知ったのは内田樹さんの宗教と身体の本を読んでからですが、僕は幸い大学生の頃、聖歌隊の部活に入っていましたので、これは実感を伴って納得せざるを得ませんでした。又、幼い頃から教会に通っていましたが、教会には必ず聖歌隊があります。目的は神を賛美することですが、上記の点から鑑みますと、宗教的な意味合いを多分に帯びて行なわれた神事なのだ、ということが、この歳になって漸く理解できたようなことです。


長生きって、するもんですね。


さて、8月に勉強会合宿をする話。言葉を身体で音楽のように感じる時間を、同志と持ちたい、と僕は考えている。解釈や注釈の話になると、頭でっかちになる嫌いがあるのでいけない。それは日常的にもやっていることなので。


身体で言葉を感じる、という体験を通して、今一度翻って音読の効果や、素読暗誦の意義について、実感感覚を持っていたい、と僕は考えているんです。私たちはつい、頭で分かってしまうことに感けて、身体が感じることを軽んじて生きてしまうことがあります。身体の感度って、本当にすごいんです。


病気になるとか、ならないとか、そういう話ではなくて、身体で感じることと、考えていること、思っていることが一致してくると、恐ろしいほど、感性や洞察力の感度が高まります。これは僕が筋トレやスポーツをし出して、毎日切々と感じることです。


身体を鍛えたり、スポーツをするのは、アンチエイジングやダイエットの文脈でしか語られない。僕はそれがとても不満です。


確かにそれも一理も二理もありましょう。僕も同意します。でも、そんな理由は付加価値として副次的にくっついてくるおまけでしかない。グリコのおまけばっかりに感けて、肝心のキャラメルを蔑ろにした子ども時代と同じです。お前らさ、おまけばっか見てるけどさ、本当はグリコはキャラメルを食べないと買った意味が無いんだぜ、って友達に口角泡を飛ばして檄文を投げるつもりで書いていますが。


身体感覚、身体の感度が上がると、それまで頭だけで考えていたことと全く発想の仕方が変わるんです。だって、身体は脳の信号によって動いてるから。脳と常にリンクしてるんですから、そうなるに決まってる。必ずそうなる。


頭で考えることは脳でこねくり回すんです。ですけど、年を重ねると、脳の信号に対して身体の反応が鈍くなる。筋肉や神経の衰えなのでしょうけれど。でも、筋肉がある一定の強度を保つ限り、神経の反応回数が減少しない限り、脳の反応と身体の感度、頭で考えたことは一定の速度でリンクし続ける。若さを保つ為に身体を鍛える、と考えるのでは、ことの筋目が逆です。身体を鍛えた結果、脳の反応に対応し得る肉体を保っているがゆえに、身体と脳の感度が一致し、それによって行動も変わる。それだけの話です。


たとえば僕はデッドリフトという腰と股の裏を鍛えるトレーニングメニューを必ず入れていますが、このメニューをやり始めてから、デスクで採点やプリント作りをする際の長時間の座り仕事の腰痛に悩まされることが無くなりました。身体を鍛えてない時に、階段の上り下りがきつかったり、デスクでの腰痛に悩まされていたことはなんだったんだろう、とふと不思議に思うこともありましたが、腰痛にならない状態が当たり前になると、脳は若い頃と同じ様な発想や思考で保たれることがデフォルトになります。なるほどね、結果としてそうなるから、アンチエイジングなのであって、アンチエイジングを目指して身体を鍛えるっていう目標を立てるのは少し違いはしまいかね、これ、と実感してるんです。


話は長くなりましたが、8月に勉強会合宿を是非やりたいと思っています。細かいことが決まりましたら、アナウンスしますので、お出かけくださいね。



ではまた^^

2015年3月17日火曜日

英語授業勉強会「暁の会」始動します。

3月末に勉強会をすることをアナウンスしましたが、勉強会の準備を着々と進めております。4月に第二回目を開催する予定にしました。学びの多い会にしたいと思っています。


会の名称を「暁の会」にしました。これは三島由紀夫さんの「暁の寺」、そして孟浩の「春眠暁を覚えず」から取っています。


自分の中に眠っていた何かが、理由無く奔り出した感があります。暁の時が来た、と犇犇と感じています。


志を同じくする同志と、学びを深め、日本の英語教育に資する活動を行いたい、と思い、会の開催を思い立ちました。


多くの賛同を得られることを目的としていません。真剣に、本気で打ち込める会にしたい。真摯に学ぼうとする仲間が欲しい。そういう想いを込めて、暁の会、始動します。


既に準備は進めています。3/30の勉強会で、今後の方向性や、授業研究の骨子、シラバスなどのコンテンツなどについて、語り合い、4/29の会につなげたいと思っています。


どうぞよろしくお願い致します。


暁の会代表 田中 十督


【英語の先生方へ重要なお知らせ】第2回暁の会開催のお知らせ
来る4/29(水)祝日に、英語授業の勉強会を開催します。
内容は以下の通りです。


■日時:4/29(水)祝日、午後13時〜18時半

■場所:福岡市の某所(参加者のみに通知)

■内容:授業研究

■形態:参加者全員、all in Englishの授業形態を取る。指導案を予め作成し、印刷したものを参加者全員に配る。40分の授業を一人ずつ行ない、良かった点、工夫するともっと良くなる点などをシェアし合う、の繰り返し。

■教材:参加者にのみ添付ファイルにて送信

■準備:きちんとした授業指導案を作り、配布するプリント類も作成して、各自で印刷して持参する。

■懇親会:夜に懇親会の予定あり。

■参加資格:以下の場合は、参加をお断りさせて頂きます。

  1. セミナーなどで講師などをしておられる方
  1. 会で授業が実際に行なえない方
  1. All in English で授業を行えない方
  1. 継続的に会への参加が難しい方

■備考:
・参加費などは一切不要です。
・全員が学び合う会です。継続的に続けて、互いに力を高め合うことを標榜しています。
・所属は、中高、公私立を問いません。年齢、性別一切問いません。
・会の呼称を、新たな出発点と位置づけ、「暁の会(あかつきのかい)」とします。
・僕(田中十督)は管理者というだけで、僕が講釈をしたり、何かを教える、という類いの会ではありません。予めご了承ください。

■参加表明:以下のメールにご記入の上、お申し込みください。

dassenglish73@gmail.com


申し込みは
1 氏名
2 所属校名
3 携帯番号
4 メールアドレス
5 会で学びたいこと・シェアしたいこと

の5点を必ず明記の上、お申し込みください。



2015年3月16日月曜日

手は伝える。

今はネットで調べるまでもなく、パソコンやスマホの言語入力機能の中に、日本語がぎっしりと組み込まれていて、予測変換も優秀になってきているので、字が実際に書けなくても、漢字を瞬時に出力する環境が整っている。

だから、「漢字が書ける」能力が衰えていく議論は影を潜め、利便性による言語能力の低下に拍車が掛かることには、世の中の関心が向かない。

書けない漢字、例えば魑魅魍魎とか、顰蹙を買う、とか。そういうのまで書ける必要はないし、話し言葉としては、これらの単語だって普段から耳にするものだから良いんだけれど、魑魅魍魎という文字を見たときに、妖怪物の怪のたぐいがわんさかと出てくる様子が、漢字で表されているので、書けなくても、その語感は伝わってくる。

漢字には象形の意味がある。絵を見て理解する、絵を描いて伝える、という作業の延長線上に漢字という文字が起こったのではないか、と白川静先生の本を読んでいて思う。

為政者の歴史を編む為に文字は整備され、始皇帝の時代にはある程度の完成を見たのが現在私たちが使っている漢字の出発点であって、その汎用性が優れていることは、数千年の歴史の風化を免れていることからも明らかなのである。

さて、自分の話。

ここ数週間、親友とメールのやりとりをしながら、お互いに勉強したことや、読んだ本なんかについて、自由に楽しく話をしている。初めは趣味で読み始めた本も、読んでいるうちに、あまりの日本語の美しさに感動して、やろうよ、と声を掛け合ったわけでもないのに、頼まれもしないノートを買ってきて、読みながら一々感動した日本語をただ筆写するという作業をしている。

その作業をしていて、今では使われなくなった表現や漢字を書いていると、その漢字が使われている時の語感が、身体に血肉化していく気持ちがほんのりと感じられて、身体が温まる。

「肌理細やか」という単語は「きめこまやか」と読むが、僕は谷崎潤一郎さんの本にこの漢字を初めて見て、身悶えした。すごい!肌が整然と細胞を並べている様子を漢字で書くと、肌理と書くんだ!すごい!そんな風に身体を捉え、それを文字にまで昇華してるんだ!すごい!先人達は巨人だ!すごい!あまりの興奮に、そのことを態々親友にメールしてしまった。
漢字は書けなくても今の世の中で立派に生きていける。それで十分だと思う。一方で、翻って考えて見ると、漢字そのものが元々持っていた語感が身体化され、その語感を伴ってその言葉を使う自分と、そうでない自分とをくらべたとき、僕は前者でありたいな、と思った。

先人達が天才性をもって編み出した漢字や言葉を自分も使えるようになりたい、そう真剣に考えている。けしてそれは、それらの言葉を使えない人を小馬鹿にしたり、敢えてそれらの人が分からないような言い回しを振り回して悦に入るような、スノビッシュなことではない。そういう低次元のことではない。

言葉を大切にする、というのは身体にきちんと入れることだと思っている。実際に使う、使わないは別として、それらの言葉がきちんと使いこなせる、運用言語として身体に血肉化している自分、そんな自分はきっと、言葉の裏側にあるもの、その言葉が使われたコンテクスト、あらゆるエクリチュールを纏って放たれる言葉の端々に対して、より深く敏感でいることができるのではないか、と考えたからだ。

言葉は神である。神によってならない言葉は何一つない。これは僕の勝手な言い分ではない。ヨハネによる福音書にきちんと書いてある。言葉は人からの借り物である。口頭伝承や書き綴られ続けることによって、後世である私たちに手によって伝えられた結晶なのである。

僕はその言葉を自分の手で書きたい、と思った。パソコンで偉そうなことを打って、こんな漢字を使えるんだぜ、というような小学生の弟を持つ中学生の兄のような構えではなく、あなたと共に美しい言葉にため息をつきたい、そんな風に思って生きていくことはできないか、と僕は考えているのだ。

美しい日本語に出会ったら、筆写をして唸る。その語感を身体に染み込ませる。僕はそんな風にして日本語を使って生きていきたい。


ではまた^^

2015年3月15日日曜日

来年やりたい英語の授業

来年、どんな授業をしようか、と考えています。入試も変わろうとしている、自分が変わるんだ、という気持ちにシフトしてみたけれど、現状の指導法を縁とすれば、何も変わらないまま、のんべんだらりと一年が過ぎ去ってしまう様な気がして怖いんです。


ここ10年くらい思っていることなんですけれど、世に言う「英語の4技能を伸ばす」っていうのは、わけて考えるものではないのではないんじゃないでしょうか。


読み書きの基礎(単語と文法)はある程度きちっとしていないといけないけれど、運用語彙とか認知語彙とかっていうのは、使っていって自然に身に付くものだから、使う状況をできるだけ多く設定しないと、運用できるようにはならないんですよね。


たとえば英作文を指導していて思うんだけれど、生徒たちは当然書けないです。自分に置き換えて考えると、僕は英語を書く時は英語を喋る時の回路で書いている気がするんです。書いてる最中で、書き言葉だから、この単語よりも、こっちの単語を使った方がより状況には近いし、文章も軽くならなくていい、と思って単語を入れ替える作業を頭で秒速でやっている、というだけの話。


話す=書ける、っていうのは繋がっている。なので、speakingを鍛えると、自然に書けるようになるはずだ、と僕は仮説を立てているんです。


生徒に大量の「和文英訳」や「自由英作文」をやらせるけど、できるようになりません。中学生以下の英文を書いてくるなんてザラ。こちらは躍起になって指導奮闘するけれども、それでもこちらが思い描く様な理想には一向に近づく気配もないんです。果ては「生徒に力が無い」という押付けがましい虚無感みたいなもので落着させるのが日常なんだけど、こちらの指導法を変えてみる、というメソッドが残されていることを、忘れてしまうんですよね。


先生になって20年近く経つから、自分としてはここいらで指導法を変えてみても良いのかな、と思ったりもしているんです。入試改革も呼号されてるし。いい機会かな、と思って。


英語の授業の中で、生徒が英語を喋る時間をもっと増やして行くと良いのではないか、と。また教師が生徒に英語で話し続ける時間を増やせば良いのではないか、って。キザな意味じゃなくてね。


英語を喋れる人って、習得するのにそれなりの努力してるから、話している時に、自分は他人よりも英語が使える、っていう鼻持ちならない気持ちで上から目線しちゃうことがあって、気をつけなきゃ行けないんだけど、そうならないように英語を使わないのではなくて、生徒たちに普段から英語を使うことが自然なんだ、と思ってもらうことに、実はヒントが有るんじゃないか、と僕は思ってるんです。


今考えているのは、授業の開始時にペアでスモールトークをすること、その後歌を歌って楽しむこと、さらにトピックについて英語で書いてみて、それを友達と交換して添削しあうこと、さらに新しい発見を友達と話すこと、グループ討論をすること、っていうのを繰り返し、繰り返しやってみたいんですね。それを繰り返すと、ごく自然に英語を英語のまま使えたり、理解したりできるのでは、と思っているんです。


当然、試験もありますから、それに対する対策みたいなのもしないと行けないんだろうけれど、遠回りに見えるアプローチから、入試すらも超えうる英語力が身に付くことの方が大事なんじゃないか、と思っているんです。


もう一つ。


リスニングを鍛える、って話なんですけど、リスニングもね、同じ様な方法でやれないかな、と思ってるんです。ある程度の長さのものを、映像とともに聞く、っていう動作を繰り返し、繰り返しやる。一応スクリプトは与えるんだけど、意味なんかザッと分かればいい、ってことにしておいて、辞書引かない、調べない、ただ聞く、っていう作業を増やすと良いんじゃないか、と思ってるんです。


生徒のレベルも有るから、初めは簡単な短い映像からスタートして、何を言ってるのかを友達と英語でsmall talkして、その内容をノートに書き留めながら、再度聞く、また話す、また聞く、っていう動作を繰り返せないかな、と僕は考えています。


週の中で行くと、あるクラスの授業の週の1回目がトピックについて話したり書いたりする(読解・ライティング)、2回目はトピックに関連する映像をひたすら見て英語を聞きながら友達と話す、3回目はトピックについて各自で調べて来てそれを発表する、4回目にトピックの内容が書かれている入試問題なりを解いて、それに関する自分の意見なりをアウトプットする、っていう方法で授業をやれないか、と思っているんです。


初めは中々力が上がって行かなくてやきもきもするんだろうけれど、そういう自然な形で授業アプローチをとっていくことで、生徒たちの揺るぎない力がつくのではないか、と僕は考えているんです。


だから、英作文の対策、とか、リスニングの対策、とか、項目別に特化した指導ではなく、包括的に4技能を鍛えて行く、っていうか、レベルを上げて行くような授業ができるのではないか、と思っているんです。


時間は掛かるかもしれないんですけど、そういう方法を来年取りたい。どこの学年だろうがどこの所属だろうが、同じ様なことはできると思っていますので、教科書を使って、どんなことができるのかを月末くらいから考えることができたらいいな、と思っています。


今さっき述べた様なことを柱に考えますと、たとえば中学生になら、中学生に向けた4技能授業ができるはずですし、高校生になら高校生に向けた4技能授業ができるはずです。


そこから、現状打破の糸口が見つかりはしまいか、と僕は睨んでいます。


たとえば自答するんですけど、生徒に書かせた物の添削はどうするのか、って話があって、これも色々考えたんですけど、今考えているのは、まずは生徒たち同士に添削をさせあって、生徒たちの文法チェック能力を上げる、っていうのはどうだろうか、と思っているんです。予めガイダンスの必要はあります。「読んで意味が分からない時は、?、って書いてあげて。文法的に意味が分かんない、って所に線を引いてあげて、友達に返してください。」って伝えて、ひたすら生徒間で添削させる。そうすると、自分の文法チェック能力も上がりますし、書く時の注意点も学び合えますよね。


まとまったものを教師が添削するのは、そういう過程を経てからでも良いのではないか、と僕は思います。添削の手間も負担も、こういうことをした後だと、グッと減りますしね。


まとまったものが書けるようになってくると、今度は読解する時の構えや姿勢が変わってくる。実際に自分も書いてるから、筆者の言わんとするところを汲む装置とか回路ができて来て、ああ、なるほど、って、落としどころとか、ピナクルがどれか、ってことがより明確になるんじゃないか、と僕は考えているんです。だって、自分が読んでる時がそうだから。


今までは自分がやったトレーニングを生徒にさせて、同じ様な技術を習得させたい、と思っていました。確かにトレーニングも大事ね。これ、本当に。単語も文法も構文もとても大事。それが土台なので、できないと話にならないから。


でも、来年度は、運用、という話を第一に据えて、授業をしていきます。準備大変そうだけど、まぁいいや笑。面白そうだから是非やってみたい笑。


面白そうなこと、大好き笑。過激にやりたいですね。


ではまた^^




2015年3月14日土曜日

話が分かり難くてすみません。

話が分かり難くて、すみません。


昨日ブログに発信者の用いる言葉や話について批判的に書いたら、幼なじみに、解ろうとしても解らない人もいるんだ、とご指摘を賜りましたので、言い訳します。


分からない人には何度でも教えますし、何度も説得をする、というのが情理を尽くす、の本意で有あって、分かる人だけが分かれば良い、というのは、理解ができる、という能力のことを言っているのではないんです。全然違う。


分かる人というのは、分かろうとする人のことを指す。分からない人というのは分かろうとしない人のことを云っているのです。


受け手の話と発信側の話が交錯しているので解りづらいと思うのですけれど、そういうことなのだと僕は思っています。


能力の適否によって受け手を選別するのであれば、その言葉はかなり狭い範囲に限定されて発せられることになります。これはたとえば、同じ技術なり、学問なりをやっていたりとか、趣味の話をしている時がそれですね。


思想信条や政治の話、哲学の話をしている時もこれと同じなのかな、と思いますが、上の例とこの場合が違うのは、技術や学問はお互いに専門的な技術なり、用語なりを共有しないと話が前に進まないのに対して、後者は相手の心や考えに訴えかける文章なので、受け手側に読もうとする気持ちがないと、読まれないし、心に入らないんですよね。


受け手側が分かりたいと思っている時というのは、何度も聞き返したり、調べたり、という苦労を惜しまないと思うんです。分かりたい、という気持ちはどこから来るのか。それはその言葉に呼ばれた時であり、その言葉を発した人とアンテナの感度が一致した時なんだと思います。


たとえば、愛着であったり、親しみの感情を寄せている人から発せられる言葉は、自分に取って一番身近ですし、そういう人から発せられる言葉には、相手から「おい、俺の話を聞けよ、な。」って言われなくても、耳や身体が感知して、きちんとキャッチしようと心が起動するんです。本当に。


たとえば家族や身近な先生、これは趣味のサークルで教えてくれる人でも良いんですけど、あるいは友達とか親友とか、親しい知り合いとかが何かを言ったりする時って、別段努力をしなくても聴くじゃないですか。分かること=分かろうとすること、ってそれに近い感覚なのだと僕は思っているんです。


わざわざパソコンなり、スマホなりでブログを読もうと思ってくださる方は、恐らく、今までの話の筋で言うと、僕と親しい人か、僕の教え子か、家族か、友人か、だと思うんですね。


その方々に発するメッセージとして、僕はこの人たちに最大限の敬意を払いたいし、払わなくてはダメだ、と思っているんです。だって、そうじゃなければ、書く意味がないから。


その人たちに分かる様な形でだけ発信をしていると、その人たちに対して使う言い回しや、話の中身がいつも決まって来たりする。そうすると、そもそも同じ様なことを言うんだったら、会ったときにコタツでみかんでも食べながらやりなよ、って話になるんですよね。


ブログに自分の考えなり、思いなりをわざわざ書くんですから、コタツで話せる様なことはコタツで話すとして、読んでくださった方が辞書を引いたり、ググったりしながらでも、読むような内容のことを僕は書きたいんです。


労を惜しまない、ということは、こちらに対して愛情が向けられている、ということですから。逆に、めんどうだからいいや、という気持ちだったらわざわざそんなことしませんし。


愛情を向けて書く、というのは、逆を返せば、相手からの愛情も受けたい、だけども、そこに用いる言葉は特別なものにしたい、薄っぺらな言葉遣いや、ありきたりのことを言うのでは、もどかしい気持ちがある、っていう感情から自然にわき起こることなんじゃないかな、と僕は思っています。


ですから、分からないからもうちょっと詳しく教えて欲しい、と問われれば、時間を惜しまない。相手がきちんと理解してくれるまで、何度でも話しますし、そのときに納得がいかなければ、それこそ長い時間を掛けて伝え続けて行く。そういう行為を通してしか、思いや考えは人の心には届かないのだ、と僕は考えているんです。


だから、難しい話をわざとしている、というのは相手の心や知性に対する僕なりの敬意ですし、配慮でもあるわけなんです。そんなの、なんの配慮だよ、って話だと思うんですけど、僕は自分の話を聞いてくれる人をバカ扱いするようなマネをしたくありませんし、そんな生き方はごめんだと思っています。


僕は関わる人にできるだけ愛情や愛着を持って人生を終わりたい。自分に対して愛着を抱いてくれる人を愛して死にたい。そう思っているんです。自分の揚げ足を取ったり、自分とは合わなかったり、嫌いだと思っている方に対して、時間を割くのは、残りの人生時間をソロバンで弾いても、割に合わないな、と思っているんです。


長くなって申し訳ないんですけど、僕が昨日ブログで書いたこととか、今まで書いて来たこととか、これから書こうとすることは、こういう気持ちに基礎付けられているんです。


りえちゃん、ごめんね^^;


では、また^^





2015年3月13日金曜日

「おまえさ、もっと分かり難い話をしてくれよ。」

「もっと分かり難く話をしてくれ」と、ふと思うことがある。

砂糖を塗したような読み易い文章が跋扈して久しい。分かり易いもの、読み易いものを読者が求めているとでも思っているのだろうか。

傲慢である。

分かり易い話が良く出てくるのは、発信側が受け手側に配慮した、と言えば聞こえが良いが、どうもそうではないのではないか、と10年来違和感を拭えないでいる。

私の知性の在処は、尊重され得ないのか、と。

私の言っていることが分からないと、私の本意が伝わらないでしょうから、あなたに分かり易いように噛み砕きますね、という含意を含んでいるのが読みやすい文章の体ではなかろうか。それは裏を返せば、お前には私の話は分からないだろうから、私が敢えて労を執って、お前に分かり易く話をしてやっているのだ、と云うことになりはしまいか。

これほど受け手側にとっての愚弄はないのではなかろうか。読む傍から、発信側に、お前はバカなんだからさ、と烙印を押されているようなものではないか。面白くない。

「短く、分かり易く、納得のいくように」というのは商売をするときに買い手に対して売り手が使う言葉遣いなのであって、決して読者の知性に刺激を与える話形ではない、と僕は思っている。
(この場合、専門家や研究者が素人の我々に対して話をする際の言語の話をしているのではないことを断っておく。)

僕は商売人ではないので、そんな文章の書き方をしたくないな、といつも思っているし、これからもそのようにしていくと思う。

僕は子ども達や仲間に向けて文章を書きたい。思っていることや考えていることをシェアし、知恵や知見を共有し合い、何かを高めたり、膨らませたりしながら、共に生きる共同体をより居心地良くしたい。僕らの住む社会が炬燵のような場所になればいいな、と思っているだけなのである。

分かり易く、短く、と話をする時には、大事だな、と思うことをかなり端折ったりしなければ行けないことも屡々で、もどかしい。俺が言いたいことはそういうことじゃ一寸足りないんだけどなぁ、まぁ紙面もあるから仕方がないんだけど、と思いながら頼まれ原稿などは書くが、SNSで自由に発信するのに、態々話を分かり易く短くする必要など、毛頭ないと僕は考えている。馬鹿馬鹿しい。そんなことしても、なんの意味もない。

長くて難しい話を人はなかなか読まないよ、と助言を賜ることも過去に有ったが、それが嫌ならば読まなければ宜しいのであって、こんな長い話に付き合ってられないという人に向けて文章を書いたりしたくない、と僕は考えている。

短く、分かり易く話をまとめようとすると、まとめる人の力量や伝えたい情報の質に依って、情理を尽くす努力を発信側が怠ることになりはしまいか、と僕は危惧しているのである。それはいけない。

自分の伝えたいこと、お前に言いたいことがあるんだ、と思うことは、相手が納得してくれるまで、情理の限りを尽くして、受け手に愛情と敬意を最大限払って発せられるべきであって、決して端折ったり、短くして出したりすべきではない、と僕は思っているのだ。それでは愛情不足である。愛の出し惜しみはいけない。愛は無条件かつ無報酬で相手に差し出されなければ、愛ではないからである。

愛スルは動詞である。名詞ではない。言葉ではなく行為行動を指す。端折る行為は、思いを目減りさせ、情念の速度や畜力を削ぐ。目の前に差し出された言葉は初めの勢いを失い、受け手側の脳を揺さぶる火の玉には成り得ないのだ。

この人は一体全体、私に何を問いかけようとしているのであろうか、と受け手側が思うとき、受け手の知性の感度は最高値に達し、臨界まで極限する。

僕は今目の前にいる人に眠る知性に語りかけたい。そう思っている。だから、授業でも、教室でも、普段共にいる人と話をする時、分かり難く、長く、納得がいくまで情理を尽くして語りたい、そんな風に考えているのです。

分かり易い話がいい人は分かり易い話を聴いたら良いと思う。もし心がカチッとクリックされて、長い話が読みたい、と思えばその時にまたお出かけ戴ければ、これ身に余る光栄なのです。

伝わる人にだけ伝わればいい。曲解を招くような、ともすれば広義に曖昧に受け取られてしまうような分かり易い話をするくらいなら、あなたにだけ語りかけるからね、確り聴いてね、と相手の眼を見据えながら話がしたい。僕はそう思う。

それが受け手側に対しての最大の敬意だと僕は考えている。

受け手に対して敬意を払わない文章は愛がない。愛のない文章は力と説得力を持たない。
僕は愛のある文章を紡ぎたい。

受け手の知性に最大限働きかけるように、文章を編みたい。そう思っている。

分かり難い話で申し訳ないが、分かり難いブログにするつもりなので、これからもこの調子は終ぞ変わることはないと思う次第であります。


ではまた^^

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